松本敏之著『ヨハネ福音書を読もう』上・下2巻 縣洋一評
松本敏之著
『ヨハネ福音書を読もう 上 対立を超えて』(2021年)
『ヨハネ福音書を読もう 下 神の国への郷愁(サウダージ)』(2022年)
(以上、日本キリスト教団出版局)
〈評者〉縣 洋一 「時の徴」166号(2023年1月発行)掲載
「あなたが一番好きな福音書はどれですか。その理由も述べて下さい」。これは、2011年11月11日、受験番号1番で受けた(ちなみに2名しかいなかったが…)、私の神学校入学試験の問題である。皆さんだったら何と答えるであろうか。私は「ルカ」と答えた。恐らく今ならば「マルコ」と答えたであろうか。しかし「ヨハネ」とは答えたいが、答えられない。理由は「心に響く名言」に満ちていながら、「独特の難しさ」があるからである。
しかし、私同様「一人で読んでいてもなかなか分からない」と、そんな思いを抱いておられる方がおられたら朗報である。良い本がある。それが松本敏之著『ヨハネ福音書を読もう上・下』である。目次をめくって、真っ先に「こういうものが欲しかった。」と思わされたのが、ヨハネによる福音書の最初の1章から最後の21章までを上下に分け、それを合計84話で俯瞰的に網羅しているという点である。網羅しているということは、どこでつまずいても良いということである。しかも、ただ網羅するだけならば、注解書を読めばいいだけの話であるが、これが素晴らしいのはメッセージ集であるという点である。
著者が鹿児島加治屋町教会で実際に語り、『恩寵と真理』誌に8年にわたって掲載された原稿を元に書かれたものである。良い本と言うのは一気に読んでしまうということを聞いたことがあるが、一つを読むとまた次が読みたくなり、一気に上下巻を読んでしまった。気付けば「独特の難しさ」と、「心に響く名言」が混在する、ヨハネ福音書の全体像をつかまされている。読んでいて次々と頁をめくってしまうのは、狭く狭く読んでしまいそうな部分を、神の恵みは私たちが考えているよりもずっと広いことを指し示してくれているからだと感じた。
しかもその84話のどれにも、「これはなんだろう」と、マナや燃え尽きない柴を見つけるように、思わず道をそれてしまうような不思議なものが置かれている。それは「ギュツラフ訳」や「本田哲郎神父訳」だったり、「ミサ曲の最後のアニュス・デイ」やカール・バルトの「教会教義学『神の言葉』の1/1」だったり、更には「国会図書館の基本理念」ボンヘッファーの「最後の言葉」「ファネー講演」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、小説「クオ・ヴァディス」、「ニーバーの祈り」、「椎名麟三」、コンピューター用語の「ユビキタス」、内村鑑三の「2つのJ」、「ハイデルベルク信仰問答」、ラテン語の「エッケ・ホモ」、ブルトマンの「ヨハネ福音書」、バッハの「『ヨハネ受難曲』のアリア」、エルンスト・バルラハの「木彫り『再開』」だったりと、そのエピソードが著者の思いに色を添えている。
さて、本書において貫かれているものがある。それが上巻のタイトルである「対立を超えて」であり、下巻のタイトルである「神の国へのサウタージ」である。著者は、第三国で働きたいという願いから、ブラジルに7年もの間宣教師として渡り住み、サンパウロの日系人教会や、北東部(熱帯地方)にあるブラジル人だけの貧しい教会において務めていた体験を持つ。その中で習い覚えた言葉が「サウタージ」。「ポルトガル語で最も美しい言葉の一つ」であるというその言葉の意味は、「今はかなえられないこと、手にすることができないものへの熱き思い」。
まさに、今世界は「対立」の中で「うなだれ、嘆き」の中にいる現実を著者はこう述べる。「ここ数年、特に今年になってから私たちの世界は大きく揺さぶられてきました。2020年以降、世界はコロナ感染症の波に飲み込まれ…コロナ禍は今も続いています。…ロシアがウクライナに侵攻しました。…安部晋三元首相が殺害される事件が起きました…カルト宗教のマインドコントロール、それと癒着する政治の問題…軍事クーデター以降のミャンマーの厳しい状況…」。しかし、著者は、「うなだれ、嘆きつつも、天を仰いで『御国が来ますように』と祈る姿(神の国へのサウタージ)は、この書物全体を貫くものであり、また今日を生きるクリスチャンの姿勢でもある」とあとがきで述べ、天に目向けて祈る「サウタージ」の姿をその表紙絵(渡辺総一画)にし、「サウタージ」をモチーフにしたブラジルの歌「イエス・キリスト・未来の希望」を最終頁に載せている。「うなだれ、嘆きつつ『も』」。ここに「対立」を超える「も」がつけられる根拠が、まさに聖書にあることを、本書を読んで知らされる。
そして、その「サウタージ」は言葉だけで終わらず、具体的な喜びへと向かうものであることを、コンゴ出身のアルセンヌ・ゴロジャさんとの出会いの記事から知らされた(54話『聖霊は今日も働く』)。彼は「内戦により目の前で家族全員を虐殺された」こと、「命からがら日本に逃れてきたにもかかわらず、難民申請は受理されず、品川の出入国管理局に収監拘束されていた」こと、その状況を前に「『あなたをみなしごにはしておかれない』(ヨハネ14:17)という約束は、アルセンヌさんのことと関係ないはずはない」こと、全国の諸教会に働きかけ、「仮放免と在留特別許可を求める署名願い」を出し、そのために「全国から1万5000人以上の署名が集まった」こと、そして「数年後に特別在留許可が下りた」ことを、私は大きな驚きをもって読まされた。
この著者は「旅」することを知っている。旅を知っている者の目は明るい。著者はそのいかにも旅人らしい言葉を「立ち上がりなさい」(20話)でこう述べる。「しかし、そのように絶望し、その状態に慣れきっているこの男の前に、突然主イエスあ現れて、『起きて、床を担いで歩きなさい』」と命令されました。『起きる』『(床を)担ぐ』『歩く』という三つの動詞は、絶望の中から新しい出発をする象徴的な言葉であると思います」。
そして、この著者の旅への『起きる』を支え続けたものを「はじめに」の文中に私は見つけた。何を隠そう青年時代からの愛唱聖句が「あなたがたには世では苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ16:13)なのだそうである。
まさに「はじめに言あり」である。
(あがた・よういち 中野桃園教会牧師・「時の徴」編集同人)