2021年1月17日説教「確認」松本敏之牧師
出エジプト記6:2~13 ガラテヤの信徒への手紙1:4
(1)モーセとアロンの系図
本日は、6章2節から13節までをお読みいただきましたが、6章2節から7章7節までを扱います。時間の関係で短く、と思ったのですが、やはり後半も読ませていただきます。14節から27節の系図の部分は割愛して、6章28節から7章7節のところをお読みします。(出エジプト記6:28~7:6を朗読)
新型コロナ・ウイルスの感染拡大が止まらず、全国で11都府県に緊急事態宣言が出されました。鹿児島の隣県である宮崎と熊本でも独自の宣言が出されました。そうした中、先週1月11日は成人の日でしたが、多くの自治体では集まる形の成人式祝典を中止いたしました。また昨日、今日と、初めての大学共通テストが実施されています。若い人たちにとっては受験というのは人生の行方を左右するほどの一大行事ですが、どうか無事に試験が行われ、また受験生たちの体調や環境が守られますように、お祈りいたしたいと思います。今日は、そうしたことも視野に入れながらお話しいたします。
まず先ほど朗読を割愛した系図について、細かくお話しすることはできませんが、少し触れておきましょう。系図には何らかの意図があります。系図と言えば、私たちはマタイ福音書の冒頭にあるイエス・キリストの系図を思い浮かべるでしょう。あの系図については、去る11月29日の礼拝でもお話ししましたが、そこでイエス・キリストの血筋を問題にしているのではありません。血筋を問題にするのであれば、あの系図には大いなる矛盾があります。アブラハムからマリアの夫ヨセフにたどりついたところで、ヨセフとイエス・キリストには血のつながりはないからです。ですからむしろ「約束の系譜」を表すものであると考えたほうがよいでしょう。マタイはあの系図によって、イスラエルの歴史とイエス・キリストの誕生が無関係ではないのだということを告げ、それがどう関係しているのかを示そうとしたのでした。
このモーセとアロンの系図もそれに通じるものがあります。モーセとアロンが、神様の大きな計画の中で、どこに位置しているかということを示そうとしているのでしょう。
「イスラエルの長男ルベンは」(14節)と始まります。これは出エジプト記1章1節で「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。」と言って、ヨセフ以外の11人の名前を挙げましたが、その続きについて語ろうとしています。しかしその全員に触れるわけではなく、上から順に、ルベン、シメオン、レビまで触れて、その後は、「レビの子らの名は家系に従うと次のとおりである」と言って、レビの子孫に集中していきます。その途中で、モーセとアロンの両親の名前も明らかにされます。それは20節にあるとおり、「アムラムとヨケベト」という名前でした。「アムラムは叔母ヨケベトを妻に迎えた。彼女の産んだ子がアロンとモーセである」(20節)とあります。
そして最後に「主が『イスラエルの人々を部隊ごとにエジプトの国から導き出せ』と命じられたのは、このアロンとモーセである。そして、イスラエルの人々をエジプトから導き出すよう、エジプトの王ファラオの説得に当たったのも、このモーセとアロンである」(26~27節)というのです。
このあとで、「アロンの役割」について述べられますので、ここで、モーセとアロンが、神様の救いの計画の中で、どのように位置づけられるのかを明らかにしておく必要があったのでしょう。特にこのすぐ後で、アロンの役割について述べられることや、アロンの家系がレビ直系の祭司職を担っていくことから、特に、アロンの位置づけをきちんとしておく必要があると思われたのでしょう。
(2)二つの任務を携えて再登場
さてはじめの6章2節から13節ですが、ここは内容的には新しいことはあまり記されていません。しかしとても大事な箇所です。ここでは、これまで神様が語られてきたことが、再確認されるのです。モーセは、ここで改めて二重の任務を携えて登場いたします。ひとつは、イスラエルの人々に向かって語ること。それが6節から8節で述べられます。そして、もうひとつはファラオに向かって語ることです。それは10節から11節です。このことは5章において、モーセが両方の側から拒否されたことを受けているのでしょう。
ここで神様は、モーセにその任務を告げながら、同時に確認していることは、「わたしは主である」ということ、そして、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」ということです。モーセは、召命を受けた最初の時にも、「どうして自分のような者が」と言って、退こうとしましたが、神様はその都度、モーセの召命と、自分が共にいるということを再確認されるのです。
(3)口べたのモーセ
系図の後、物語は次のように再開します。やはりモーセは神様に訴えるのです。「主がエジプトの国でモーセに語られたとき、主はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。』しかし、モーセは主に言った。『御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか』」(28~30節)。
モーセはかつてミディアンで、神様から同じことを告げられた時も、彼は「全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」(4:10)と言って、自分に課せられようとしている重い任務に尻込みいたしました。しかし神様は「私はあなたと共にいる」と約束し、さらに「アロンを共に遣わす」と約束されて、モーセは重い腰をようやくあげたのでした。今はもうエジプトに帰ってきています。ファラオはもう間近にいます。しかしモーセはこの場に及んで、再び逃げ腰になるのです。
モーセは言います。「わたしは唇に割礼のない者です」。これは内容的には、この前の「口が重く、舌の重い者」と同じようなものですが、あえて神様に「私の唇は清められていない」とい言いたいのでしょう。岩波書店の聖書の翻訳では、「わたしは口べたなのです」と意訳をしております。
私は、これは一方でモーセの言い訳であろうと思いますが、同時に、モーセはやはり口べたであったのだろう、話が下手であったのだろうと思います。神様の言葉を語るのに、口べたであるというのは、ある意味で致命的な欠点であるとも言えます。しかしそのような人間を、神様はご自分の使者として立てられる。そのような口べたの人間にご自分の最も大切な使命を託される。これは一体どういうことなのでしょうか。
モーセが、自分が口べただと言って、神様の召しを断ろうとすると、神様はいわばモーセのスポークスマンとして、兄のアロンを立てます。そうであれば、初めからモーセをはずしてアロンを指導者として立てた方がよかったのではないでしょうか。モーセもそれを望んでいたのかも知れません。「もういい。わかった。お前がそこまでいやだというならば、お前を指導者にするのはやめて、アロンを指導者にする。今後、お前はアロンに従え。」モーセにとっても、その方がありがたいことであったでしょう。もともとアロンの方がお兄さんなのです。しかし、神様はあえて口べたのモーセを立てられた。どうしてでしょうか。
(4)人間の雄弁さではなく
そう言えば、使徒パウロも口べたであったようです。パウロのことをコリントの人々は、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(コリント二10:10)と言ったそうです。おもしろい表現です。神様はどうして、そのような人を立てられるのでしょうか。
それは、そういう口を通してこそ、神の力が働くからではないでしょうか。もしも雄弁な人が演説をして、それにみんなが感動してついてきたとしたら、いかがでしょうか。それはその人の力、その人の能力ということになってしまうのではないでしょうか。その人自身もそのように思うかも知れませんし、みんなもその人をほめたたえ、持ち上げるでしょう。もしもアロンが直接、神の使者として立てられていたら、実際、そうなっていたかも知れません。そうならないように、神様はあえて、口べたのモーセを立てられたのではないでしょうか。それは、そこで告げられる言葉が、雄弁な人間の演説ではなくて、神の言葉であり、神の命令であることがわかるため、神様がこの計画の中心におられることがわかるためではなかったでしょうか。人間の弱さ、欠点を通してこそ、そこに神の力が働く。いやこれは神の力以外の何ものでもないということがわかるために、神様はあえてそういう器を選ばれるのではないか、と思います。
7章1節に、こう記されています。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる』」。この口べたな男がエジプトの王と対峙し、神の代わりとなるというのです。口べたであるからこそ、そこで本当に語っておられるのが神であるということが明らかになるのです。そうは言っても、モーセは自分で語ることすらできません。神から与えられた言葉をアロンに告げ、アロンがそれをモーセに代わって、ファラオに語るのです。「兄アロンはあなたの預言者となる」とは、そういう意味です。預言者というのは、「言葉を預かった者」ということです。アロンは神の預言者ではなく、あくまでモーセの預言者、モーセの言葉を預かった者です。なぜそのような回りくどいことを命じられたのか。それは、そこで語られていることがアロンの雄弁によるものではなく、神から命じられたものであることが分かるためでありました。
(5)使徒パウロの弱さ
今、使徒パウロもまた口べたであったようだ、と申し上げましたが、彼は指導者として立つには、それ以外にもどうも決定的な欠点を持っていたようです。パウロはこういう風に述べるのです。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身にひとつのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(第二コリント12:7)。
この「とげ」というのが、一体何であったのか、よくわかりません。目が悪かったのではないか。いや何か精神的な病い、てんかんであったのではないかという説もあります。いずれにしろ、彼にとっても、他の人にとっても、人前に立つには明らかにマイナスと考えられる何かを、パウロは持っていた。
彼はこう続けます。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」(8節)。これはただ一晩に三回祈った、というようなことではないと思います。彼の伝道者としての生涯のいろんな時期に、三度必死に祈ったということでしょう。しかし彼は三度目に、主なるキリストの声を聞くのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)。
(6)私の二十歳の時
先週、成人式があったということを申し上げましたが、私は、これから大人としての人生を始めようとしている若い方々にも、この言葉を贈りたいと思います。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」青年たちの中にはまだあまり挫折を経験したことのない方もあるかもしれません。若いなりにすでに人生のつまずきを経験しておられる方もあるかも知れません。受験を控えている方、就職活動の最中にある方、恋愛につまずいている方もあるかも知れません。それらの経験はすべて、人生の中で大きな意味をもってきます。
いいこともあれば悪いこともあります。うれしいこともあればつらいこともあります。成功もあれば失敗もあります。それらすべてが意味をもっていますが、どちらかと言えば、ネガティブな経験、みんなが経験したくないようなこと、つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、失敗、不幸なこと、そうした経験ほうが、より大きな意味をもっていると思うのです。なぜかと言いますと、そのような時にこそ、神様がより身近にいてくださるからです。私たち自身がそこで、真剣に神様を向いているからかも知れません。私たちは満ち足りている時は、往々にして神様のことを忘れているものです。成功している時は、有頂天になって、これは自分の力でそうなったと思いがちです。そのような時、そのようなところでは神様の力は働かないのです。神様の力は、弱さの中でこそ発揮されるのです。
私は、二浪いたしましたが、二浪すると、浪人中に20歳の誕生日を迎えることになります。高校時代の友人たちがすでに大学に入って、自分の専門の勉強をしているのを見たり、聞いたりしながら、あせりました。「自分はこんなところで何をしているのだろう。こんなところで足踏みをしていていいのだろうか。短大に行った友だちはもう就職しようとしている。」そんな中で、これから何を勉強すべきかさえ、はっきりとは定まらない自分を、もどかしく思いました。20歳の誕生日の日に、私はなぜか「自分の人生の半分が終わった」という感覚を持ちました。今思うと、随分大げさなことを考えたものだと思います。もちろん「半分」というのは、時間の長さのことではありません。何かしら、自分の人生を導く重要な事柄がすでに決まっている、あるいは自分の中にすでにあるのではないかというような思いをもったのです。自分の中にすでにあるもの、ということで、その時から、急にキリスト教の勉強を本気でしてみたいと思うようになりました。洗礼は高校1年生の時に受けていました。ですから私は二浪していなければキリスト教を学ぶ道に進んでいなかったか、あるいはずっと回り道をしたのではないかと思います。
(7)弱さを誇る
パウロは、こう続けます。「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(9~10節)。これはパウロが苦しんで苦しんで、苦しみ抜いた末に到達した真理です。「わたしは弱いときにこそ強い」というのは、負け惜しみではありません。これは信仰の逆説的真理であります。逆説的真理。この強さをもつ人間はどんなことにもくじけず、生き抜く力が与えられます。弱ければ弱いほど、逆にあたかも空っぽの器に水が、さあっと入って来るかのごとく、神様の力が入ってくるのです。それは自分自身の強さではないがゆえに、かえって強いのです。
モーセとアロンは、この時すでに80歳と83歳であったということです(出7:6)。この二人の年齢も、弱さを表しているのかも知れません。普通の人間であれば終わりの準備をする頃でしょう。しかしこの時彼らは、始まりの準備をしたのです。肉体的には老齢でありつつ、神の力に生かされて、青年としての出発をしたということもできるでしょう。この後モーセは40年におよぶ荒れ野の旅のリードをすることになります。
神様はあえて限界のもの、もうこれで終わりだ、というものを用いることによって、それが神の業であること、そこに神様の力が働くのだということをお示しになったのではないでしょうか。