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2026年1月11日説教「明日に向かって種を蒔こう」日本旧約学会会長 小友聡牧師

 

コヘレトの言葉11:1~6 コリントの信徒への手紙二 9:6~8

(1)コヘレトの言葉とは

鹿児島加治屋町教会の礼拝にお招きいただき、皆さんと一緒に主の日の礼拝を守れますことを心から感謝いたします。今日、初めて教会の礼拝に来た、という人もおられかもしれません。そういう方々も歓迎します。皆さんと共に聖書の御言葉に聴きましょう。

今日の礼拝で語らせていただく聖書の言葉は、「コヘレトの言葉」という、初めての方にはちょっと聞きなれない、旧約聖書の書です。この「コヘレトの言葉」は、何度読んでも驚かされます。なにしろ、冒頭から「空の空、空の空、一切は空である」という言葉に出会います。後ろ向きなことが書かれている、そう読める書です。この書のおしまい12章8節にも、「空の空、一切は空である」と記され、「空」が繰り返されます。コヘレトという人は、何もかも空である、空しいと言うのです。この「空」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語で「ヘベル」と言います。このヘベルがなんと38回もこの書では繰り返されます。ずいぶん極端なことが書かれている「コヘレトの言葉」です。けれども、この書を読むと、不思議に慰められるという方がいるでしょうか。聖書の中にこんな「聖書らしくない書」があるので、逆にホッとするかも知れません。今日の礼拝では、この「コヘレトの言葉」に皆さんと一緒に耳を傾けます。

(2)パンを水面に投げよ

朗読していただいた11章1-6節、ここを読んでお気づきになったでしょう。ここには「空」ということは書かれていません。1-2節にこう書かれています。「あなたのパンを水面に投げよ。月日が過ぎれば、それを見出すからである。あなたの受ける分を七つか八つに分けよ。地にどのような災いが起こるか、あなたは知らないからである。」

パンを水面に投げよ、月日が過ぎれば、それを見いだす、とは何のことでしょうか。これは、惜しみなく施しをしなさい、という意味に受け取れますが、それだけではありません。おそらくこれは海洋貿易のことではないかと言われます。たくさんの農産物を運んで船が港を出るのです。けれども、その船は、無事に海を渡って、港に辿り着き、無事に帰って来れるかどうかはわかりません。突然の大嵐があるかも知れないし、また海賊もいます。舟の中で伝染病が蔓延するかもしれない。無事に着ければラッキーですが、ひょっとして、船に積んだ農産物はすべて無駄になるかもしれない。古代の海洋貿易はそれを覚悟しなければなりません。それでも、パンを水面に流せ、すなわち出航せよとコヘレトは命じているのです。

2節には「あなたの受ける分を七つか八つに分けよ」と書かれています。 「七つか八つに分けよ」は、一つの船に全部を積むのではなく、七つ八つに分散する。そうすれば、全滅のリスクは避けられるという提案だと思います。

この「七つか八つに分けよ」は、「七人、八人と分かち合いなさい」と訳すこともできます。それは分かち合うと言うことです。これから先、何が起こるか、どんな災いが起こるか分かりません。想定外の深刻な事故や、戦争が将来、この国に起こるかも知れない。これは現在の私たちの国に、この世界に当てはまることではないでしょうか。だから、今あるものを皆で分かち合いなさいと勧められます。実に現実的で、建設的な提案ではないでしょうか。

空しいことばかり考えているかに見える、悲観的なことばかり考えているかに見えるコヘレトですけれども、そうではありません。とても現実的で、また建設的なことを教えているのです。そういうことがここに書かれている。先が見えないけれども、この先、何があるか分からないけれども、だからこそ、今あるものを皆で分かち合おう。どんな災いがあるかも知れないけれど、皆で共に前に向かって進もうとコヘレトは呼びかけているのです。

(3)へベルの意味とは「束の間」

ここに書かれていることは、ちょっと意外な気がします。ここには「空しい」ということは出てこない。逆に、建設的なことが書かれています。どうしてなんでしょうか。ヘベルという言葉がカギになります。

ヘベルという言葉は、「空」あるいは「空しい」と訳せるのですが、このヘベルは創世記の「カインとアベルの物語」に出て来るアベルという名前と同一の言葉です。アベルは兄のカインに殺されました。そういう意味では、アベルの人生とは儚く、空しかったと言えます。コヘレトは、その「アベル」と同じ「ヘベル」という言葉で実は「人生の短さ」を語っているのではないでしょうか。人生は束の間ということではないでしょうか。そう理解すると少し謎が解けてくるのです。

旧約聖書の時代、人の平均寿命は40歳に達しませんでした。今、私たちは80歳、90歳まで生きるのが普通になっています。けれども、旧約では、人生およそ35年と言われます。20歳になった若者があと生きられる年数は10年くらいなのです。11章の最後に「若さも青春も空である」と書かれてあります。字義通り、青春は短い、まさしく「ヘベル」なのです。そのように「束の間」の人生を見つめ、死を前に残された人生の時間をコヘレトは「ヘベル」と呼び、そのヘベルである人生をどう生きるかを真剣に教えているのではないでしょうか。9章9節には、「愛する妻と共に人生を見つめよ、空であるすべての人生の日々を」と書かれています。「空である人生の日々」と訳されますが、これは「束の間の人生の日々」ということです。

大事なことは、人生が束の間ということは、決して人生には意味がないということじゃない。いや、むしろ、人生は束の間だからこそ意味があるんだ、ということです。もし私たちの寿命が千年、二千年であったとしたら、どうでしょう。きっと、今、生きている充足感はまったくなくなるでしょう。若い人たちは来年の大学入試や就活で、今、必死ではないかと思います。必死になって試験や面接に備えます。しかし、もし二千年の人生が保証されたとしたら、だれも必死になって勉強はしなくなるはずです。二千年生きられるなら、就活や受験は今、必要ありません。50年、60年先でも大丈夫だからです。受験生は、今しかないから必死になって勉強する。時間は「限られているから」大事なのです。言い換えると、束の間でも、いや束の間からこそ、人生は意味があるのです。ヘベルだからこそ人生は意味があるということです。

コヘレトは9章4節でこんなことを言います。「生きている犬の方が、死んだ獅子より幸せである」。ライオンは百獣の王であり、犬は汚れた最も価値のない動物です。けれども、生きている犬の方が死んだ獅子より幸いだと言うのです。これは、いわば「生きてるだけで丸儲け」という意味になります。今、この時、与えられているこの命を大事にして生きるのだよ、というコヘレトの教えです。

(4)どの種が実を結ぶかわからない

今日の御言葉のおしまい、6節にこう書かれています。「朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか、あるいは、そのいずれもなのか、あなたは知らないからである。」

これは種蒔きです。旧約時代の種蒔きは原始的で、ただ無造作に地面に種を蒔くのです。種の品質は悪く、また蒔かれる土地は荒れています。どの種が実を結ぶか分かりません。実際、蒔いても多くは実を結ばないのです。いや、ひょっとして、蒔いた種はすべて無駄になるかもしれません。だったら、蒔いたって意味がありません。そもそも種蒔きなんてやらない方がいい。もしペシミストだったらきっとそう考えるでしょう。けれども、コヘレトはそうは考えないのです。どの種が実を結ぶか分からない、どの種も駄目かもしれない。だからこそ、朝から夜まで種を蒔き続けなさい、と勧めるのです。休まず、徹底して種を蒔けと言うのです。人生は短く、束の間で、空しいことがたくさんあるけれど、だからこそ、この与えられた人生を生きよ、神から与えられた人生を精一杯生きよ。今日を生きよ、生きることを諦めず、とことん最後まで生きるのだ。そういうことをコヘレトは私たちに教えているのです。

今日は読まなかったのですけど、新約聖書のマルコ福音書4章に、主イエスの種蒔きの喩えがあります。これは、コヘレトの言葉の延長線上にあります。種蒔きが種を蒔きに出て行く。蒔いた種は踏まれたり、枯れたり、邪魔されたり、順調には育たないのです。けれども良い地に落ちた種は豊かに実を結びます。実を結ぶのはほんのわずかかもしれないけれど、種を蒔け。この種蒔きは、聖書の御言葉を蒔く(語る)という喩えです。つまり、諦めず福音を伝え、伝道しなさい、という主イエスの勧めです。それが、この種蒔きの喩えとして書かれています。この喩えも、遡っていくと、朝から夕まで種を書きなさい、という今日のコヘレトの言葉に辿り着きます。

(5)だからこそ、種を蒔け

今日の御言葉の重要なメッセージは、「明日に向かって種をこう」です。種を蒔いてもすぐには実を結びません。待たねばなりません。しかし、いつかその日が来ます。

宗教改革者のマルチン・ルターがこういうことを言ったと伝えられています。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう。」東日本大震災の直後、この言葉をよく聞きました。このルターの言葉は私たちプロテスタント教会の信仰の生き方を教えています。明日、私たちに終わりが来るかもしれません。今日しか生きられないかもしれない。それでも、明日に向かって、今日、リンゴの木を植えるのです。コヘレトの「種を蒔け」と同じです。今日リンゴの木を植えても、リンゴが実るのは何年も先です。いや、そのリンゴの実を食べられるのは植えた人ではなく、次の世代かも知れません。それでも、明日に向かって今日、りんごの木を植えよう。明日が見えなくても、今日を生きよう。このように生きるのがキリスト者であり、そのように前向きに生きる群れが教会なのです。

コヘレトの言葉は悲観的に見えますが、コヘレトはたじろがず、諦めない人です。創造主なる神様が私たちに命を与えて下さいました。私たちの命は、神様から与えられた命です。この私たちの命を、救い主イエス・キリストは御自分の命と引き換えに贖ってくださいました。それほどまでに愛され、贖われた、この命を私たちは生きるのです。コヘレトの言葉は、このような最も大事なキリスト者の信仰の生き方を照らし出します。

束の間の人生ですが、私たちは一人ではありません。私たちには教会があります。ここに鹿児島加治屋町教会というコミュニティー、信仰共同体があります。この教会で、一緒に明日に向かって種を蒔く生き方へと神様は導いてくださいます。聖書の言葉は私たちの生きる力です。2026年、世界は、先が見えず、混沌の暗闇に向かっているようです。世界は平和とは逆の方向に向かって、私たちは心が折れそうになっています。けれども、今日の聖書の言葉は、先が見えない私たちに種を蒔けと教えてくれます。たじろがず明日に向かって生きるのだよ、と主が私たち皆を招いておられるのです。

皆さんにとって、種を蒔くとはどういうことでしょうか。それは、福音の種を蒔くということでもあります。平和のために祈る、ということであるかも知れない。小さな種ですけれども、その小さな種はいつか実を結ぶ時が来る。蒔いても蒔いても、無駄に思えるかもしれない。けれども、諦めたら終わりです。どの種が実を結ぶかわからないからこそ、蒔くのです。蒔き続けるのです。「明日に向かって種を蒔こう」と語りかけてくださる主に導かれ、明日に向かって、前向きに、しなやかに歩み出しましょう。

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