広田叔弘著『詩編を読もう下 ひとすじの心を』
(2019年 日本キリスト教団出版局)
〈詩編も著者も、私の気持ちを分かってくれている〉
評者=松本 敏之
本書は、さきに発売された『詩編を読もう上 嘆きは喜びの朝へ』に続く下巻です。上巻同様、日本FEBCで放送された原稿に加筆されたものであり、「十字架の光のもとで詩編の言葉を聴きたい」という方針に貫かれています。
皆さんは、自分が誰かに陥れられそうになった経験がありますか。私にはあります。その攻撃が執拗に波状的に続き、心がさいなまれました。吐き気を催し、眠れなくなることもありました。自分に非があるのかもしれませんが、自分ではそうは思えない。ヘイトスピーチを受ける人の気持ちも、そういうものかもしれないと思いました。
そういう時、イエス様の愛の言葉はなかなか受け入れられません。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)。私自身、何度も説教してきました。「好きになれということではありません。その人も神に愛された存在として受け入れることです。」ゴールは分かっていても心がついていかないのです。
ただ嘆きの詩編の言葉は、心にすっと入ってきました。「わたしの命をねらう者が 恥を受け、嘲られ わたしを災いに遭わせようと望む者が 侮られて退き はやし立てる者が 恥を受けて逃げ去りますように」(詩編70・3~4)。聖書にこんな言葉があることに救われました。礼拝の詩編交読では、ひときわ大きな声で読みました。
著者はこの詩編について、こう述べます。「詠み手がどのような立場にいた人なのかは分かりません。登場する『わたしの命をねらう者』が、政治的な敵なのか、人間関係で生じた敵なのか。これも分からない。……敵の正体そのものは重要ではありません。読み手は今、苦難の中にいます。……この中で神さまを呼ぶのです。『速やかにわたしを助け出してください』。重要なのはここ。70編の勘所。思い出しましょう。私たちも、この詩人と同じ祈りを祈ったことがあるのではないでしょうか。いえ、今祈っている人がいるはずです」(11頁)。著者も、私の気持ちを分かってくれていると思いました。
第86編も嘆きの詩編です。「神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者の一党がわたしの命を求めています」(詩編86・14)。「詩人と違い、私たちは敵に命を狙われているわけではないでしょう。けれども、試練の現実はあります。悪意をもって攻撃を仕掛けてくる人間は必ずいるのです。試練、過剰ストレス、理不尽さを経験しない人生はありません。この中で分からなくなるのです。信じて頼みとする神さまが、何であるのかわからなくなる。『御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください。』」(40頁)。著者は、私の心に寄り添い、信仰へと立ち帰らせてくれる気がしました。
著者は、「あとがき」で、自分の不登校、引きこもりの経験を述べています。「人との繋がりは切れ、孤立していきました。ある日のことです。夕方になって外へ出ました。七十年配の隣家の主婦が、私のことをジロッと見ました。……さげすみをこめた冷たい眼差しでした」(217頁)。
彼も孤独のうちに悩み、つらい経験をしてきたからこそ、人の痛みが分かるのだと思いました。著者に伴われて詩編を読み、その奥深さを味わってください。
(まつもととしゆき=鹿児島加治屋町教会牧師)
(「本のひろば」2020年1月号)