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2022年12月11日説教「沈黙破られたから」松本敏之牧師

※聖なる杯(CÁLICE)を聴く。(別ウィンドウが開きます)

ルカによる福音書1章5~25節

(1)いくつかの種類の沈黙

講壇のキャンドルに三つ灯がともり、待降節第3主日礼拝を迎えました。今年のクリスマス、鹿児島加治屋町教会では、「だから今日希望がある」というアルゼンチンの賛美歌をめぐるシリーズの説教をしています。前回は2節の歌詞からお話をしましたが、本日は再び1節に戻り、1節の後半の歌詞に目を向けてみましょう。

主が暗い夜を照らし 沈黙、破られたから 固い心、解き放ち 愛の種、蒔かれたから

とあります。その中でも「沈黙破られたから」という言葉に注目したいと思います。スペイン語の原歌詞を直訳すると、「主が沈黙と苦悩を破られたから」となります。

沈黙には、どういう種類の沈黙があるのか、考えてみました。何種類かの沈黙があると思います。大きく分けるならば、否定的な意味での沈黙。もう一つは肯定的な意味で、待つ姿勢としての沈黙です。否定的な沈黙でも、自分から口を閉ざしてしまう場合と、上からの権力によって沈黙を強いられることの二つがあるでしょう。しかしそれはつながっている場合も多いです。

(2)自ら口を閉ざしてしまう

まず一つ目の沈黙は、自分から口を閉ざしてしまうことです。否定的な意味においてです。誰とも話したくない。あるいは話しても通じないことがわかっている。自分の悩み苦しみは他の人にはわからない。

先ほどお読みいただいたルカによる福音書1章5節以下には、ザカリアとエリサベトの物語が記されています。

「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアと言う人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言った。二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年をとっていた。」ルカ1:5~7

ザカリアは年をとっていましたが、現役で仕事をしていました。祭司という仕事には隠退がなかったのでしょう。この夫婦には子どもがありませんでした。子どもは神様の祝福のしるしと考えられていましたから、この夫婦はこれまでどんな思いで過ごしてきたことでしょうか。「子どもが与えられないのは、天罰だ。何か彼らに非があるから、人の目の前で見えないところで何か悪いことをしているに違いない。」人からは、そう言われてきたかも知れません。あるいは何も言われなかったにしても、そういう視線を感じていたのではないでしょうか。そうした中、彼らは、何も言い返せない、恥ずかしい思いをしていたかもしれません。

彼ら自身は、「人にはどう見られようとかまわない。ただ神の前では正しく生き抜こう。」そういう風に夫婦で考えていたのではないでしょうか。人とのつきあいにおいては、本音のところでは付き合えない、人知れず、その悩みを夫婦だけで分かち合って生きてきたのではないかと思います。自分たちの気持ちは人には分かってもらえない。それを自分だけで、あるいは夫婦の間だけで閉じ込めている。いわば、そのことに関しては自ら沈黙するか、沈黙を余儀なくされていたのではないでしょうか。

しかしそうしたところから、主の物語が始まるのです。特にクリスマスの物語はそこから始まっていくのです。このザカリアとエリサベトの存在は、まさしく苦しみと悩みに満ちて、主を待ち続けてきたイスラエルの民の歴史を象徴しているようです。そしてまさしくそれを示すように、ここではイスラエルの民全員を代表して、ザカリアが主の聖所に入って、香を焚くことになるのです。

(3)権力者に沈黙を強いられる

しかしそれらよりも、もっと深刻な沈黙もあります。時の権力者に沈黙を強いられることです。ロシアや中国では、今、政府を批判することができない。ミャンマーでもそうです。多くの弾圧が行われています。言論統制が行われています。中東の国々、たとえばイランにおいて、イランで22歳の女性マフサ・アミニさんが髪を隠す布(ヒジャブ)の「不適切」着用を理由に逮捕され、急死した事件を受けて抗議活動が広がりました。しかしイラン司法府は、12月8日、デモ参加者1人に対して死刑を執行したと発表しました(「朝日新聞」2022年12月9日)。見せしめのようなものです。それによって、民衆に対して、沈黙を強いているのです。

(4)聖なる杯(CÁLICE)

ブラジルを初め、ラテンアメリカ諸国も、1960年代半ばから1980年代初めにかけて多くの国が軍事政権になりました。そして先ほど述べた国々同様、軍政の抑圧があり、弾圧があり、言論統制がありました。今日は、そうした社会情勢の中で生まれた、一つのポピュラーソングを紹介したいと思います。

それは、1978年に発表された曲です。今日は、皆さんに歌詞カードと私の日本語による対訳をお配りしました。受け取っていない方がありましたら、挙手してくだされば、係の人がお持ちします。

1978年と言うと、軍政の弾圧がまだまだ厳しかった頃ですが、この曲はすばらしい芸術作品でありつつ、一種のプロテスト・ソングになっているのです。ちなみに、「だから今日希望がある」という賛美歌も、同じ頃に、同じような政治情勢の中で、アルゼンチンで書かれた賛美歌です。

この時代に多くの人たちが連れ去られ、リンチを受け、暗殺されます。言論の自由が封殺されたことが背景にあります。キーワードは、CÁLICE(カリシ)という題名です。これは聖杯、聖なる杯という意味です。ところがカリシという言葉は、「黙れ」という言葉の同音異義語でもあるのです。つづりは違います。聖杯のほうは、対訳に書いてあるとおし、CALICEです。「黙れ」というのは、CALAR(カラール、黙らせる)という言葉に、「自分を」(SE セ) という言葉がついていますので、「自分を黙らせろ」ということです。ポルトガル語ではどちらもカリシと読みます。

「カリシ」という言葉を聞くと、「聖なる杯」と同時に、ブラジル人には「黙れ」という風に聞こえるのです。ここにそれを当てはめてみますと、「この杯を私から過ぎ去らせてください」というのが、「この『黙れ』を私から過ぎ去らせてください」と、隠喩になっているのです。

この歌の最初の言葉は、Pai, afasta de mim esse cálice「父よ、この杯を、私から取り除けてください」というのですが、これは言うまでもなく、イエス・キリストのゲツセマネの夜の祈りの言葉が元になっています。

それが聞きようによっては、「父よ、この〈黙れ〉を私から過ぎ去らせてください」というふうにも聞こえます。それは、沈黙を強いられている社会状況の中で、そうした事態から私たちを解放してください、という祈りの言葉にもなっているのです。

そのことは、二番の「沈黙して目覚めるのはなんと苦しいことか、夜の沈黙の中では気が狂いそうだ」というのと、深く結びついています。だんだんイエス様の言葉と違ってきますが、基本的にはその言葉がモチーフになっております。イエス様が、人間として、今のブラジルにおられたら、きっとこういう気持ちになるだろう。こう叫ばれるだろう、ということかもしれません。明らかにこれは、軍事政権に抵抗している歌です。

最後のほうに、「カリシ! カリシ!」という叫び声のような合いの手が入りますが、それは「杯」と言っているのではなくて、「黙れ! 黙れ!」と言っているのです。

この曲はジルベルト・ジルとシコ・ブアルキというMPBの大物二人の合作です。今日お聴きいただくのは、このシコ・ブアルキ自身とやはりMPBの大物でありますミルトン・ナシメントという人のデュエットといいますか、掛合いの演奏です。この曲もMPBが生んだ傑作の一つではないかと思っております。

※音楽を聴く。(別ウィンドウが開きます)

CÁLICE (Gilberto Gil / Chico Buarque)
Pai, afasta de mim esse cálice
Pai, afasta de mim esse cálice
Pai, afasta de mim esse cálice
De vinho tinto de sangue

聖なる杯(カリシ)(ジルベルト・ジル/シコ・ブアルキ)
父よ、この杯を私から過ぎ去らせてください
父よ、この杯を私から過ぎ去らせてください
父よ、この杯を私から過ぎ去らせてください
血の色のぶどう酒の杯を

Como beber dessa bebida amarga
Tragar a dor, engolir a labuta
Mesmo calada a boca resta o peito
Silêncio na cidade não se escuta
De que me vale ser filho da santa
Melhor seria ser filho da outra
Outra realidade menos morta
Tanta mentira, tanta força bruta

この苦い酒をどうしたら飲めるのだろう
痛みを丸飲みにし、労苦も飲み込む
口を黙らせても胸には残る 街の中は静かにならない
聖母の息子であっても何にもならない
他の人の息子であった方がよかったのに
死よりはましというだけの(もう一つの)現実
あまりにも多くの嘘、あまりにも多くの暴力

Como é difícil acordar calado
Se na calada da noite eu me dano
Quero lançar um grito desumano
Que é uma maneira de ser escutado
Esse silêncio todo me atordoa
Atordoado eu permaneço atento
Na arquibancada pra a qualquer momento
Ver emergir o monstro da lagoa

沈黙して目覚めるのは、なんと苦しいことか
夜の沈黙の中で、私は気が狂いそうだ
けだもののような叫びをあげたい
聞いてもらうにはそれしかない
このおおいつくす沈黙で、私は気が遠くなる
ただ気が遠くなりながらも、いつ湖から
怪物が現れても見ることができるように
観客席で神経をとがらせるのである

De muito gorda a porca já não anda
De muito usada a faca já não corta
Como é difícil, pai, abrir a porta
Essa palavra presa na garganta
Esse pileque homérico no mundo
De que adianta ter boa vontade
Mesmo calado o peito resta a cuca
Dos bêbados do centro da cidade

太りすぎた豚は、もう歩かない
使いすぎたナイフは、もう切れない
ああ父よ、この扉を開けるのは難しいのです
喉元にひっかかったこの言葉
ホメロスのように騒々しいこの酔っぱらい
善意をもっていても何にもならない
胸を黙らせても、頭からは消えない
街の酔っぱらいたちの頭からは

Talvez o mundo não seja pequeno
Nem seja a vida um fato consumado
Quero inventar o meu próprio pecado
Quero morrer do meu próprio veneno
Quero perder de vez tua cabeça
Minha cabeça perder teu juízo
Quero cheirar fumaça de óleo diesel
Me embriagar até que alguém me esqueça

恐らく世界は小さくはないのかも知れない
人生は完結する事実ではないのかも知れない
私は自分自身の罪をつくりだし
私は自分自身の毒で死にたい
私は、今度こそあなたの頭から離れたい
そうすれば私の頭も理性をなくすだろう
ディーゼルオイルのにおいを嗅ぎたい
誰かが私のことを忘れるまで酔っぱらいたい

(日本語訳:松本 敏之)

いかがでしょうか。ブラジルのポピュラー音楽の世界はなかなか深いなと思います。しかもキリスト教の文化が背景にある。聖書のことを知らない人がこれを聞いても、一体何のことかわからないでしょう。

この歌、もしも当局から「そんな歌を歌ってはいけない」と言われたら、「いやこれはイエス様の言葉ですよ」という逃げ道を用意しているのですね。よくできたレジスタンスの歌、プロテスト・ソングであると思います。

(5)沈黙は聞くこと、待つこと

さて沈黙の話に戻りますが、沈黙には、否定的な面だけではなく、肯定的な面もあると思います。

詩編62編には次のような言葉があります。

「私の魂はただ神に向かって沈黙する。 私の魂は神から。 神こそわが岩、わが救い、わが砦。 私は決して揺らぐことがない。」詩編62:2~3

あるいは詩編65編にはこういう言葉があります。

「シオンにいます神よ。 あなたには沈黙も賛美。」詩編65:2

沈黙、それは、聞く姿勢でもあります。自分がしゃべるのではない。誰かが語るのを聞く。特に神が語られるのを聞く。あるいは神が語られるのを待つ姿勢、そして何かが起こるのを待つ姿勢です。その意味では、アドベント、待降節というのは、この沈黙して待つ時期であるということもできるでしょう。

(6)神から命じられた沈黙

ザカリアは、天使から子どもが与えられるということが告げられた時、それを疑いました。そしてそのために神様から口がきけなくされました。口を閉ざされたのです。

「あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」ルカ1:20

これはいわば、ザカリアの二度目の沈黙でした。それは実際的な沈黙です。口が利けなくなった。これはさきの沈黙、誰も私のことを理解してくれないから口を閉ざすという沈黙とは、少し種類が違いますが、私たちは沈黙して待つことの中に、さまざまな恵みがあることを知るのではないのではないでしょうか。人と分かち合えない中で、神様だけはすべてを分かっていてくださる。そこで祈りを強くすることもあるでしょう。実際に沈黙を強いられる中で、改めて聞くことを学ぶ。自分が語るよりも人が語ることを聞き、そして何よりも神様が語られるのを聞く。そこで、恵みを味わうこともあるのではないでしょうか。

この時、ザカリアはエリサベトと話をすることはできませんでした。この夫婦の沈黙の5ヶ月はどのようなものであったでしょうか。私は、必ずしもつらいだけ、不自由なだけのものではなかったのではないかと想像するのです。

(7)新しく語り始めるため

沈黙は一つには聞くためですが、もう一つは新しく語り始めるためであります。沈黙は、それが否定的なものであれ、肯定的なものであれ、沈黙のまま終わるのではありません。 ザカリアは、この後、神様から口が利けるようにされて、沈黙から解かれた時に、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(ルカ1:68)という歌を歌い始めます。そのザカリアの賛歌は、「ほめたたえよ」という最初の言葉から、ベネディクトゥスと呼ばれます。

沈黙は新しい歌を歌い始めるための、恵みの準備の時であるという風にも言えるでしょう。それはアドベントの過ごし方そのものを指し示しています。神様がそのようにして準備の時を備え、喜びが爆発するように、沈黙が破られる、そういうこともあるのです。

私たちの人生において、誰とも分かち合えない悩みをもって、いわば心の中で沈黙を抱えていることもあるかも知れません。実際に、本音を話すことができない、という沈黙を強いられることもあるかも知れません。しかしそれもまた、神様をほめたたえる準備の時である。そのように受け止めて歩んでいきたいと思います。

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