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2022年2月13日説教「賛 歌」松本敏之牧師

出エジプト記15章1~21節
マルコによる福音書4章35~41節

(1)旧約聖書中、最古の賛歌

私たちは前回、出エジプト記14章の「モーセとその一行がエジプト軍に追いかけられ、追いつめられる中、神様が海を二つに分けて道をひらき、そこを通らせてくださった。その後、エジプト軍はその海の中に投げ込まれてしまった」という物語をご一緒に読みました。今日の15章は、その出来事の後、「モーセとイスラエルの民が、主なる神様を賛美して歌った」という歌であります。

この15章をよく読んでみますと、二つの歌が記されていることが分かります。ひとつは1節から18節までの長い歌であり、もうひとつは21節だけの小さな歌です。こちらは、モーセとアロンの姉であったミリアムが歌ったとされています。

ミリアムの歌の方は、こういう言葉です。

「主に向かって歌え。
なんと偉大で、高くあられる方。
主は馬と乗り手を海に投げ込まれた。」(21節)

この歌は短いので、つい読み過ごしてしまいがちでありますが、これはとても大きな意義を持っています。

というのは、第一にこちらの小さな賛歌の方が前半の長い賛歌の原型であったとみられるからです。このミリアムの歌が後代に徐々に整えられていき、恐らくサムエルの時代に原型ができ、それからダビデ、ソロモンの時代に大いなる賛歌に仕上げられていったのであろうと言われます。この21節と1節とを比べてみますとほぼ同じであり、最初の行だけが違っています。21節の方では、「主に向かって歌え」と命令形ですが、1節では「主に向かって私は歌おう」となっています。それに続く言葉、「なんと偉大で、高くあられる方。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」というのは全く同じ言葉です。前半の1~18節までの長い歌は、いわばこの21節の短い歌を主題とする変奏曲のようになっております。

もう一つ21節の小さな歌の重要な点は、この歌が、旧約聖書中、最古の賛歌の一つであることです。旧約聖書には、特に詩編の中には多くの賛美の歌が記されていますが、この歌はその基本形を示しています。まず複数の人々に対する賛美の呼びかけで始まり、それに続けてその根拠であり、同時に賛美の内容である神様の行為が語られるのです。例えば有名な詩編98編の冒頭も同じ形式です。

「新しい歌を主に向かって歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。
主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。」

そうした詩編の原型が、すでにこのミリアムの歌の中に記されているということです。

(2)主題と変奏

ミリアムについては、後でもう一度述べることにいたしまして、まず前半の長い賛歌を見てみましょう。この歌は先ほど「主題と変奏」という言葉を使いましたが、神様の威光をたたえる言葉と、その具体的な業が交互に出てきます。それは必ずしも時間的順序を追うような形ではありません。4節でこう歌います。

「ファラオの戦車と軍勢を海に投げ込まれ
えり抜きの補佐官は葦の海に沈んだ。
深淵は彼らを覆い
彼らは石のように深みに落ちていった。」(4節)

ここで一旦完結したかのように見えます。しかしそこからまた新たに始まるのです。

「主よ、あなたの右の手は力に輝く。
主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
大いなる威光によって敵を破り
怒りを放って、わらのように焼き尽くす。
怒りの風で水はせき止められ
流れは水の壁のように立ち
深淵は海の中で固まる。」(6~8節)

同じ物語がより詳しく、よりリアルに語られます。その後また神様の力をたたえる言葉が繰り返されます。

「主よ、神々のうちで
誰かあなたのような方がいるでしょうか。
誰が、あなたのように聖であって輝き
賛美されつつ畏れられ
奇しき業を行うでしょうか。」(11節)

そして再び御業の内容です。

「あなたが右の手を伸ばされると
地は彼らを呑み込んだ。」(12節)

(3)平気で時間を飛び越える

ただし13節以降は少し違います。話が将来へと展開していきます。

「あなたは贖われた民を慈しみをもって導き
力をもって聖なる住まいに伴われた。」

彼らはまだエジプトを出たばかりです。しかし「聖なる住まいに導かれた」ということまで述べている。これは40年の荒れ野の旅の後やがて約束の地に入れられたということでしょう。それはその先を読むと、よりはっきりいたします。

「もろもろの民は聞いて震え
苦しみがペリシテの住民を捕らえた。
その時、エドムの首長はおののき
モアブの有力者は震え上がり
カナンの住民らは皆恐れおののいた。」(14~15節)

この人々に、彼らはまだ出会っていません。これから約束の地に入るまでに起こることですが、それが過去形で記されている。

「恐れとおののきが彼らに臨み
御腕の力強さによって
石のように静かになりますように
主よ、あなたの民が通り過ぎるまで
あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。」(16節)

これもこれからの道のりのことです。

海の奇跡の直後に、約束の地に入るまでのことが過去形で歌われているのは、考えてみればおかしなことであります。しかし先ほど申し上げましたように、これは後に、それもダビデ・ソロモンの時代に仕上げられた歌がここに入れられたためであると、そういう説明をすることができるでしょう。
しかしながら後の時代にこの歌が挿入されたのであるにしても、最終的にこの歌をここに入れた編集者がいるわけですから、その人がこの矛盾に気づかなかったはずはないでしょう。それを承知の上で、ここに入れたと思うのです。

ただ私はそのことは何かかえって聖書らしいなと思いました。つまり聖書というのは、神様の働かれる現実を証ししている書物ですが、それは平気で時間を飛び越えるのです。過去の特定の歴史状況について述べながら、その力がその後も働いたし、今も働いていることを語る。現在と過去を、そして時に将来まで自由に行ったり来たりするのです。それが聖書という書物の一つの特徴ではないかと思います。

説教というのもそういう面があります。過去の物語を紹介しながら、それが決して過去のものではないことを語るのです。この過去の物語と同じ力が今、私たちのもとに働いている。神様は今も生きて働いておられる方で、ここに書かれているのと同じことを今、私たちの間でもなされるのだということを確認するのです。

(4)女預言者ミリアム

さてその長い賛歌の後こう記されます。

「アロンの姉である女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちも皆タンバリンを持ち、踊りながら彼女に続いて出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った」(20~21節)。

このミリアムという人は、「アロンの姉」と紹介されていますが、モーセの実の母親が赤ちゃんモーセを葦で作ったゆりかごに入れて、ナイル川に流した時に、ずっと様子を伺いながら、その後を追っていたお姉さんのことでしょう。彼女は、エジプトの王女がこのモーセを拾い上げた瞬間、すかさず王女の前に現れ、「私が行って、あなたのために、この子に乳を飲ませる乳母をヘブライ人の中から呼んで参りましょうか」(2:7)と申し出、実の母を紹介いたしました。とても機転の利く少女だったのでしょう。その少女が、ここでいわば女預言者となって再登場したのです。

これも非常に興味深い記述です。それは、一つには女の預言者がいたということです。この後も聖書の中には何人か女預言者と呼ばれる人が出てきます(列王記下22:14に登場するフルダ、ネヘミヤ記6:14に登場するノアドヤなど)。しかし時代が下るに連れて預言者というのは男の職務になっていきます。それはイスラエルが(そしてこの世界全体が)父権制社会であったことと関係があるでしょう。しかしこの記述は、古い古い時代には女性で神の民をリードする人がいたという事実を掘り起こし、それに光を当ててくれます。

もう一つ興味深いのは、預言者とは言っても、私たちのよく知っているような意味での預言者ではありません。サムエルに始まって、イザヤ、エレミヤと言ったような人の場合とちょっと違うということです。必ずしも神様の言葉を人々に取り次ぐといったことをしていません。タンバリンを叩きながら、みんなの先頭に立って踊った。歌をリードしたということです。

このことを積極的にとらえるならば、こういう形で神と人の間に立つ役割もあるということです。

「なんと偉大で、高くあられる方。
主は馬と乗り手を海に投げ込まれた。」

彼女はその後の時代の男の預言者とはちがった形で、神と人の間に立った、ということができるのではないでしょうか。

(5)新しいタイプのリーダー

私の前任地、経堂緑岡教会の前任者は、一色義子という女性牧師でした。日本基督教団最初の女性の三役として、日本基督教団の書記を務められた方でした(ご健在です)。彼女には『エバからマリアまで~聖書の歴史を担った女性たち』という著書があります。非常におもしろいものであり、それでいて優れた研究に基づいた書物です。この本の中でも、「ミリアム」が取り上げられ、ミリアムの章には「新しいタイプのリーダー」という題がつけられています。ミリアムにヒントを得ながら、新しいタイプの女性ならではのリーダーシップについて丁寧に述べておられます。

ミリアムについて考えるのは興味深いことです。その後の時代(父権制の時代)に封じ込められてしまった女預言者の役割、つまり過去のものに光を当てながら、それが同時に将来の何かしらを指し示すことになるのです。先ほど、聖書というのは過去に光を当てながら、それが現在と将来を行ったり来たりすると申し上げましたが、それがまさに、このミリアムにも当てはまると思います。ミリアムについて考えることは、私たちの教会の将来、いや教会だけではなくて歴史が歩むべき道に終末論的に光が当てられているのではないかと思いました。

ちなみにミリアムという名前は、新約聖書でたくさん登場するマリアという名前の元になったヘブライ語の名前であります。

(6)風や湖さえ従う

先ほどの前半の歌は次のように締めくくられます。

「あなたは彼らを導き、ご自分の山に植えられる。
主よ、そこは、あなたの住まいとして 自ら造られた所。
主よ、そこは、あなたの手によって 建てられた聖所です。
主は代々とこしえに治められる。」(17~18節)

このことは約束の地にやがて入れられるということを、すでに視野に入れていると同時に、歴史のもっとずっと先、ある意味で歴史の終わりに至るまでのことを視野に入れています。

私はこの言葉がいかにして実現するかを、イエス・キリストがこの世界に来られたということの中に重ね合わせてみることができるのではないかと思いました。

先ほどマルコによる福音書の記事を読んでいただきました(4:35~41)。ここに記されていますのは、ガリラヤ湖で嵐に出会った弟子たちと主イエスのお話です。弟子たちが舟を漕ぎだして沖に行ったところで激しい突風が起こって舟は波をかぶり、水浸しになってしまいます。ところがイエス・キリストは舟の艫の方で枕をして、そんなこと何も関係ないかのごとくに眠っておられました。弟子たちは主イエスに向かって、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と訴えます。すると主イエスはすっと起き上がって、風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風も波も静まってしまったというのです。弟子たちは、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言いあいました。

私たちはこの出エジプトの物語を通して、神様が風をも海をも自由に支配される方であることを聞き、そしてその権威についての賛美の言葉を聞いてきました。その神様の力、自然をも自由に支配しながら神の民を守り、導かれる力は、イエス・キリストによって受け継がれているということができるのではないでしょうか。イエス・キリストこそは、風や海さえも従える力をもって、私たちを守ってくださるお方なのです。

そのことは私たちが今、どういう状況にあろうとも、その状況を超えて、そのような確かな将来を見据えることができるということなのだと思います。私たち自身は、今なおエジプト軍に追いつめられたイスラエルの人々のように、「もうだめだ。解決がつかない」と思わざるを得ないような状況に置かれることもあるかも知れません。あるいは、この嵐の中の弟子たちのように、「一体どうすればよいのか。もう溺れて死んでしまいそうだ」というような状況に置かれることがあるかも知れません。

しかしながらそれを超えた方が私たちと共におられるということを知ることによって、その先に将来、未来が開けていると信じることが許されるのです。主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と励まされるのです。

(7)勝利をのぞみ

敬愛幼稚園では、先月、「勝利をのぞみ」(We Shall Overcome!)という讃美歌を1月の賛美歌として歌いました。この後の賛美歌も、この曲に変更しました。『讃美歌21』の471番です。
1960年代、アメリカ合衆国ではまだまだ黒人差別の強かった時代に、マーティン・ルーサー・キング牧師を中心とする人々が、公民権運動を展開しましたが、そのテーマソングのようにして歌われた曲です。厳しい現実を超えて、将来を仰ぎ見、「私たちはやがて、これに打ち勝つのだ」(We Shall Overcome!)という勝利の歌を歌ったのでした。私たちもイエス・キリストが共にいてくださることを信じて、神様をほめたたえて、前に進んでいきましょう。

勝利をのぞみ、勇んで進もう
大地ふみしめて。
ああ、その日を信じて われらは進もう

恐れをすてて 勇んで進もう
闇に満ちた今日も
ああ、その日を信じて われらは進もう
(『讃美歌21』471、1~2節)

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