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2021年3月21日説教「十字架の上と下で」松本敏之牧師

ヨハネ福音書19章16節b~27節

(1)「イエスの担った十字架は」

 今日、私たちに与えられたテキストは、いよいよイエス・キリストが十字架につけられる場面であります。

「こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという場所へ向かわれた」(16b~17節)。

先ほど私たちは「カルバリ山の十字架につき」という賛美歌を歌いましたが、このカルバリという言葉は、ゴルゴタのラテン名であり、それが英語にもなりました。
 ヨハネ以外の三つの福音書では、イエス・キリストに代わってキレネ人シモンという人が十字架を背負うのですが、ヨハネ福音書では、イエス・キリストが一貫して十字架を背負われるのです。ヨハネ福音書は、イエス・キリストが自ら積極的に十字架を引き受けていく姿を描いていますが、ここでもそのことがよく示されています。
受難節、例年であれば、最初に、讃美歌305番を歌って礼拝を始めていました。家族礼拝では、今年も毎週歌っています。こういう歌詞です。

1 イエスの担った十字架は
いのちの木となり 良い実を結ぶ
キリエ・エレイソン
死のとりこから
よみがえらせてください

6 肩にくいこむ十字架は
いのちの木となり 豊かに実る
キリエ・エレイソン
死のとりこから
よみがえらせてください

 十字架が肩にくいこんでいく。一人の人間を支えるだけの十字架であります。軽いはずはありません。その十字架が一歩一歩進むごとに、イエス・キリストの肩にくいこんでいく。しかしその十字架が、ゴルゴタの丘、カルバリの丘に打ち立てられた時に、この十字架の木は、豊かな実を結ぶというのです。もちろんそれは生きた木ではありません。しかし通常の植物以上の根を大地にはっていく。何と深い意味をたたえた、そしてイメージ豊かな言葉でしょうか。この歌の背後には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)というイエス・キリストの言葉があるのでしょう。その言葉と、十字架が大地に立てられる姿が、重ねあわされているのです。
「キリエ・エレイソン」とは、「主よ、あわれみたまえ」という意味です。このお方こそ、私たちを死のとりこから、解き放つことができる。「どうか私たちをそこからよみがえらせてください」と祈るのです。
 イエス・キリストは他の二人の罪人と共に、十字架につけられます。罪のないお方が他の罪人と肩を並べて、しかもあたかも罪人の中心であるかのように、その真ん中で十字架にかけられている。彼が負わされた十字架は自らの罪のためではなく、彼以外の人たちの罪のためであり、そこには私たちの罪も含まれている。いや本当は、私があそこにいるはずであった。そのことを知る時にこそ、十字架の恵みがひしひしと私たちに迫ってくるのです。
私たちも自らの十字架を背負っていかなければなりません。

「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。

この意味においては、私たちも自分の十字架を背負い、そしてイエス・キリストの隣で十字架にかけられている罪人のようであります。逆に言えば、自分の隣でイエス・キリストが十字架にかかってくださっていることを知る時に、この十字架は軽くされていき、それを担う力が与えられていくのです。

(2)「ユダヤ人の王」という告知

 ピラトは罪状書きを書いて、イエス・キリストの十字架の上に掲げました。そこにはこう記されていました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」。ゴルゴタの丘は、エルサレムの都の外ではありますが、都のすぐそばでした。ですから、多くのユダヤ人がそれを読みました。ユダヤ人だけではありません。その罪状書きは、ユダヤ人たちが使っていたヘブライ語の他に、ローマの言葉であったラテン語、当時の世界共通語(特に通商)であったギリシャ語の、合計三つの言語で記されていました。
これを見たユダヤ人たちは、クレームをつけました。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」(21節)。彼らにしてみれば、そういうことであったでしょう。しかしピラトは、この要求に取り合わないのです。「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」(22節)。これは彼らの言いなりになってしまったピラトの、せめてものプライドであったのでしょうか。ユダヤ人たちに対する仕返しであったとも言えます。しかもこれみよがしに3ヶ国語で書いたのです。
 しかしユダヤ人たちは、どうすることもできません。彼らは、自分たちの目的のために、ローマという国家の権威を利用しましたが、それは自分たちの主権を、ローマに引渡すことでありました。それによって、今度はいかに宗教的なことといえども、その権威が、自分たちに逆らって働くのを止めることができないのです。これは現代世界に通じる象徴的なことです。
 しかしながらそこにも、やはり神の計画が秘められています。ピラトは知らずして、預言者の役割を果たしているのです。彼の思惑を超えて、「イエス・キリストはユダヤ人の王である」ということが、世界に告知されることになりました。

(3)十字架の下の兵士たち

 さて十字架のもとでは、そんなこととは全く関係のないことが繰り広げられています。十字架につけられた人の持ち物、衣服は兵士たちが分けあうことができました。いわば役得です。それで彼らはイエス・キリストの上着を四つに分けたのです。十字架のもとにいた兵士は恐らく4人であったのでしょう。
 ところが下着の方は、縫い目がなく、分けることができなかった。これをびりびり4つに分けると、下着として役に立たなくなってしまう。ですから、これが誰のものになるか、くじ引きで決めました。

「『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった」(24節)。

 これは、詩編22編19節の引用です。
 十字架の上では、世界を揺るがすような出来事、歴史を揺るがすような大事件が起きているのに、十字架の下では、それと全くかけ離れたこの世的なこと、服の取り合いのくじ引きが行われているのです。
私たちは、人の死に接する時にさえ、それに無頓着で、無感動になることがあるということを思わされます。特に、今日のように、世界のニュースが、いつでもテレビやインターネットを通して飛び込んでくる時代には、世界のさまざまな悲劇、大惨事、戦争が報道されながら、それを見ながら平気で笑いあっているということが起きてくる。そうした落差に気づく時に愕然とすることがあります。私たちが見ているこの十字架の光景も、まさにそうしたことではないでしょうか。

(4)四つの上着と一つの下着

 さて、この四つにわけられた上着は一体何を意味しているのか。アウグスティヌスは、これを世界の四つの地域だと解釈しています。その四つの地域にキリスト教が広がっていく。ヨハネ福音書が書かれた時には、すでにキリスト教がさまざまな地域に広がっていました。そうした中で下着は裂かれなかったということは、教会は一つであることを象徴していると言うのです。
 私たちは、イエス・キリストの「大祭司の祈り」に、こういう言葉があったのを思い起こします。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。……あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(17:21~23)。

(5)十字架の下のもう一つの集団

 さて十字架の下には、もう一つ別の集団がいました。4人の女性とイエス・キリストの「愛弟子」であります。
「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(25節)。
4人のうち3人がマリアという名前でした。聖書時代には、この名前が多くあったのでしょう。まわりはどのようであったか。 他の福音書によると、怒号が鳴り響いている。「お前が神の子なら、そこから降りてみろ。そうしたら信じてやろう。」ヨハネ福音書はそのことに何も触れておりません。ただ十字架の下の二つのグループ、イエス・キリストの衣服を分け合っている4人の兵士と、イエス・キリストが十字架にかかっているのを嘆いている4人の女性たちを対比的に描いています。
 イエス・キリストは、母に向かってこのように声をかけます。

「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(26節)。

 この言葉から、私たちはあのカナの婚礼の情景を思い起こします(2:1~11)。母マリアがイエス・キリストに向かって、「ぶどう酒がなくなりました」と言った時に、イエス・キリストは、母マリアに向かって「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と語られました。新しい聖書協会共同訳では「女よ」となっています。「婦人よ」にしろ、「女よ」にしろ、その言い方は、何か親子の情を断ち切るかのようです。マリアはそれに対して、ここでは何も答えません。人々のわめき声によってかき消されそうな小さな、小さな声を、一言も聞き漏らすまいと、ひたすら耳を傾けているようであります。
 そして愛する弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」(27節)。イエス・キリストが愛する母と愛する弟子を執りもたれたのです。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取りました。

(6)ユダヤ人教会と異邦人教会

 ブルトマンという聖書学者は、これは象徴的に、ヨハネの時代の二つの教会を表していると言いました。
 母というのはユダヤ人の教会である。すべての教会はそこから生まれた。いわば母なる教会である。しかしながら、ヨハネ福音書が書かれた時に、成長し続けているのは異邦人教会でありました。異邦人教会というのは、子なる教会であります。異邦人教会とユダヤ人教会の間にはちょっとした緊張と対立がありました。そうした中で異邦人キリスト教会に対して、「母なるユダヤ人教会を尊敬して、受け入れなさい」と言っておられる。逆に母なるユダヤ人教会に対しては、「自分から生まれてきた異邦人教会を子なる教会として認め、愛し、受け入れなさい」と言う。そのようにこの二つの教会を執りもっておられるのだ。ブルトマンはそういうふうに解釈しました。
 世界の教会は、イエス・キリストのもとで一つにされている。裂かれた衣が世界に広がる教会を象徴し、一つである下着が、教会が一つであることを象徴しているように、このイエス・キリストの言葉によって、世界全体の教会が執りもたれているのです。

(7)神の家族、教会の原型

 もちろん、この言葉をそのまま書いてある通りに、受け取る意味も大きいと思います。イエス・キリストが執り成される関係。それまでは全く他人であった二人が、ここで親子とされた。「神の家族」がここにできた。これは教会の原点と言えるのではないでしょうか。以前の教会で、まだ牧師として若かった頃、教会の中で、私のことを「わが息子、わが息子」と呼んで、育ててくださる方がありました。それはまんざら当っていないわけではありません。イエス・キリストの言葉に基づいた親であり、子である。あるいは肉親以上の関係が、ここに形づくられているのです。
 さて、3月第3日曜日の礼拝は、敬愛幼稚園卒園礼拝直後の日曜日として、卒園児たちを礼拝に迎えて、おとなとこどもの合同礼拝としていました。卒園児たちは、卒園礼拝で歌った賛美歌などを奉唱してくれました。昨年と今年は、コロナ禍にあって、合同礼拝は密になるということで実施できませんでしたが、その代わりに、子どもたちの卒園礼拝での歌を動画で流させていただきました。私は、鹿児島加治屋町教会が敬愛幼稚園と共に歩むことができるのは、本当に幸いなことであると思います。 これもまた、神様が、そしてイエス・キリストがひきあわせてくださった「神の家族」と言えるのではないでしょうか。教会の中に神の家族があり、教会と幼稚園、これもまた一つの大きな神の家族であります。
 そうしたことを思いつつ。改めて、卒園児たち、そして在園児たちも含めて、敬愛幼稚園のためにも祝福を送りたいと思います。

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