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2022年10月9日説教「真 心」松本敏之牧師

出エジプト記20章3節
マタイによる福音書6章24節

(1)神学校日

本日は、日本基督教団が定める神学校日です。教会が教会として正しい信仰に基づいて歩んでいくためには、やはり牧師が必要です。そしてそのためには牧師を生み出していく神学校が必要です。さまざまな例外はありますが、基本的にはそういうことであると思います。その例外のひとつに、神学校へ行かずに牧師になる道、教団ではCコースと呼んでいますが、そういう道が定められています。飯田瑞穂牧師、小井沼眞樹子牧師もCコースで牧師になられた方々です。しかしその場合も、「神学校へは行く必要がない」と思われたわけではなく、地理的事情や家庭の事情などで行けなかったのであり、神学校の存在は大事だと認識しておられたことと思います。ですから機会あるごとに、神学校のスクーリングに参加したり、聴講をしたり、神学校との交わりをもっておられました。それゆえに神学生以外でも、その準備中の方々に奨励をしていただくように、厳密にいえば、神学校日・伝道献身者奨励日というふうにしています。

私たちは、日本基督教団の三つの神学校、日本聖書神学校、東京神学大学、農村伝道神学校を覚えて、また日本基督教団伝道委員会を通して各神学校に教会から献金していますが、それ以外に、特にかかわりの深い日本聖書神学校に対しては、皆さんに直接献金をお願いしております。封筒が用意されていますので、どうぞよろしくお願いします。

また各神学校から機関紙が発行されていますので、どうぞご覧いただければと思います。

(2)他宗教の人々と共に歩む

さて先月から学び始めた十戒の本文ですが、今日からいよいよ十戒の具体的な言葉を一つずつ読んでいくことになりました。第一の戒めは、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」という言葉です。この言葉は、ある意味で非常に排他的な言葉です。他のすべての神々を退ける。「わたしがあなたにとって唯一の神である」と宣言しています。宗教のこうした排他性こそが、今日の紛争の大きな原因だと考える人もあります。

かつて「信徒の友」が、「他宗教と共に歩む」という特集を組んだことがありました(2002年3月号)。それ以前は、そういう発想もなかったかもしれません。巻頭言にこのように記されていました。

「グローバル(地球規模)の時代になりました。世界が共に生きる時代です。それに対して、人々の間を切り裂き、互いに対立と憎しみを起こさせるものとして、宗教の相違と対立が目立ちます。またそれぞれの地域でも、昔はキリスト教圏とかイスラーム圏などに分かれていたのが、一つの社会に多くの宗教が並立するようになりました。このような宗教多元社会で、他宗教の人々とどのように交わってゆくかが問われています。

今日、暴力や軍事力に訴えてでも自分の宗教を拡大し、支配権を打ちたてようとするような形での宗教的排他主義は許されないことを、多くの人が認識しています……。

キリスト者は、他の宗教についてどのように考え、他宗教の人々とどのように交わったらよいのか。」

中を開いてみますと、牧師と禅宗の住職との対談があったり、宗教の違いを超えて部落問題にかかわり、協力し合っていること(同宗連)が報告されたりしていました。その中でも、森本あんりさんという方(当時は国際基督教大学教授)による「他宗教を尊ぶキリスト教とは~宗教は平和を妨げるものか」という論文は、取り分け有意義なものであると思いました。森本さんは、「もし、一つの宗教を信ずることが、必然的に他の宗教を軽んじたり否定したりすることにつながるのだとすれば、キリストを信じつつ平和を求めることは、はじめから矛盾した不可能なことだ、ということになってしまうでしょう」と言われ、自分の信仰に確信をもつことと他宗教の信仰をもつ人に寛容であることは矛盾しないということを、論理的に述べておられました。

(3)多神教の時代か?

かつて梅原猛という哲学者が「これからは一神教ではなく、多神教の時代だ」ということを言っていました。一神教の文化がいかに多くの紛争を生み出してきたを指摘しながら、宮崎駿(はやお)のアニメ映画『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などにあらわれている多神教的平和の世界に目を向けよう、と主張しています(『朝日新聞』2002年1月1日など)。恐らく多くの日本人が賛同するのではないかと思います。私自身も「確かに一神教を信じる者は反省をしなければならない」と思いましたが、その一方で「さりとて多神教になったからとて、ことは解決するのだろうか。それはいささか安易に過ぎるのではないか」ということを、逆に強く感じました。「一神教がだめだから多神教」というのは、実は本当の神様と出会っていない人の発想ではないかという気がいたします。

(4)出会いと選び

「信仰」というのは、ある意味で「出会い」のような事柄であります。私が聖書の神を信じているのは、数ある宗教を調べて、「やっぱりキリスト教が一番よい」と思って選んだ結果ではありません。私は、私の側からすれば、たまたま、イエス・キリストと出会ったのです。私の前には、幼い頃から聖書があり、それを説いてくれる人があり、それらを通して、イエス・キリストというお方が語りかけられた。「私を信じなさい」「私に従ってきなさい」と呼びかけられた。それに「はい」と返事をして、クリスチャンになりました。

大人になってから教会へ来られた方は、もしかすると、「自分でキリスト教を選んできたのだ。それなりにいろいろと勉強して、やっぱりキリスト教が一番だと、決断して入信した」とお考えになるかも知れません。しかしそのような方にとっても、一旦信仰をもつようになった後は、「自分が選んだように思っていたけれども、実はそのような道を、神様が、そしてイエス・キリストが整えていてくださったのだ」ということ改めて感じられるのではないでしょうか。逆に言えば、そうでなければ、まだ本物の信仰ではないという気もします。イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われました。

「あなたには私をおいて他に神があってはならない」という第一の戒めは、実はこのイエス・キリストの言葉、「選び」と深い関係があります。最初に神様の選びがあったのです。そしてその神様と一体どういう関係をもつのかが問われるのです。

前回も申し上げたとおり、この十戒には序文がついていますが、すべての戒め(言葉)を読むときに、いちいち、この序文から初めて「それゆえ」を挿入して理解すべきだというようなことを言いました。そのことは、とりわけこの第一の言葉を読む時に、大切なことです。

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(それゆえ)あなたには、私のほかになにものも神があってはならない」。

この神様は、自分を「私」と呼び、私たちに向かって「あなた」と呼びかける神様です。「人は」というような三人称ではないのです。これは戒めという以前に、契約の言葉だということを心に留めなければならないでしょう。ですからここで問われているのは、第一義的には、他宗教の信仰に生きる人のことではなく、聖書の神様とその神様から二人称で語りかけられた者、私たちのことなのです。

またここで、「あなたがた」と言わないで、「あなた」と単数形で呼びかけられることもはっとさせられます。このことは私たち一人一人に向かって、「あなたは」と迫ってくる言葉であります。同時にイスラエルの共同体、神の民、キリスト教的に言えば、教会のことを「あなた」と呼んでおられると、読むこともできます。

(5)謙遜と忍耐

「ハイデルベルク信仰問答」は、この第一戒について、次のように記しています。

「問94 第一戒で、主は何を求めておられますか。/答 わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために……、唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」

「謙遜と忍耐の限りを尽くして」とあります。神様を神様として立てるということは、謙遜と忍耐を必要とすることであります。そう簡単なことではありません。

聖書の時代から今日まで、この第一戒のために命をかけてきた人々が大勢いたということを、私たちは忘れてはならないでしょう。そのことはすでにローマ帝国の時代に始まっております。「カエサルを拝め」と言われたことに対し、「いや、まことの神以外は決して拝まない」と信仰を貫いて、多くの人々が殺されていきました。

もっと身近なところで、日本の教会においても、あるいは日本の支配下にあった朝鮮半島の教会においても、そのことが第一に問われたのだということを、私たちは忘れてはならないでしょう。この第一戒の信仰に生き抜くということは、そう生易しいことではないのです。

(6)ボンヘッファー「教会の罪責告白」

ディートリヒ・ボンヘッファーは、ナチス・ドイツの時代に、ヒトラー暗殺計画に加わったということで投獄され、その後に処刑されることになりますが、獄中で、「罪責告白」という文章を遺し、十戒のひとつひとつについて「罪責告白」をしています。

たとえば、この第一戒については、こう記しています。

「教会は告白する。-教会は、イエス・キリストにおいてすべての時代に啓示され、彼と並んでいかなるほかの神をも忍び給わない唯一の神についての使信を、十分公然と明確に宣べ伝えなかった。教会は、その臆病・逃避・危険な妥協の罪を犯したことを告白する。教会は、その見張り人としての役割をしばしば怠った。教会は、その結果、迫害され・軽蔑された人々たちに、負い目を感じて憐みの手をさしのべることをしばしば拒絶した。教会は、罪なき者たちの血が天に向かって泣き叫んでいるゆえに、叫びを上げねばならなかった所でも、口をつぐんだままであった。教会は、ふさわしい言葉を、ふさわしい方法で、ふさわしい時に、見出さなかった。教会は、信仰の背反に抗して血を流すまでに抵抗せず、大衆が神を見失う事態を引き起こしたことに対して、責任がある。」ボンヘッファー『現代キリスト教倫理』森野善右衛門訳、70~71頁

これは、とても厳しい言葉です。この言葉の背景には、ドイツの教会の多くがヒトラー政権のもとで、ヒトラーの言う通りの教会形成をしていたという罪責の告白があるのです。ボンヘッファーをはじめとする多くの人々が、やはりこの第一戒に徹底して殉教するほどまでに固執したかがうかがえます。

先ほど読んでいただいたマタイ福音書6章24節言葉も、それに関係するでしょう。

「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を重んじて他方を愛するか、一方に親しんで、他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイ6:24~25

「富」というのは「マモン」という言葉で物質神とも訳せるものであり、人格をもって私たちに迫ってくるものです。この次の第二戒の「偶像を拝んではならない」にも関係してくるでしょう。私たちは、つい自分に益をもたらしてくれるもの、あるいは一見、自分に安全を与えてくれるかに見えるものにつられ、真の神様よりも、そちらに向かいそうになります。そこでまことの神様に仕える。まことの神様のみを拝む、ということが問われるのです。先ほどのナチス・ドイツの例で言えば、真の神様に仕えるのか、それともヒトラーに仕えるのか、究極の選択が迫られるのです。

(7)真の対話が成り立つ基礎

この主を私たちの生活の中にお迎えし、この主と共に生きること、そこに私たちが揺るがない人生を送る道があります。それは一見、排他的に見える道でありますが、それを通り越したところで、他の信仰をもつ人と共に生きる道も示されてくるのではないでしょうか。

森本あんりさんも示唆しておられことですが、私たちは自分の信仰に確信をもっていて初めて、他宗教の信仰に生きる人々と、真剣な、そして対等な対話ができるのだと思います。別の宗教の人から「自分の信仰に確信がもてないような宗教だったら、対話するに値しない」ということを聞いたことがあります。私は、私の信仰に確信をもっている。彼も自分の信仰に確信をもっている。そうしたところで初めて本当の対話が成り立つのです。

私にとって、イエス・キリストを通してあらわされた神様は、ある意味で絶対的なものです。そのことがどんなに大事なものであるかということ、それがかけがえのないものであることを本当に知っているからこそ、他の人にとっても同じように、その人の信仰がかけがえのないものであることを共感できるのではないでしょうか。

私たちは聖書を通して、神様から呼びかけられた民です。そしてここに呼び集められた群れです。「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」という神様の言葉を恵みの呼びかけと信じ、そしてその中に、私たちの生きる道を見出していきたいと思います。

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