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2025年8月24日説教「狭い戸口から入れ」中島省三牧師

             

「狭い戸口から入れ」

(ルカによる福音書13:22-30)

 父と子と聖霊の御名によって アーメン

 このところ大雨や台風の被害が相次いでいます。皆さんの所はどうでしたか?被害に会われた方々の悲しみや苦しみが少しでも和らぐように祈ります。
 私たちの周りで、毎年ように自然災害が繰り返されます。私たちが思いがけない災害に遭遇した時、その出来事をどのように受け止めたら良いのでしょうか?
 14年前の東北大震災を経験した、カトリックの信徒で医師の山浦玄嗣ひろつぐさんは「なぜ大地震が東北で起きたのだ?」という声を度々耳にします。この声に応えて書かれた「なぜとは問わない」という著書の中で次のように言われます。

「この世の中にあるすべてのものは神様の道具です。神様が何かをなさるためにお造りになった道具です。人間も神様の道具です。……とすると、われわれが神様に対して取るべき態度はたった一つしかありません。『神さま、あなたは私をお造りになりました。何のためにお造りになったのでしょうか。何をすれば喜んでいただけますか。……私はどういう道具なのでしょうか。どうぞ教えて下さい。私はあなたのお役に立ちたいのです。それこそが、私の光栄とするところですし、私の幸せです!」

 山浦さんはこのように、震災の中で生きることも、犠牲になることも、私たちが神さまの道具として生きる事につながっていると言われるのです。この自然の脅威を鎮めて下さるように祈りながら、私たちが神さまの道具として何が出来るかを考えたいと思います。

 聖公会では礼拝で読み進めていく福音書が毎年決められてます。今年は「ルカによる福音書」を読みながら、主イエスの宣教の旅を振り返って行くことになっています。ルカ13章になり、主イエスの宣教の旅も、最後の場所となるエルサレムに近づいて行きます。主イエスは自分に残された時間が少なくなってきているのをご存知です。そのためか主イエスの語り口も次第に緊張感が漂ってきます。

 今日の福音書ではユダヤ人を対象に語られます。「救われる人は少ないのですか?」と尋ねる人がいました。この人は、その後の主イエスの語り口から見ると、どうやらファリサイ派の人のようです。
 この「救われる人は少ないのですか」と言う質問に端を発して主イエスは厳しく言葉を返されます。「救われるためには狭い戸口* から入るように努めなさい。入ろうとしても入れない人が多い」と答えられます。*この言葉は「マタイによる福音書(7:13、14)」では「狭い門」と翻訳されています。日本では入試や厳しい選抜の例として良く使われています。
 さらに主イエスは言われます。「家の主人が(ここでは主イエスのことですが)戸を閉めてしまってからでは、外から戸を叩いて開けてもらおうとしても、『おまえ達がどこの者か知らない』といわれ開けてもらえない。」
 この「おまえ達がどこの者か知らない」という言葉は、当時ユダヤ教の破門の言葉として使われていました。また、神殿に罪の赦しのためのささげものが出来ない人々、つまり穢れた人々にも浴びせられた言葉でした。その言葉を、主イエスは逆にファリサイ派の人々に投げ返されるのです。

 また、過去に親しくしていたことを持ち出して、戸を開けてもらおうとしても「おまえ達がどこの者か知らない」と言われ「神の家」への戸は開けてもらえないと主イエスは言われます。救われるには現在の生き方が大切なのです。現在、不義をしている者、悔い改めていない者は「立ち去れ」と言われ「神の家」には入れないのです。

 神から選ばれた者として、律法を確実に守っていると自負しているファリサイ派の人々は、自分は先に救われるだろうと思っています。ところが主イエスは、今、主イエスの「み言葉」を信じる人々が先になるだろうと言われるのです。そして「救いを得たいなら狭い戸口を通りなさい」と言われるのです。

 私は茶道に詳しくはないのですが、茶室に入るには約60センチ四方の「にじり口」という狭い入り口をくぐって入るのだそうです。身分に関わらず狭い戸口をくぐり抜けるのです。くぐり抜けた先には、素晴らしい茶室があるのです。
 茶道を完成させた千利休はキリスト教の聖餐式にも影響を受けたと言われています。
 この「にじり口」も今日の福音書で語られた「狭い戸口」からヒントを得たのかも知れません。
 傲慢な人は茶室には入れません。頭を低くして腰をかがめる謙遜な人しか茶室には入れないのです。

 それと同じく傲慢な人は「神の国」には入れないのです。身をかがめて謙遜になり、主イエスのみ言葉を受け入れる人でなければ「神の国」には入れないのです。

 しかし、主イエスは私たちを一人にして、狭い戸口に入るようには言っておられません。私たちが重い荷物を持って、狭い戸口に入るとき、主イエスは私たちの荷物を共に担って下さり、狭い戸口を私たちと一緒に通って下さるのです。主イエスと共に狭い戸口を通るとき、その狭い戸口でも、くぐり抜けることが出来るのです。

 厳しい言葉が続いていますが、主イエスは決して、締め出しをしようとされているのではありません。主イエスに従うと言うことはそれだけ真剣なんだよと言われているのです。

 思うようにならないことが多い世の中ですが、主イエスが私と共に歩んでくださると言うことを信じて、希望をもって信仰生活を送っていきましょう。

祈りましょう。
恵み深い主よ、今日加治屋町教会の皆さんと共に神の国にいたる道について学ぶ時を与えられたことを感謝します。主イエスは私たちを狭い戸口から御国へ招いてくださいます。どうか私たちを、形だけの信仰から守り、あなたに習う者として、日々あなたの御心に従う力をお与えください。
主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

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