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2022年4月24日説教「食 物」松本敏之牧師

出エジプト記16章13~27節
マタイによる福音書6章11節

(1)不平を聞かれた神

本日は、出エジプト記第16章全体から御言葉を聞いてまいりましょう。出エジプトの民はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かいました。荒れ野に入りますと、イスラエルの人々は再びモーセとアロンに向かって不平を述べ立てます。

「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。」(3節)

話は、このようにイスラエルの民が不平を言うところから始まるのですが、神様はこのイスラエルの民の不平を聞きあげてくださいました。

「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。民は出て行って、毎日、一日分を集めなさい。」(4節)

それを受け、モーセは民に向かって語ります。

「主が夕方には、あなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが並べ立てた不平を聞かれたからである。私たちを一体何者だと思っているのか。あなたがたが不平を言ったのは、私たちに向かってではなく、主に向かってなのだ。」(8節)

「私たちを何者だと思っているのか」とは、「私たちに一体その資格があるのか」とか「私たちは人間に過ぎないではないか」という含みをもっているのでしょう。

(2)うずらとマナ

その後は、今読んでいただいたとおりですが、夕方になると、うずらがいっぱい飛んで来て、宿営を覆いました。これは「夕方にはあなたがたに食べる肉を与える」という約束がこのような形で実現したということでしょう。ちなみにこのうずらとマナの物語は、民数記11章にも出てきますが、そこでは少し違った書き方がなされています。神様は「そんなに肉を食べたいのならば、食べさせてやる」という具合にうずらの大群を送るのです。彼らは、うずらの肉をいやというほど食べるのですが、その後激しい災い(食中毒でしょうか)が降りかかって何人も死ぬことになります(民数記11:31~34)。

この出エジプト記のほうは、そういう不信仰についての裁きということではありません。懇願の仕方は間違っていたかもしれませんが、その内容は納得のいくことであったからでしょう(エリソンの注解書による)。

朝になると宿営の周りに露が降りていました。「降りた露が上がると、荒れ野の地表に薄く細かいものが、地の上に霜のようにうっすら積もって」いました(14節)。

イスラエルの人々は「これは何だろう」と言いました。彼らには見たことも食べたこともないものでした。「これは何だろう」というのが「マナ」という言葉の語源だと言われます。モーセは彼らに言いました。

「これは、主があなたがたに食物として与えられたパンである。主が命じられた言葉はこうである。『それぞれ自分の食べる分を集め、一人当たり1オメルずつ、自分の天幕にいる人数に応じて取りなさい。』」(15~16節)

(3)神が与えた糧

このマナというのがどういう食べ物であったのか、また実際には何であったのか、よくわかりません。31節には、「それはコリアンダーの種のようで、白く、蜜の入った薄焼きパンのような味がした」とあります。またそれは、翌朝までとっておくことはできないものでした。先ほどの民数記11章の方では、こう記されています。

「民は歩き回ってそれを集め、臼で挽くか鉢ですり潰し、鍋で煮てパン菓子にした。その味は、油を含んだものの味であった。」(民数記11:8)

おいしそうですね。食べてみたくなります。この二つの記述でも微妙に違いますが、それがかえってリアルな感じがします。味の感じ方というのは一人一人違いますし、料理の仕方、食べ方というのも違うものです。

このマナが実際に何であったのかを解明しようとする試みもあります。タマリスクという木の樹液から一種の黄白色のフレークまたは玉ができるそうです。あるいは別の説明によれば、アブラムシの一種がギョリュウ科の低木の果実に穴をあけ、このジュースからある物質を排泄する。それは日中の暖かいときには溶けるけれども、寒くなると固まる。味は甘い。土地の人はそれを料理してお菓子のようにして食べる。とても腐りやすいし、蟻がつきやすい。そういうものが実際にあり、またそれを、その地方ではマナと呼んでいるそうです。

こうしたものと、マナについての聖書の伝承は、恐らく何らかの関係はあるのでしょう。しかしここで大事なことは、この不思議な食べ物は、神様ご自身が彼らのために備えられた天からの糧であったということです。それか聖書が語ろうとしていることです。みんなその日一日分だけ取ることが許された。欲張って翌日の分まで取ったら、虫がついて臭くなってしまった、あるいは日が高くなると溶けてしまったということです。おもしろいことに、ある人は多く集め、ある人は少なくしか集められませんでしたが、オメル升という量りで量ってみると、みんな必要な分がぴったり与えられたというのです。「よーし、今日はいっぱい取ってやるぞ」と言って、がんばってみても同じでした。その代わり病気か何かで少なくしか取れなくても、ちょうど必要な分は取れたということになります。つまり必要な分は神様が定められる。そしてその分は神様が必ず約束して与えてくださるということです。何かしらこの世の原理とは違う原理が働いているのです。これはひとつの奇跡と言えるのではないでしょうか。

(4)六日目は二倍

もうひとつおもしろいことがありました。それは六日目になると、普段の倍の量が取れたというのです。六日目は二倍働いたというのではありません。他の日と同じ働きをしているのに、どういうわけか収穫は二倍になっていた。それは七日目が安息日であるからだというふうに説明してあります。他の日は翌日まで取っておくことはできないのに、この日に取った分だけは、煮たり焼いたりはしたかも知れませんが、翌日まで取っておくことができました。ここでもまた欲張りな人がいて、安息日であるにもかかわらず、マナがないかどうか見に行くのです。しかし何もありませんでした。

そこで神様は再び登場します。

「あなたがたはいつまでわたしの戒めと律法を守ることを拒むのか。見よ、主はあなたがたに安息日をお与えになった。それで六日目に、主は二日分のパンをあなたがたにお与えになる。七日目には、それぞれ自分のところにとどまり、その場所から出ないようにしなさい。」(28~29節)

これは命令形で書いてありますが、裏返して言えば、「七日目は働かなくてもいいように、私はきちんと考えているのだ」ということでしょう。ざっとそういう物語です。

(5)まず神の国と神の義を求めなさい

さてここにはいろいろなメッセージが含まれていると思いますが、一番大事なことは、「神様は私たちに必要な糧を、毎日与えて養ってくださる」ということでしょう。私たちには、毎日の生活に対する不安があります。この時のイスラエルの民の訴えは、「エジプトでは肉の鍋が食べられたのに」という、いわばわがままな不平でした。エジプトにいた時に、どんなに苦しい目にあったのかということは引き合いに出さずに、いいことばかり思い起こしています。私たちはつらい時というのは、どうもそういう傾向があるのではないでしょうか。その時はその時で大変であったのに、何かいいことばかり思い出して、「それに比べて今は何と大変なのだ」と不平を言うのです。

このようなわがままでなくとも、この荒れ野の旅路にはさまざまな不安と困難が伴っていたに違いありません。何とか翌日まで取っておこうとする人がいたり、安息日にまで何か来ていないか見にいったり、というのは、確かに不信仰ではありますが、必ずしも貪欲とまでは言い切れないかも知れません。私たちだって明日のことは心配です。

しかしこの物語は、神様が決してそのような不安、困難、悩みを放置される方ではないということを語っているのではないでしょうか。イエス・キリストはこう言われました。

「明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)

その直前では、こう述べられています。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな添えて与えられる。」(マタイ6:33)

この言葉を語られた時、イエス・キリストは、「空の鳥を見なさい」と言われました。「(空の鳥は)種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ6:26)

今回のマナの話もちょっとそういう面があります。働いて収穫を得たというのではありません。あの鳥に与えられたのと同じように、いわば無償で与えられた。朝起きたら、そこにあったのです。もちろんそれを拾い上げることはしていますが、特に労働といえる程のものではありません。神様がこの食べ物を無償で与えてくださったということが主題でありましょう。

私たちは、たとえ信仰をもっていても、誰しも将来への不安を持っているものです。自分のことはその日その日を神様に委ねるということでいいかも知れませんが、子どもに対してはそういうわけにはいかない、と思われる方もあるでしょう。確かにそうかも知れません。子どものために明日の備えをすることは、親の責任でしょう。私は、そのことと「明日のことを思い煩うな」ということは、必ずしも矛盾しないと思います。そういう親としての責任を果たしながら、最後のところでは、神様に任せていくより仕方がないものです。しかし逆に言うと、任せることが許されているのです。いや最後のところを任せるのではなく、むしろ、最初に神様に任せて、その大きな御手の中で、自分のなすべきことをなしていくのではないでしょうか。それが本来的な生き方であろうと思います。

「まず神の国と神の義とを求めなさい」というのは、明日のために何もしないでよいということではないでしょう。日々の事柄に追われている生活の中で、一体何を優先すべきか、まず何をなすべきかということが問われているのです。それを考え、実践する中で、心がゆるめられ、思い煩うことなく自由な形で、次になすべきことが見えてくるのではないかと思います。

(6)恵みの契約

ここから学ぶべき第二のことは、人間の不信仰によっても、神様の恵みの契約は損なわれなかった、神様の恵みの態度は変わらなかったということです。

ノアの箱舟の話を思い起こします。洪水の物語です。あの洪水の後で、神様はこう言われました。

「主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。『人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。』」(創世記8:21)

洪水の後、人は何も変わらなかったかも知れませんけれども、神様の中で何かが変わったのです。それは「人が悪いという理由で、今回のようなことは二度としない」と、神様が自分で決意されたということでした。これは大変なことを語っています。神様と私たちの関係というのは、対等ではありません。普通、私たちの間の(人間同士の)契約というのは、対等な関係の上に成り立っています。ですから双方がなすべきことを守って初めて契約が成り立つ。しかし神様と私たちの契約もそのようなものであるならば、いつも人間の方が契約不履行ということで、破綻してしまうわけです。そのことを神様が悟ったというのです。

だから人間がどんなに不信仰で不平を述べ立てたとしても、それによって、恵みの態度を変えることをしない、ということです。むしろ神様のほうからいつもその関係を修復する道をつけていかれる。私は、神様のそうした決意の果てに、イエス・キリストの姿が浮かんでくるような気がいたします。

(7)試練を通して幸福へ

ただしそれは人間がそのままでよいということではありません。三つ目に申し上げたいことは、その不信仰を修復するために、神様は試練を通して、悔い改めの機会を与えられるということです。今回のところでも、「これは彼らが私の律法に従って歩むかどうかを試すためである」(5節)と記されています。

ただ何のために試されるのか。それによって、後でもっとひどい裁きをなすためなのか。そうではありません。むしろそのことによって、本当に彼らを養っているのが誰であるかということに気づいて欲しい、必要かつ十分な糧を与えることで、まことの養い主がその向こうに立っておられることに気づいて欲しいということであると思います。荒れ野の40年の旅が終わろうとする時、モーセは振り返ってこのように語りました。

「あなたの神、主がこの40年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。」(申命記8:2~3)

そしてこの言葉の続きを読んでいきますと、その結論のようにしてこう記されています。

「それはあなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためであった。」(申命記8:16)

興味深い言葉です。何のために、苦しめて試されたのかといえば、「最後には、幸せにするためであった」というのです。これは私たちには、なかなかぴんと来ないことであるかも知れません。「試練」と「幸せ」というのは、随分かけ離れたことのような気がします。しかしその試練によって、人はパンだけで生きるのではなくて、主の口から出る言葉によって生きることを知る。そしてそのことを知る中にこそ、私たちの幸せがあるということなのでしょう。

イエス・キリストは、別のところでこう語られました。

「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

イエス・キリストこそがまことの糧であって、私たちはその言葉によってこそまことの命を得る。その信仰を新たにして、今週も歩み始めましょう。

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