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2022年5月15日説教「支 援」松本敏之牧師

出エジプト記17章1~16節
エフェソの信徒への手紙6章10~20節

(1)モーセの手

本日は、出エジプト記の第17章から御言葉を聞いてまいりましょう。17章は、前半と後半で全く違う二つの物語が記されていますが、先に後半の物語から見ていきたいと思います。

イスラエルの人々は、レフィディムで、アマレク人の襲撃を受け、戦わざるを得なくなりました。これはイスラエルの人々がエジプトを出た後に経験したいわば最初の戦いでありました。モーセは従者ヨシュアに向かってこう告げます。

「私たちのために男たちを選び、アマレクとの戦いのために出陣しなさい。明日私は神の杖を手に持って丘の頂きに立つ。」(9節)

このヨシュアというのは、後にモーセの後を継いで、イスラエルの民を率いるリーダーになっていく人物です。ヨシュアはモーセの命じたとおり、戦闘の現場で指揮を執り、モーセは、アロンとフルと一緒に丘の上にのぼって、それを見守るのです。

不思議なことが起きました。モーセは手を上げるのですが、手を上げている間は、イスラエル軍が優勢になり、モーセが手を下ろすと、アマレク軍が優勢になったというのです。モーセのこの仕草は、一体何を意味しているのか。これははっきりとはわからないのですが、多くの人がそう解釈するように、私はやはりこれは祈りの姿だろうと思います。私たちが祈る時は、普通、頭を垂れて手を組んで祈りますが、ユダヤ教では、手をあげて天を仰いで祈りました。

イエス・キリストが語られたたとえの中に、「ファリサイ派の人と徴税人の祈り」というのがありますが、そこに「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」(ルカ18:13)という言葉があります。これは、普通は目を天に上げて、天を仰ぐことが祈りの姿勢であったことが前提になっています。

モーセは神様に、「どうかイスラエルの民を見放さないでください。共にいて共に戦ってください」と、丘の上で天を仰いで祈ったのであろうと察します。モーセが手を上げて祈っている間は、イスラエル側が優勢を保ちました。しかしモーセも人間ですから、ずっと手を上げていることはできません。だんだん手が下がってきます。モーセの手が下がると、こっちが劣勢になりました。とうとうアロンとフルは石を持ってきて、モーセの下に置き、モーセはその上に座りました。さらにアロンとフルは両方からモーセの両手が下がらないように支えました。そういう情景が目に浮かびます。それによってモーセの手は日が沈むまで下がることはなく、イスラエル軍はアマレク軍をうち破ることができたということです。

(2)聖書を誤って読む危険性

こういう戦いの物語を読む時に、なかなか複雑な思いにさせられます。これを現代の戦争に安易に重ねあわせて読むことは誤っていますし、危険であると思います。私たちの世界の歴史は、ある意味で戦争の歴史であったと言えると思いますが、そこではいつも自分たちの側に正義があると信じて、戦いがなされてきました。

キリスト教の歴史においても、十字軍というのがあり、「イスラム教世界を取り戻し、キリスト教世界にするため」(レコンキスタ)という大義を掲げ、実際に「十字の御旗」を掲げて、敵を「征伐」してきました。そこでは、非常に単純に、神様は自分たちの側につき、自分たちの味方をしてくださるという安易、かつ危険な考えがあったということを、忘れてはならないでしょう。自分たちの戦争を神の御名で正当化するという大きな罪を犯していたという点を顧みることがあまりにも少なかったと言わざるを得ません。

旧約聖書を注意深く読んでみると、神様は必ずしもいつもイスラエルの味方をしてきたわけではないことがわかります。たとえばエレミヤ書には、神様はあえて愛するユダ王国、そしてエルサレムを罰するために、バビロニア軍を用いて、エルサレムを滅ぼされる、ということが出てきます。そうであればこそ、神様は公平な方であると思うのです。

(3)神は弱い者の味方をされる

この時、アマレク軍と闘ったイスラエル軍(軍と呼べるかどうかさえ疑問ですが)について、二つのことを確認しておきたいと思います。

ひとつは、このイスラエル軍は、解放された奴隷たちによる烏合の衆のようなもので、決して闘うための集団ではなかったということです。彼らはアマレク軍が攻めてきたので、仕方なく自衛のために戦ったのです。こちらから敵を攻めて滅ぼすということではなく、自分たちを守るための戦いでありました。それは、ちょうど今、ロシアからの侵略に対して、自分たちの国や人々を守るために闘っているウクライナの人々のようなものだと言えるかもしれません。

もう一つは、ここでのイスラエル軍というのは、先ほど申し上げましたように解放奴隷たちであって、弱小集団であったということです。神様は、弱い者が踏みにじられるのを見過ごしにされない、そういうお方です。

ですからその集団がひとたび強者の側に立って、自分たちを守るだけではなく、自分たちを脅かす危険性のあるものを、強大な武力でもって攻めるということになれば、話は違ってくるでしょう。ある時には、確かに神様は自分たちの土地や人々を守るために戦っている人たちを支援されるけれども、ひとたび勝者となって、それまで自分たちを苦しめた人々に対する報復のような行動に出るならば、神様はそこまで味方をされることはないと思うのです。

(4)備えあれば憂いなし?

ニューヨーク・ユニオン神学大学院の教授であった小山晃佑先生が、「備えあれば憂いなし」という言葉について語っておられたことを思い出します。小山先生は、こんなことを語られました。「『備えあれば憂いなし』という考えは非常に危険です。偶像なのです。『備えあれば憂いなし』ということで、まだ攻撃してきてもいない『敵』、攻撃してくる可能性のある相手を、次々と攻撃していくと、一体世界はどうなってしまうでしょうか。そういう「備え」は間違っています。そういう『備え』はすればするほど、『憂い』も増していくでしょう。」

ロシアがウクライナ侵攻を始めた時、ウクライナ側は何も攻めていませんでした。「ウクライナがNATOに加盟すれば、ロシアはとても危ない状態になる。NATOの脅威を感じて、やられる前にやってしまおう。備えあれば憂いなし」と言うことで、ウクライナ侵攻が始まりました。しかし実際はどうであったか。「備え」をすればするほど「憂い」も大きくなって、もはや引き戻せなくなってしまっている状態であると言えるのではないでしょうか。このことが引き金となって、フィンランドやスウェーデンまでNATOに加盟申請をするようになりました。ロシアの「備え」は、「憂い」をさらに大きくしたと言えるでしょう。

話を戻しますが、聖書の神様は、基本的に弱い者が踏みにじられるのを見過ごしにされず、それをかばって守られる神様であるということを忘れてはならないでしょう。

私は、もう一つの例として、今日のイスラエルという国家のことを思い起こしています。イスラエルという国家は、歴史上、最も大きな苦難と迫害を経験してきたはずのユダヤ人によって成り立っています。それにもかかわらず、いやそれだからなのかも知れませんが、自分たちを守るために、今は強者の側に立ち、弱者のパレスチナの人々を抑圧していると言えるでしょう。これもまた「備えあれば、憂いなし」という思考です。これはユダヤ人の歴史上、かつてなかったことです。パレスチナ人の人権を侵害した上に成り立つイスラエルという国家を、神様はそのままで祝福されることはありえないと私は思うのです。

(5)信仰生活の戦い

さてこの物語がどういう意味を持っているのか。聖書の物語を象徴的に理解するのは、必ずしもよくないかもしれませんが、私はやはりこのところでモーセが手を上げて祈っている姿は、私たちの祈りの生活、信仰生活を象徴しているのではないかと思うのです。不断の祈り、耐えざる祈りこそが、私たちを神様と結びつけるものであり、私たちをいろいろな戦いから守ってくれる、そしてそれに勝利する道であると思います。

信仰生活の戦いについて、エフェソの信徒への手紙は、このように象徴的に述べています。

「最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天に対する悪の諸霊に対するものだからです。それゆえ、悪しき日にあってよく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。つまり、立って、真理の帯を締め、正義の胸当てを着け、平和の福音を告げる備えを履物としなさい。これらすべてと共に、信仰の盾を手に取りなさい。それによって、悪しき者の放つ燃える矢をすべて消すことができます。また救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェソ6:10~17)

いかがでしょうか。武具の用語を用いて、見事に信仰生活の戦いについて述べています。そしてそこから祈りについて述べ始め、最後に、「自分のためにも祈ってくれ」と願うのです。

「また、私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘儀を知らせることができるように、私のために祈ってください。私はこの福音のための使者として鎖につながれていますが、どうか語るべきときに、私が堂々と語ることができるように祈ってください。」(エフェソ6:19~20)

エフェソの信徒への手紙は、パウロの名によって書かれています。パウロが書いたのではないという説もありますが、少なくともパウロが信仰のゆえに獄中に置かれていた状況をよく言い表していると思います。パウロもまた誰かに祈られることを必要としていたのです。

(6)祈りの生活も誰かに支えられる

それはモーセの祈りの手がアロンとフルによって支えられたということと重なってきます。モーセもアロンやフルの、そしてヨシュアの支援を必要としました。信仰生活の戦いは一人の戦いではないのです。共に戦う仲間がいるのです。

一人ではどうしても疲れてしまう。手も心も下がってきてしまう。しかしそれを続けることができるように支えてくれる人たちがいたのです。

私たちの祈りと感謝の生活も、一人で維持できないと思う時に、他の人の祈りによって支えられるということがあるのではないでしょうか。私たちの傍らに誰かが立って支えてくれるのです。それは私たちの家族であることもあるでしょうし、教会の仲間であることもあるでしょう。あるいは私たちよりも先に天に召された信仰の先達であるかも知れません。「すでに天に召されたはずの方が今の自分の信仰生活を支えてくれる」「お父さん、お母さんの信仰を思い起こす時に、自分の信仰も支えられる」ということが、あるのではないでしょうか。

そしてそれは、もしかすると私たちの友人、隣人、家族の姿をとったキリスト自身であるかも知れません。私たちの手は支えられるのです。私たちの祈りと感謝の生活は、そのようにして支えられ、モーセが無事に夕方を迎えたように、私たちも人生の夕方を迎えることができるのではないでしょうか。

(7)マサ(試し)とメリバ(争い)

さて前半の物語(1~7節)に戻りましょう。「マサとメリバ」と題されています。15章22節以下に続いて、飲み水の話です。このマサとメリバという地名も、7節の言葉から推測できるとおり、「試し」「争い」という意味があります。彼らはシンの荒れ野を出発し、旅を重ねて、レフィディムに宿営しました。しかしまた水の問題に直面します。15章では水が苦くて飲めなかったのですが、今回は水そのものがありませんでした。

「民はモーセと言い争いになり、『飲み水をください』と言った。モーセは彼らに言った、『なぜあなたがたは私と争うのか。なぜ、主を試すのか。』」(2節)

この前の16章でも、神様は食べ物をめぐって、その不平を聞きあげて、マナを与えてくださいましたが、彼らはそのことも忘れてしまったかのように、再びモーセに向かって不平を述べ立てます(3節)。何だか彼らはずっと同じことを繰り返しているように見えます。しかし苦しい状況であるのはモーセもわかっているので、モーセは再び神様に訴えます。彼らはモーセを殺さんばかりに詰め寄り、モーセはそのことを率直に神様に訴えました(4節)。神様は言われました。

「民の前を通り、イスラエルの長老を何名か一緒に連れて行きなさい。ナイル川を打ったあなたの杖も手に取って行きなさい。私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民は飲む。」(5~6節)

モーセが神様の言われた通りに、岩を打つと、そこから飲み水がわき出てきました。このエピソードも15章の話同様、神様が造られた自然の秩序の中に、すでに解決の道が準備されていた。神様はモーセにその場所を示されたのでした。神様は、民の困難を放置される方ではないのです。

(8)キリストの岩

この出来事に関連して、もう一つ、興味深いパウロの言葉をご紹介したいと思います。

「きょうだいたち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼を受け、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(コリント一10:1~4)

イスラエルの民が経験した出来事を、パウロはまさにキリスト論的(キリスト教的に)に解釈し、洗礼と聖餐の予型(プロトタイプ)として理解しています。つまり前半の「私たちの先祖は、雲の下におり、海を通り抜け」というのは、「モーセにあずかる洗礼」だったのだと解釈します。また「同じ霊的な食物を食べ」というのはマナの奇跡のことで、「同じ霊の飲み物を飲んだ」というのは、この17章の岩からほとばしる水のことです。そしてこれを聖餐式の予型(プロトタイプ)として、理解するのです。そして最後に「この岩こそキリストだったのです」という「あっと驚く、解釈をします。それはユダヤ教の人からすれば、何と勝手な解釈を、ということになるでしょうが、キリスト教的に言えば、「先在のキリスト」ということです。つまりキリストは人間イエスとしてお生まれになる前から、天にあって父なる神と共におられた。そのキリストが、ここでは岩として、神の民と共におられるしるしとなられたのだということでしょう。ちなみに、「岩」には「ヤハウェの神」という意味があります。

このことは、私たちにも、気づかないところ、知られないでいるところにキリストの水がある。知らないでいるところに、キリストがすぐ近くにおられるということを語っていると思います。そのことを心に留めつつ、感謝と祈りの生活を形成していきたいと思います。

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