2020年9月6日説教「世の光」松本敏之牧師
世の光
ヨハネ福音書8章12~20節
(1)突発性難聴
先週の日曜日8月30日、私は突発性難聴の治療のために緊急入院して、礼拝説教も保雄一郎さんに、原稿の代読をしていただきました。動画配信で聞かせていただきましたが、立派に務めを果たしてくださいました。心から感謝いたします。また皆様の、ご心配、さまざまなご配慮、ありがとうございました。おかげさまで、かなり聞こえるようになりました。この病気の治療は早ければ早い方がよいということで、すぐに入院治療にはいったのがよかったのかと思います。まだ完治してはいませんが、お医者さんの話では、「こういう傾向の人は大体完治する」とのことで、ひとまずほっとしています。日常生活に、あまり支障はなさそうです。私は、仕事上も趣味でも、人一倍耳を使っているほうかと思います。このまま左耳が聞こえなければ、どうしようかと思いました。(もちろんその時には覚悟しなければならないと思いましたが。)これまで「耳は聞こえて当たり前」と思っていましたが、そうではない、ということがわかりました。聞こえることの恵みを改めて神様に感謝したいと思います。同時に、聞こえない方々の気持ちや立場や困難を、もっともっと理解しなければと思っています。
(2)大きな火が焚かれた場所で
さてヨハネによる福音書8章12節以下は、本日の日本基督教団の聖書日課です。これは、7章から続く「仮庵祭」という祭りの時の出来事、会話です。仮庵祭というのは、収穫感謝と出エジプトの記念が結びついた祭りでありました。「仮庵」というのは、仮の住まい、仮小屋のことです。掘っ立て小屋のようなものです。このお祭りの時には、家の中庭か屋上に、仮小屋を建てて、そこで寝泊りしたそうです。そのようにして先祖たちの出エジプトの旅を思い起こしたのです。イスラエルの民は、モーセに率いられて、エジプトを脱出した後、40年にわたって荒れ野を旅しましたが、その時に荒れ野で仮小屋に住んだのです。さてこの仮庵祭の時に、エルサレム神殿の中庭、婦人の庭と呼ばれるところに、4つのたいまつを置いて火を灯したそうです。仮庵祭の初日に、そこで火が焚かれると、エルサレム中が照らされました。エルサレム神殿は標高800メートルの高台にありましたので、神殿から火が焚かれると、エルサレムの遠いところからでも、それを見ることができたそうです。この火を焚くという行事も、やはり出エジプトの旅と関係があります。出エジプト記の中にこういう言葉があります。出エジプト13:21~22です。「主は彼らに先立って歩み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」仮庵祭の初日から、祭りの間ずっと、エルサレム神殿の中庭に大きな火が灯され続けたのは、この出来事を記念するためでありました。また8章20節に、「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」とありますが、「宝物殿」というのは、この婦人の庭にありました。つまりイエス・キリストは、まさにこの大きな火が赤々と燃やされていたところで、次のように語られたのでした。12節、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」そこは彼らが、かつて彼らの先祖を神様が昼も夜も迷うことのないように、確かに導いてくださったことを覚える場所でありました。その祭りのその場所で、イエス・キリストは「わたしは世の光である」と語られたのです。「かつて荒れ野で、神様は火の柱でもって、イスラエルの民を導いてくださったけれども、今は、わたしが世の光としてあなたがたのところへ来たのだ。わたしに従ってきなさい。それはあの火の柱よりも確かな道しるべだ。わたしに従って来る者は決して暗闇の中を歩かない。わたしは命の光だからだ」。この話を聞いていた人々の中には、自分たちの上方に赤々と燃えている火を見ながら、「ああそうであったのか。今わかった」と思った人々もいたでしょう。
(3)誰か証人がいるのか
しかしみんながそう思ったわけではありませんでした。かちんときて、「こいつは何を寝ぼけたことを言っているのだ。自分を何様だと思っているのか」と思った人々もいたのです。ファリサイ派の人々は、こう言いました。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」(13節)。「自分で言っているだけならば、信用できない。他に誰か証人がいるか」ということです。彼らの批判は一般論としては当たっているでしょう。今日のあやしいカルト宗教の教祖も、「自分こそ救い主だ」と言います。あるいは「メシアだ。キリストの再来だ」と言う者もあります。ですから、それをそのまま信用したらとんでもないことになるでしょう。 宗教的事柄に限りません。新聞を読んでいても、雑誌を読んでいても、それが記事なのか、宣伝・広告なのかで、私たちは自然と違った読み方をしております。記事であれば、ある程度の客観性をもって、誰か第三者が書いている。まあまあ信用できる。広告ならば、本人、あるいは会社が書いている、となります。ただ最近は新聞でも、広告なのか記事なのか、紛らわしいページが増えています。「いいことが書いてあるなあ」と思って読んでいると、上の方に「広告のページ」とあって、「なんだ、宣伝か」と思うことがあります。自分で自分について言う分には、何とでも言えるわけです。ですから、ファリサイ派の人々の批判は一般論としては当たっているでしょう。しかしイエス・キリストの場合はどうだろうかということを考えたいのです。イエス・キリストは、それを十分承知しながら、あえて別の次元のことを言っておられるのではないでしょうか。
(4)主イエスご自身の口から
主イエスは彼らの表面的な要求に対して、その証人を出そうと思えば、できたでありましょう。最も代表的な証人は洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの証し人として、この世に遣わされた人でありました。まさにそのことこそが彼の使命でありました(ヨハネ1:6~7等参照)。また今日の私たちにしてみれば、「イエス・キリストが世の光である」という大勢の証人がいます。ヘブライ人への手紙の著者の言葉を借りれば、それこそ「多くの証人に雲のように囲まれて」います(12:1、口語訳)。しかしイエス・キリストはあえて、そのような道、つまり「自分の他にも人間の証人がいるよ」という道をとりませんでした。確かに証人は、まわりからイエス・キリストを浮き上がらせてくれるでしょう。しかしまだ不十分です。私たちはイエス・キリストについて何百人、何千人の証しを聞いても、まだイエス・キリストがどのような方であるかということは、間接的にしかわからないわけです。ですからイエス・キリストは、そのような人間の証人を示すよりも、もっと大事なこと、つまり、自分で自分が誰であるかを語られたのです。イエス・キリストについての証しも、それを前提にして初めて意味をもってくるのだと思います。イエス・キリストは、ご自分の口から「わたしは世の光である」と、はっきりと語られました。この宣言を聞くことは、他の何百人、何千人の証しを聞く以上の意味があるのではないでしょうか。
(5)突き放した言葉
イエス・キリストは、ファリサイ派の人々の批判に対して、次のように答えられました。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかしあなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」(14節)。このイエス・キリストの言葉は、ファリサイ派の人々を突き放したような言葉です。また「わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」(18節)とも言われます。もしも二人の証人が必要だと言うなら、私と父なる神で合計二人になるということです。私は、このイエス・キリストの言葉が、どれほど彼らの質問、あるいは論理に合致しているかということは、あまり意味がないように思います。これは答と言うより、宣言として聞いた方がいいでしょう。彼らにしてみれば、イエス・キリストの言葉は、何の答にもなっていなかったでしょう。彼らは、この言葉を聞いた瞬間、怒る前に、皮肉って、あざ笑いながら、「それじゃあなたの父はどこにいるのか」(19節)と言いました。彼らはイエス・キリストのこの世での父親のことを指して言ったのでしょう。イエス・キリストの父親は誰であるかわからないといううわさがあったのでしょう。あるいは「父なる神」のことだとしても「証人というならば、連れてきてみろ」ということかも知れません。主イエスは、こう答えます。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っているはずだ」(19節)。彼らは、自分たちこそ、神の意思をこの世で代行しているのだと自負していましたので、主イエスの答は、むしろ彼らの怒りの火に油を注いだようなものでした。かーっときたに違いありません。しかし彼らはイエス・キリストを捕らえることができません。それは「イエスの時がまだ来ていなかったから」(20節)でした。
(6)世を照らす光、世を裁く光
さてファリサイ派の人々の質問は、非常に浅薄なものですが、それを用いながら、イエス・キリストは、ご自分が誰であるかを、語られました。それは時代を超えて、私たちにも響いてきます。「世の光」の最も大事な側面は、やはり「世を照らす光」ということでしょう(1章4~5節参照)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(1章9節)のです。イエス・キリストこそ、この世を照らす光、道しるべです。かつてイスラエルの民は、荒れ野で迷うことがないように、火の柱という光が与えられました。「こちらが進むべき道だ。」彼らはそれに従って行ったわけです。それと同じように、あるいはもっと確かな仕方で、イエス・キリストは光として私たちの行く道を照らしてくださるのです。「世の光」は、「世を照らす光」であると同時に、「世を裁く光」でもあります。私たちは、光を求めると同時に、光を恐れます。光は私たちの暗い部分、罪の部分や汚れた部分、闇の部分をも、否応なく照らし出すものであるからです。光は裁きを伴っているのです。この8章の最初には「姦通の女」と呼ばれる話があります。先週お読みした箇所ですが、まさにこの話こそ、イエス・キリストが裁きと救いを同時にもたらす光であったということを示しているのではないでしょうか。8章7節のイエス・キリストの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉は、彼らの内面の暗い部分を、明るみに出す裁きの力を持っていました。しかし最後にこの女に対して語られた11節の「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉は、イエス・キリストが、裁きとしての光で終わらず、その向こうに道が開けていることを示す光であったことを示しています。だからこそイエス・キリストという「光」は、「裁きでは終わらない、救いをも指し示している、まことの人生の道しるべとしての光である」ということを心に留めて歩んでいきたいと思います。