2021年9月26日説教「過 越」松本敏之牧師
出エジプト記12章1~28節 ルカによる福音書22章14~20節
(1)過越祭と教会暦
月に一度くらいのペースで、出エジプト記を読み進めています。今日は、時間の都合で、12章1節から17節までを読んでいただきましたが、12章28節までをテキストにしてお話します。11章については、次々回、12章37節以下の話の時に、改めて取り上げたいと思います。
今日の箇所は、1~13節のところに「主の過越」という題、14~28節のところに「除酵祭」という題が付けられています。出エジプト記の「主の過越」の記事を読むことは、クリスチャンにとって、とても意義深いことであります。なぜなら、イエス・キリストは、十字架にかかられる前夜、弟子たちを集められて最後の食事をされましたが、それは過越の食事をするためであり、その過越の食事は、その翌日に起ころうとしている出来事を象徴するものであったからです。そうした最後の晩餐の原点にあるのが、この過越の出来事なのです。
神様はモーセとアロンにこのように言われました。
「この月はあなたがたの第一の月であり、一年の最初の月である。」(2節)
かつては一年の始まりは秋であったそうですが、後にメソポタミアの暦にならって春に移されました。
ちなみに教会暦の中心にはクリスマスとイースターとペンテコステがあります。クリスマスが12月25日というのは、実は聖書的根拠はありません。ただしイースターには聖書的根拠があります。だから年によって変動するのです。昔は太陰暦であったからです。
その聖書的根拠というのが、本日の聖書箇所なのです。ちょうど「過越祭」の日に、イエス・キリストが十字架にかかられたからです。イエス・キリストの受難と復活という出来事は、時期的にも内容的にもこの過越の出来事と深い関連があるということを、心に留めたいと思うのです。
(2)過越の儀式
主の言葉は次のように続きます。
「イスラエルの全会衆に告げなさい。『この月の十日に、父祖の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊を一匹用意しなさい。』」(3節)
太陰暦ですので、満月の日は、14日の夜から15日未明と決まっています。10日というのは満月の4日前ということになります。
「もし家族が小さく小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。あなたがたの小羊は、欠陥のない一歳の雄でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。」(4節)
ここで「小羊」と書きながら、「羊か山羊の中から」というのは矛盾するように思えますが、最初の「小羊」というのは、羊と山羊の総称であったようです。別の訳では「小動物」となっていました(鈴木佳秀氏の注解書の訳)。
またおもしろいことに、人数、つまり食べる量によって、逆にどの小羊が最もふさわしいかが選ばれました。一番小さい小羊でも大きすぎる場合には、隣の家族と一緒にしなさい、と言われました。このことは、10節の「それを翌朝まで残しておいてはならない。朝まで残ったものは、火で焼き尽くさなければならない」という言葉とも関係しますが、決して無駄にしないようにという配慮が見られます。
6~9節を見ると、準備の段階から、この儀式が共同体全体の目の前でなされるべきであることが確認されます(8節)。種なしパンというのはイースト菌の入っていないパンです。新共同訳聖書では、「酵母を入れないパン」と訳されていました。
「水で煮て食べてはならない」というのは、恐らく血が残るからでしょう。血は食べてはならなかったのですね。随分と細かい規定がなされています。
さらに「それを食べるときは、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい」(11節)と言われます。急いで、つまりすぐにでも出発できる格好をして食べなさい、ということです。
そして「その夜、私はエジプトの地を行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」(12節)と言われました。この「主」というのは、もともとは「ヤハウェ」というの神様の名前が記されています。エジプトの神様とは違う、という含みです。
「あなたがたがいる家の血は、あなたがたのしるしとなる。私はその血を見て、あなたがたを過ぎ越す。こうして、エジプトの地を私が打つとき、滅ぼす者の災いはあなたがたには及ばない。」(13節)
そのようにして、家の玄関に小羊の血を塗ったのです。
(3)子々孫々にいたるまで
さてこの13節までは、出エジプトに備えて何をすべきかということが記されているわけですが、ここから後14節以下には、この最初の出来事を覚えて、後々までこれを主の祭りとして記念しなさい、ということが記されます。その後には祭りの祝い方の具体的方法が述べられています。
また21節以下では、今度はモーセからイスラエルの長老たちに対して、それがどのようになされるべきかが語られます。ただしここでは過越のことだけが述べられて、なぜか種なしパンの話は出てきません。
最初の部分では(22節以下)、血の塗り方が記されています。一束のヒソプ(葦の一種)を取って、それを平鉢に入れた血に浸す。そしてそのヒソプで、玄関の二つの柱とそれをつなぐ鴨居に、血を塗る。そうすると、主がエジプト人を打つために来られた時に、それを目印として、災いを避けるというのです。
そして、このことはその日に限らず、それから後ずっと毎年毎年、覚え続けよ、と命じられました。
(4)最初の信仰問答
やがて出エジプトが実現し、40年を経て約束の地に入り、だんだんと生活も安定した後にこそ、この最初の出来事を忘れてはならない。だからこのことを伝えなさい、と言うのです。最後にこう記されます。
「あなたがたは、自分とその子孫のための掟として、このことをとこしえに守らなければならない。主が語られたとおり、あなたがたに与えられる地に入ったとき、この儀式を守らなければならない。子どもたちが、『この儀式の意味は何ですか』と尋ねるときは、こう言いなさい。『それは主の過越のいけにえである。主がエジプトの地で、エジプト人を打たれたとき、イスラエルの人々の家を過ぎ越され、私たちの家を救われた。』」(24~27節)
これはとても興味深いやり取りです。キリスト教会、特に宗教改革以降のプロテスタント教会では、信仰問答というものを大切にします。問答形式で信仰の内容を伝えていくのです。有名なものとしては『ハイデルベルク信仰問答』があります。私たちが洗礼準備会で用いている『日本基督教団信仰問答』というものもあります。問いを設定して、それに答えが予め置かれている。カテキズムとも呼ばれます。この出エジプト記に記されているのは、最初のカテキズム、最初の信仰問答と言ってもよいものです。
過越の儀式をどのように行うのかと言いますと、その共同体の中で、言葉が話せる最年少の子どもに、「この儀式の意味は何ですか」と問わせ、それに対して、共同体の長老格の人がこたえるのです。「それは主の過越のいけにえである。主がエジプトの地で、エジプト人を打たれたとき、イスラエルの人々の家を過ぎ越され、私たちの家を救われた。」そういう信仰問答をするのです。毎年毎年、原点に帰って神様の恵みを思い起こし、自分たちの信仰を確認する。言葉だけだとどうしても記憶が薄れてくるので、動作を伴い、ものを使って、それを儀式として守り続けたのです。
この出エジプトの出来事は紀元前1300年頃の出来事です。それをイスラエルの民は、ずっと守り続けてきた。イエス・キリストの時代にも、それをきちんとやっていた。ですからイエス・キリストがなさった過越の祝いは、そこから数えるともう1300回目くらいになっていたわけです。
(5)すべての感覚をもって
私たちプロテスタント教会は、神様の恵みを受ける時にもどうも聴覚中心です。説教を聞くことが中心になります。しかし私たちはそれ以外にも五感をもっています。聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚、この五つです。カトリックの信仰では、聖画や彫刻など視覚に訴える部分が随分あります。またカトリックでもそうですが、ギリシャ正教の教会では、さらに嗅覚も大事な感覚になっています。ミサの途中で煙か何かが出てきて、その香りが神の臨在を象徴しているのです。カトリックでもあります。旧約聖書に記されている「焼き尽くす捧げもの」などというのは、やはり香りを伴っているものでした。それらをプロテスタント教会では、聴覚に絞り込んできたという感じがいたします。もちろんそれには、それまでの教会、あるいはその当時の教会に対する批判がありましたし、パウロも「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」(ローマ10:17)と言っております。しかし私は、そこで何か大事なものを受け損ねているのではないかという気がします。もっともそういうプロテスタント教会でも、味覚というのは、大事な感覚です。聖餐式というのは、舌でもって主の恵みを味わう。それを残しているわけです。
この「主の過越」の儀式は、食事を伴っていました。みんなの前で火を使っていけにえを焼いたわけですから香りもあったことでしょう。そして寸劇のようなこともやった。つまり視覚と嗅覚と聴覚と味覚と触覚、ありとあらゆる感覚を用いて、最初の出来事を子々孫々に伝えることをしたのです。
(6)阿佐ヶ谷教会の記念祈祷会
この出来事を読むときに、信仰の原体験を伝えることの大切さを思わされます。私は神学校を卒業してすぐに、1986年に東京の阿佐ヶ谷教会という教会へ赴任しました。鹿児島加治屋町教会と同じ、メソジストの伝統を持つ教会です。阿佐ヶ谷教会では、毎年1月24日前後の水曜日に記念祈祷会という特別な祈祷会を行っていました。それは阿佐ヶ谷教会の信仰の出発点が祈りであった、祈祷会であったことを思い起こすためであります。
阿佐ヶ谷教会は1924年の創立です。日本メソジスト教会の第二代監督であった平岩愃保(ひらいわよしやす)牧師が監督退任後のご自宅で開いておられた家庭集会から始まりました。それから9年後の1933年に平岩先生は亡くなられたのですが、その時に「これから先、どうするか」ということが遺された人々で話し合われたそうです。まだ教会にはなっていませんでした。「もともと平岩先生を囲んでの家庭集会であったのだから、もうこれで解散すべきだ」という意見も少なくなかったそうです。しかしながらその当時、日曜学校の校長であった佐々木高明さんという方を中心に日曜学校の教師をしていた青年たちは、「大人はそれで自分の教会を探せばいいかも知れないが、子どもたちはそういうわけにはいかない。子どもたちのためにも教会は存続させるべきだ」と強く訴えました。ところがその佐々木校長も、平岩先生召天のわずか半年後、1934年1月16日に、急性肺炎のために亡くなられてしまいます。意気消沈した青年たちは、平岩先生亡き後、礼拝説教をしてくださっていた青山学院大学の松本卓夫先生を訪ね、「平岩先生が亡くなられた後、途絶えてしまっている祈祷会を、ぜひ再開してください」とお願いしたそうです。松本卓夫先生も「それはいいことだ」と賛成してくださって、早速次の水曜日(1月24日)の夜、小さな石油ストーブを囲んで、松本先生夫妻と3人の青年たちで「しずけき祈りのときはいとたのし」(『讃美歌21』495番)を歌い、祈りあったそうです。
『阿佐ヶ谷教会五十年史』には、「戸外は一番寒い時で、祈った会堂も寒かったにもかかわらず、一同の心は何とも暖かく燃え、久しぶりに晴れ晴れしい気持になったのであった」(p.28)と記されています。
祈りの集いから少しずつ、小さな群れは、信仰の力を取り戻していきました。そしてその半年後に、大村勇牧師を迎えて成長していくことになります。
阿佐ヶ谷教会では、「あの時の祈祷会がなければ、今日の阿佐ヶ谷教会はなかった」ということで、毎年1月24日前後の水曜日の夜に、当時の様子を語り伝えながら、記念祈祷会をまもっているのです。私の在任中は、いつも加藤信子さんという方が「このあたりに小さなストーブがあってね」と昨日の出来事であるかのごとく、リアルにお話しくださいました。それを聞く私たちも、あたかもその場にいるかのように、心が熱く燃やされ、一つにされる経験をいたしました。
昨日、阿佐ヶ谷教会の現在の古屋治雄牧師に電話でお尋ねすると、加藤信子さんは2013年に105歳で天に召されたそうですが(キリスト教では大往生とは言わないかもしれませんが)、その後も、毎年行われているそうです。直接の生き証人がいなくなった後も、他の人がそれを教会が受けた恵みの原体験として語り継いでいくのです。
(7)主の過越から聖餐式へ
私は、この過越というのも、そういう経験であっただろうと思います。イスラエルの民の信仰の原点、それは一世代で伝えるには当然限界があります。ところがそれを「この儀式の意味は何ですか」と子どもが尋ね、大人がそれに答えることによって、世代を越えて伝えてきました。そして現代でもユダヤ人たちは、これを毎年守っている。イエス・キリストまでの1300年に、それ以降の2000年を加えると、3300年もそれを繰り返しながら伝えているのです。そういうユダヤ教の伝統は、本当にすごいなあと思います。
キリスト教会では、このイエス・キリストがそれをなされることによって、新しい意味が付与されました。その食事の席を設けられたイエス・キリストご自身こそが、神の小羊、永遠にしてまことの、そして唯一の犠牲の供え物であり、このイエス・キリストによって、神は私たちから災いを、過ぎ越してくださると信じるのです。それがキリスト教の信仰です。そしてその恵みを覚えて、主の過越の伝統に立ちつつ、新たな儀式、聖餐式を行い続けてきました。私たちは、そこでパンとぶどう酒(ジュース)を受けることによって、あたかもあの最後の晩餐に連なっていたかのごとく、恵みを新たに思い起こすことが許されているのです。