2023年9月24日説教「賢いやり方」松本敏之牧師
ルカによる福音書16章1~9節
(1)解釈困難なたとえ
ルカによる福音書16章冒頭のたとえ話は、主イエスのなさったたとえ話の中でも、最も解釈が難しいものと言われます。たとえとなっている話そのものはそう難しくありません。これをどう解釈するか、あるいはどうして主イエスは、このような話をされたかがよくわからないのです。
先週も紹介した山口里子さんの『イエスの譬え話1-ガリラヤ民衆が聞いたメッセージを探る』という書物に、このたとえ話も取り上げられています。その中に「これまでの解釈」という項目があり、こう記されています。
「宗教改革者のマルティン・ルターは、話のあらゆる点に意味があると思って解釈すると『主人をだます』ように勧められているかのような誤りをおかすと、注意しました。そして、自分自身のためになることを行なった賢さをイエスは勧めたのだと解釈しました。ジャン・カルヴァンも、全ての細部にわたって解釈しようとするのは誤りで、聖書の『自然な意味』を捉えるべきだと注意しました。そして、俗人たちが仕事に示すのと同じほどの実際的感覚をあなたがた(弟子たち)は神の仕事に示しなさいと、イエスは勧めたのだと解釈しました。」
二人とも考えに考えたのでしょう。やや苦し紛れの言葉のようにも聞こえます。とにかく「そのままで読むと、聖書の意味を誤解しかねないよ」と警告しているのがわかります。さらに、こう続きます。
「20世紀になってルドルフ・ブルトマンが、この譬え話は解釈不可能だと述べました。その後も多くの釈義家たちが、これは最も難解な譬えだと言います。」前掲書 92~93頁
実は、この箇所、私にとっては、苦しい思い出のある箇所です。東京神学大学の最終学年の時の説教学演習の最初の授業で、加藤常昭先生から、この箇所で、説教を作るように課題を出されたのです。一体、この箇所から、どう説教すればよいのか。何とか聖書を否定しないように、苦し紛れの説教をしたように思います。どんな説教になったか、詳細はあまり覚えていません。
(2)なぜ「主人」は、ほめたのか
改めてたとえ話の筋を追ってみましょう。
ある金持ちに一人の管理人がいました。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口する者がありました。「無駄遣いする」の元の言葉の第一の意味は、「ばらまいている」ということだそうです。(ちなみに15章13節で放蕩息子が「財産を無駄遣いしてしまった」も同じ言葉が使われています。)主人は、この管理人を呼びつけて言いました。
「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」ルカ16:2
ここで管理人は、主人に対して何も言い訳や反論をしていません。それは彼がその事実を認めたということを意味するのでしょう。同時に、謝罪、赦しを乞うこともしていません。それは、いくら赦しを乞うても、この主人の決定は変えられないと悟っていたことを意味するのでしょう。
管理人はこう考えました。
「どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」ルカ16:3
彼は、解雇されそうになっています。そしてその後のことを必死になって考えているのです。彼は、こう考えました。
「そうだ。こうすれば、管理の仕事をやめさせられても、私を家に迎えてくれる人がいるに違いない。」ルカ16:4
そこで、彼は主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に「私の主人にいくら借りがあるのか」と尋ねます。その人が「油百バトス」と言うと、「これがあなたの証文だ。早く座って、五十バトスと書きなさい」。
山口里子さんの本の換算によれば100バトスは3,000~3,400リットルで、それは1,000デナリオンに相当するとのこと。1デナリオンは労働者の1日分の給料でしたから、約半分として、労働者の500日分(約1~2年間)の賃金分です。
別の人には、同様に「小麦百コロスを八十コロス」に書き変えさせました。こちらも山口さんの換算では、35,200リットル。404,700平方メートル。東京ドーム31個分の土地の収穫とのことです。その5分の1を返済しなくてもよいことになります。
ところで、管理人が主人の貸しを勝手に減らすとは、そもそも1節によれば、管理人が問題にされたこと、主人の財産を無駄遣いして(ばらまいて)いることを繰り返しているだけとも言えます。これまでもやっていたことに拍車をかけたのです。
ところで、一番解釈が困難なのは、この主人が、「不正な管理人の賢いやり方をほめた」ということです。(新共同訳聖書では「抜け目ないやり方」となっていましたが、新しい訳のほうが、評価が高くなっているように思います。)
ちなみに、「主人」という言葉(キュリオス)は、「主」とも訳せます。
「主はこの不正な管理人の賢いやり方をほめた。」
この理解に立てば、この部分はルカのコメントということで、ほめたのは主イエスだということになります。だまされた主人が、自分をだました管理人をほめるとは考えにくいので、この理解も一理あります。ただし、このたとえ話の中の主人がほめたにせよ、これを語っている主イエスがほめたにせよ、主イエスがこの管理人のやり方を評価しているということには変わりありません。それが、このたとえがわかりにくいことの根底にあります。
(3)主人は搾取する支配者という解釈
最近の聖書学者たちの解釈で興味深いものは、もともとイエス・キリストがこのたとえ話を語られた時、この「主人」というのは、よい主人ではなく、貧しい人々の上に立ち、彼らを苦しめ、搾取している支配者であったのだというものです。つまり私たちが理解に苦しむのは、この主人がよい主人であり、悪いのは管理人のほうだという前提に立っているからだということです。先ほどの山口里子さんもそうですし、田川建三という聖書学者もそういう理解に立っています。もしもそうだとすれば、話は全然違ってきます。
これは貧しい人たちの犠牲の上に大きな利益を上げている支配者と、その抑圧のもとで苦しんでいる人たちの話ということになります。そこでは管理人の立場は微妙です。主人の側に立ち、主人の搾取の手伝いをしながら、貧しい人のためにもなることをやる。
管理人は、主人の代わりに、貧しい人たちの前に立って、その人たちの憎しみを直接受ける位置にいます。しかしこの管理人も、自由がなく、主人のもとで「いつクビになるかわからない」というので、びくびくして生きている立場です。彼は「仲間が欲しい。友だちが欲しい」と思っていた。あるいは、だんだんと自分のやっていることに疑問をもつようになったのかもしれません。そうして少しずつ、貧しい人たちのためになることをしようと思った。そのように、自分にできる範囲のこと(ばらまき)をやってきたけれども、主人に告げ口をする者が出てきた。それが主人の耳に入った。
そこで彼はもう腹をくくって、もっとあからさまに、それをやり始めた。仲間作りのためです。彼はまだ主人の側にいるけれども、そこにいる者として、あるいはそこにいる者でしかできないことをやった。自分の生き残りを考えながら、同時に貧しい人たち、搾取されている人たちの利益になることをしたという理解です。
(4)大喜びする借り手と主人の対応
しかし主イエスではなく、主人がほめたのだとすれば、どういうことになるでしょうか。
管理人がこれまで以上の大きな証文の書き変えをしたならば、借り手たちは大喜びをしたことと思います。
それまで主人に借りのある人たちはみんな、多かれ少なかれ、主人に敵意をもっていたことでしょう。主人は借り手たちが大喜びする様子を見て、考えを変えたということもありえます。
管理人を罰することはできたけれども、「ちょっと待てよ。彼らは大喜びしている。今、自分の評判はこれまでにないほどよくなっている。管理人のやったまま認めることにしようか」と思ったかもしれません。
主人は莫大な財産をもっているので、この帳消し分は、主人にとってさほど大きな損失ではないのでしょう。むしろ主人が感謝されることのほうが、より得だということです。そこで、「主人は、この不正な管理人の賢いやり方をほめた」(8節)ということになります。
もしそうだとしたら、この管理人の考えたことは意表を突くものですが、見事という他はありません。実は、管理人はそこまで考えていなかったかもしれません。しかしそこには思いもかけない解決の道があったのです。この解釈は、これまでにない斬新なものです(山口里子前掲書参照)。
ただ、どの解釈にも共通するのは、この管理人の行為がほめられたということです。それは何だったのかと言えば、「主人のお金を用いて、友だちを作った」ということです。そのことに関しても、どの解釈にも共通している。それは自分のためであったかもしれないけれども、同時に人のためにもなっていました。
(5)不正でない富などありうるか
そもそも富とは何かということも、さかのぼって考える必要があります。不正でない富というのが果たして存在するのか。私たちは、「これは私が働いて得た正当な報酬だ」と考えます。それはある意味においては確かです。しかし同じ労働をしながら、みんなが同じ報酬を得られるわけではありません。特にアジアやラテンアメリカ諸国に目を向けた時に、同じ仕事をしながら、ある程度の報酬をもらえる人と、全くそれに見合わない額しか得られない人がいるとすれば(事実いるわけですが)、果たして自分の得ている報酬が正当なものと言いきれるのでしょうか。そこには、もともと圧倒的な不釣り合いがあるのです。
しかし、それがどんな形で得た富であったにせよ(あまりにも怪しいのはだめかと思いますが)、その富を再分配する形で用いることは許されている。それは神が喜ばれる仕方であり、主人は、それをほめられるということではないでしょうか。
(6)私たちは、皆、管理人
さらに、このたとえをもう一つ大きな枠で考えてみると、どうでしょうか。果たして私たちの世界に、本当に富の主人と呼べる人はいるのかということです。どんなにお金持ちであっても、どんなに自由にその富を分配できる立場にある人であっても、実は管理人ではないのかという視点です。自分の財産であっても、実は自分に管理が委ねられている財産であって、その持ち主は天におられるお方ではないか。一時私たちはその管理を任せられる。しかし私たちはそれをいつか返さなければならない。それが私たちから取り上げられる日が来る。その前に、その財産を取り上げられる前に(お返しする前に)、人が喜ばれる仕方で、あるいは自分が生きるため、深い意味で生きるために用いることは、よいことだ。本当の主人は、それを喜び、ほめている。
そこで考えなければならないのは、どのように用いるのが正しいのかということです。このたとえのまとめのところで、主イエスは、こう述べられます。
「この世の子らは、光の子らよりも、自分の仲間に対して賢くふるまっている。」ルカ16:8
16章の1節を見ますと、こう記されています。
「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。」ルカ16:1
15章でのたとえの直接的な聞き手は、ファリサイ派の人々と律法学者たちでした。彼らに神の愛を知らせようとされたのでした。そしてあなたたちもその愛に連なるようにと促されました。この話を弟子たちも、そばで聞いていたのです。その時、彼らはどのようにして聞いたでしょうか。自分たちは、ファリサイ派の人々、律法学者と違って、こちら側、つまり光の子の側にいると安心して、やや得意げに聞いていたかもしれません。しかし今や、主イエスは、弟子たちに向き直って話されたのです。
「この世の子らは、光の子らよりも自分の仲間に対して賢くふるまっている。」ルカ16:8
「あなたたちは、光の子として、果たしてどれほどの真剣さをもって生きているか」ということを問われたのではないでしょうか。
「そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。」ルカ16:9
それでもよいのです。「不正の富でもいいじゃないか。」それでも神様に用いられる時には、祝福される。それを、貧しい人たちのために使うならば、自分にとっても、貧しい人にとっても、よい結果がある。そういうことを、主イエスは指し示そうとされたのではないでしょうか。