2026年2月15日説教「キリストが私のうちに」松本敏之牧師
詩編143:1~2
ガラテヤの信徒への手紙2:15~21
(1)違った人と共に歩む道を探る
突然の衆議院の解散、そして選挙から1週間が経ちました。自民党の圧勝という結果となりましたが、皆さんはどういう思いでしょうか。私は、これから自民党の出す法案が全部通っていきそうな流れにとても暗い思いです。戦争をしやすい国へ一歩一歩近づいているようです。そして移民政策、外国人政策についても不安があります。もっと過激に移民に厳しくするように訴えていた政党もありますが、自民党も「日本人ファースト」を強調し、移民政策、外国人対応を厳しくする方向であります。
私からすれば、日本の歩むべき道と逆行しているように思えてなりません。日本が今必要としているのは、少子高齢化社会にあって、日本に住みたい人、日本で働きたいと考えている外国人をもっと受け入れ、共に将来の日本を担っていく人材を育てていくことだと思うのです。そうしないと、もう日本はもたないでしょう。さまざまな国の背景を持つ人々と暮らすことは、もちろん摩擦軋轢もあるでしょうが、それを乗り越えられれば、基本的に楽しいことであり、国の中が国際的になり、文化が豊かになることだと思います。
「日本列島を強く、豊かに」とスローガンを自民党は掲げていました(います)。私からすれば、「真の豊かさ」というのも、日本人ファーストの政策の先にではなく、多文化共生の先にこそあるものだと思います。「強く」というのも武力による強さを示しているようでいただけません。
もっとも自国中心の政策は日本だけではありません。アメリカ合衆国のトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」の政策がその最たるものでしょうし、ヨーロッパ諸国も自国ファーストの方向へと向かっているように思えます。私はそうした考えの根底には、根深いところで違ったものを受け入れようとしない考えがあるように思います。それが外国人差別にもなり、人を序列化することに通じているように思います。
私は、イエス・キリストの福音に生かされことの大きな意味のひとつは、そうした人間を序列化することから解放されるということ、差別すること、されることから解放されるいことではないかと思います。
パウロがガラテヤの信徒への手紙を書いたときに、念頭においていた論敵というのも、そのようにしてすぐに人を序列化する人々でありました。「自分たちはユダヤ人である。異邦人よりも上である」。彼らは、そういう風に考えていたのです。人間の序列化ということを、神の前にまで持ちこんだと言えるでしょう。
「キリストの福音は、私たちをそうした人間の序列化から解放する」と申し上げましたが、へたをすると、信仰というものが人間の序列化から解放するどころか、逆にそれを正当化し、固定化させてしまう危険性もあるということを知っておかなければならないでしょう。これについては、後でもう一度、取り上げたいと思います。
(2)異邦人クリスチャンと食事を共にすること
ガラテヤの信徒への手紙を(ルカ福音書と並んで)、少しずつ読み進めていますが、アドベントとクリスマスをはさみ、こちらも11月16日以来、2か月以上、間があいてしまいました。
本日のテキストは、前回取り上げました2章11~14節と、本来切れ目なく、続いているものです。どういう話であったか簡単に繰り返しておきましょう。
パウロはアンティオキアにいます。そこにケファ、つまりペトロが訪ねてきました。ペトロは最初来たときは、異邦人クリスチャンと一緒に食事をしていたのに、ヤコブのもとからある人々がエルサレムから来ることになると、彼らを恐れて、異邦人と一緒に食事をするのをやめてしまいました。そうすると、ペトロは影響力が大きいものだから、みんな「右へならえ」とばかりに、同じようにやめてしまいます。そこで、パウロはみんなの前で、ペトロを批判するのです。
「あなたは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活しているのにどうして異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのですか。」2:14
パウロはペトロに対して、「ユダヤ人だからユダヤ人らしく生活をしろ」ということを言っているのではありません。どちらかと言えば逆です。「あなたも、私と同じように、ユダヤ人ではあったけれども、ユダヤ人のように生活するのをやめたではないか。だったら、異邦人に対してもユダヤ人のようになることを強要するな」と言ったのです。エピソードはそこまでなのですが、そこから厳密な切れ目はなく、そのままこの部分に入っていきます。
(3)難解な言葉、わかりにくい翻訳
2章15節にこういう言葉があります。
「私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」2:15
これは確かに、原文でもそのように書いてあるのですが、少し誤解を招きやすい言葉であろうと思います。そのまま読むと、「何だ、パウロだって、異邦人のことを罪人呼ばわりして、差別しているではないか」ということになりそうです。しかし、この言葉はパウロの主張というよりも、むしろ「ユダヤ人はそう言っている」、ということを紹介していると受けとめた方がよいと思います。そのことを話の切り口にしながら、信仰というものの根幹にかかわる話に入っていくのです。ある人は、少し言葉を補って、「[なるほど]わたしたちは、生まれから言えばユダヤ人であって、異邦人に属する[いわゆる]罪人なのではありません」と訳しておりました。
今日の聖書の箇所は、なかなか理解しにくいところではないかと思います。難解なことを語っております。よほど読解力・想像力のある方、しかも聖書の信仰に余程馴染んでおられる方でなければ、この聖書協会共同訳を読んですっと理解できたという方は少ないのではないか、と思います。新共同訳も同じでした。そういう意味で、聖書協会共同訳にしろ、新共同訳にしろ、以前の口語訳にしろ、ちょっと不親切かなという気がします。もう少し言葉を補うなどして、分かりやすくしてくれればよいのに、と思いました。
17節の言葉などもそうであろうと思います。
「それでは、キリストにあって義とされることを求めながら、私たち自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者となるのでしょうか。決してそうではない。」2:17
これなども何度読んでもなかなかわかりません。私は難しい聖書の箇所にあたると、いろんな翻訳を読み比べることにしているのですが、今回もそうしました。その中で最も感心させられたのが、柳生直行という人の個人訳聖書でありました。C・S・ルイスの著作などを訳している英文学者です。柳生氏はこの17節をこのように訳しております。
「では、キリストを信じて神の前に義しい者としていただこうとすること自体が、罪の行為だとしたら、いったいどういうことになるのか。キリストは罪をそそのかす者、ということになるのか。冗談ではない。話はまるで逆である。」
大分言葉を補っており、そこにはこの人の解釈も入ってきていますが、これなら少しわかるかなと思います。
この言葉の背景には、パウロの語っていた福音理解に対するユダヤ人クリスチャンの批判というものがあるわけです。「私たちは、律法を守ることによって、神に義と認められる(義しいものとされる。救われる)のではない。ただキリストの真実(あるいは前の聖書では「キリストに対する信仰」)によってのみ義とされるのである。」。
そのことをパウロは徹底して語ったのですが、「もしもそうだとすれば、かえって人間は堕落してしまうのではないか」という批判があったのです。「人間は何をしていても救われる」ということですよね。それでは何をしていてもいいということになりますよね。律法なんかどうでもいいということになってしまう。そうすると人間は堕落してしまう。人間が堕落することを、福音が助長させるということになりはしないですか。それならば、「キリストは罪をそそのかす者」「キリストは罪に仕える者」になってしまうのではないですか、という批判です。
これは、パウロ批判としては当たっていませんが、そうしうふうに考える人が出てくることはありうることです。実際にパウロの言ったことを安直に受けとめて、「それでは人間は〈キリストの真実〉(信仰)によって救われるのだから、行いはどうでもいいのだ」という「身勝手な(安易な)パウロ主義者」が登場することになります。パウロの言ったことを論理の筋道だけで受けとめれば、そういう風に自分に都合良く解釈するものも出てくるのです。この時にパウロにかけられた非難は、そういう安易なパウロ主義者には、当てはまることです。しかしながらパウロは、その両方の誤りを見据えておりました。律法を守ることによって救われるというのは違う。かと言って、信仰によって救われるなら、何をしていてもいいのだというのも違う、ということです。そういう律法主義と、自由放縦主義の両方とも、どちらも間違っていると、パウロは言うことであります。
(4)「キリストへの信仰」か「キリストの真実」か
少し聖書の翻訳のことを申しておきましょう。これまで「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16)と訳されてきたパウロの言葉は、新しい聖書協会共同訳では、「キリストの真実によって義としていただく」となりました。「信仰」という言葉の原語は〈ピスティス〉という言葉なのですが、これは「真実」とも訳せるのです。「キリストへの」、「キリストの」も文脈でどちらとも訳せる。「信仰」と訳した場合には「(私たちの)キリストへの信仰」となるでしょうが、「真実」と訳した場合には、「キリストの真実」となります。「私たちのキリストへの信仰」によって義とされるのであれば、私たちの救いは私たちの手の中にあるように聞こえます。でもキリストの真実によって義とされるのであれば、私たちが不信仰になろうとも、キリストの真実は私たちを裏切らない。そのキリストの真実こそが私たちを義(正しいもの)としてくださるということが、よく表れた翻訳になったと思います。
(5)「私」からの解放
19~20節には、何度も「私」という言葉が出てまいります。
「私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。」2:19~20
この「私」という言葉は、ギリシャ語で〈エゴー〉という言葉です。ご承知のように、この言葉は後に英語など西欧語で〈エゴ〉という言葉になりました。日本語でも自我という意味で、使います。「あの人はエゴが強い」などと言います。そのエゴなのです。
信仰をもつということは、差別意識から解放されることだと申し上げましたが、同時にそうしたエゴから解放されることだということでもあります。いやむしろ、それが根底にあるから、私たちは差別意識などからも自由になれないのです。
キリストに目を注ぎ続けることによって、「私」が、「私という存在」が打ち砕かれる。「私は死んだ」。このキリスト共に死んだ。十字架につけられている。「今、生きているのはもはや私(という存在)ではない。キリストが私の内に生きておられる。」
これはパウロの自己放棄宣言だと言えるでしょう。このかまえこそが、私たちを本当に自由にし、謙虚にする土台ではないでしょうか。そこで私たちは、何よりもまず私たち自身から自由になります。自分を放棄して、キリストに明け渡してしまうと、私たちはそこで自分を失ってしまうように感じるかも知れません。しかしそうではないでしょう。不思議なことに事実はむしろ逆です。そのように自己を明け渡すこと、放棄することによって、私たちは本当の意味で自己を獲得するのではないでしょうか。
20節でパウロが書いているのもそのことです。「生きているのはもはや私ではありません」とパウロは言いましたが、「今、私は肉において生きている」とも言っています。この〈生〉は、キリストへの信仰にあって生きている生なのです。キリストに自分を明け渡すということは、キリストの愛の中に、自分を見いだすということ、キリストが血をもって贖ってくださった「私」という新しい存在を、キリストの手から、受け取り直すことであります。そういう信仰的な生の中において、私たちは本当の意味で「私」であることができるのだと思います。私はそのようにして、ここに生きているのだと、パウロは言っているのです。「生きているのは、もはや私ではありません」と言い切ってしまうことによって、逆に新しくされた「私」というものがはっきりとしてくる。これが信仰的に生きるということ。古き自分に死に、新しくキリストによって命を得、キリストが自分のうちに生きているということであります。私たちはそこにおいてこそ、本当に自由な生、へたな差別意識からも解放され、自分からも解放された自由な生というものがあるのではないでしょうか。信仰の逆説であります。手放すことによって得るのです。
16節の「イエス・キリストの真実」という言葉が、キーワードです。それによって、私たちは義とされ、救われるのです。その神の真実はどこにあらわれたか。私たちの状態如何にかかわらず、神さまが私たちを待っておられる。その神の真実の中に、私たちの救いの確かさがあるのです。私たちが神を捕らえたのではありません。神が私たちを捕らえられた。ヨハネの第一の手紙は言っています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」Ⅰヨハネ4:10
ヨハネ福音書の中でも、イエス・キリストがこう語っておられます。
「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」ヨハネ15:16
そこにキリストの真実がある。このキリストに目を注ぎ続け、この信仰に立ち続けることによって、まことの自由を得たいと思います。