2025年12月21日説教「地に住むひとには平和あれ」松本敏之牧師
イザヤ書9章5~6節
マタイ福音書2章1~12節
(1)今年のクリスマス・・テーマ
クリスマス、おめでとうございます。教会の暦では、まだ待降節第4主日ですが、大体の日本の教会の慣習に従って、12月24日の前の日曜日にクリスマス礼拝を守っています。
鹿児島加治屋町教会では、今年のクリスマス、「地に住むひとには平和あれ」というテーマを掲げて歩んできました。今日は、このテーマ自体を、説教題としました。この言葉は、「天なる神にはみ栄えあれ」という賛美歌(『讃美歌21』265番)の1節の中の言葉です。
「『天なる神には み栄えあれ、
地に住むひとには 平和あれ』と、
み使いこぞりて ほむる歌は
静かにふけゆく 夜にひびけり。」
この歌詞は、言うまでもなく、ルカによる福音書2章14節の天使の賛美の歌に基づいています。
「いと高き所には栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:14
私たちは、地上の平和を願う時に、同時に、あるいはそれに先立って「神に栄光を帰する」ことを行わなければならないと思います。
(2)世界の戦争が早く終わるように
この「地に住む人には平和あれ」という言葉をクリスマスのテーマを掲げたのは、世界各地で起きている戦争が一日も早く終わるようにという願いを込めてのことです。
イスラエルとパレスチナのハマスとの戦いに関して言えば、アメリカ主導での停戦案が、10月9日に一定の合意成立となり、第一段階としてハマスに拘束されていたイスラエル人捕虜の生存者が解放され、またイスラエルに拘束されているハマスの戦闘員も確か数百人が釈放されました。しかしそれも束の間のことであり、イスラエルはハマスが停戦合意に違反したとして10月29日にパレスチナのガザ地区各地で再び空爆を始め、子どもたちを含む104人以上が死亡した、と報道されていました。停戦の第二段階へと進む気配はありません。
ウクライナでも、今は水面下で停戦交渉がなされているようです。米国のトランプ大統領は何とかクリスマスまでに交渉を成立させたいようですが、簡単ではなさそうです。そこにはロシア、ウクライナ双方の、そして米国やEUも含めたそれぞれの国の思惑、利害が複雑に絡み合っているようです。そこでは神様は関係がないようです。しかし自分の利益、自国の利益を主張する前に、神に栄光を帰さなければならない。この世界は神のものであり、そうした世界だからこそ、お互いに仲良くして神の喜ばれる社会を築いていかなければならないからです。
(3)「博士」とはどういう人であったか
本日は、マタイ福音書2章の最初の部分を読んでいただきました。博士たちが生まれたばかりの救い主に、黄金、乳香、没薬のささげものをしたというお話です。新共同訳聖書では、「博士たち」というのが、「占星術の学者たち」という訳になっていました。それ以前の口語訳聖書(1954年)では、「博士」でしたから、新共同訳で「占星術の学者たち」となってみんながっかりしましたが、新しい聖書協会共同訳で、また「博士」に戻って、みんなほっとしたのではないでしょうか。この間、幼稚園のページェントでは、ずっと「博士」で通してきました。ただこの言葉の元のギリシア語はマゴスという言葉で、マジシャンの語源ともなった言葉です。それは、「博士」という言葉で私たちが想像するの大学の先生や立派な学者という人々ではなく、どちらかと言えば、占いなどをして、ちょっとあやしい仕事をしていた人々であったようです。
その人たちが「新しい王が誕生した」ということを星の知らせで知り、その星に導かれてエルサレムにまでやってきたのでした。最初は、エルサレムの人々に聞いたのでしょう。そのうわさを耳にしたヘロデ王は、それについて祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて「メシアはどこに生まれることになっているのか」を問いただします。彼らは「ユダの地、ベツレヘムです。聖書にそう書いてあります」と、ヘロデ王に告げました。すると王は、ひそかに博士たちを呼び寄せました。そして、彼らに、星の現れた時期を確かめて、こう告げるのです。
「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」マタイ2:8
しかしそれは嘘でした。見つけ次第、殺すつもりでいたのです。
(4)「不安」は戦争のひとつの原因
ヘロデ王がなぜそこまでのことをしようとしたのか。それは自分の「王の地位が危ない」と不安をいだいたからでありました。4節に、博士たちの話を聞いた王は「不安を抱いた」としるされています。興味深いのは、それに続いて「エルサレムの人々も皆同様であった」と記されていることです。
エルサレムの人々の不安とヘロデ王の不安は同じではなかったでしょう。ヘロデ王は、「自分の地位が危ない」という不安を抱いた訳ですが、エルサレムの人々の不安は、そこでヘロデ王が何をしでかすかわからないというような漠然とした不安ではなかったでしょうか。そして彼らの不安は的中して、エルサレムにおいてはヘロデによる幼児の大虐殺が始まることになります。
このことは、現代にも通じることでしょう。不安が戦争の一つの原因となる、と言ってもよいでしょう。ロシアのプーチンがウクライナ侵攻を始めたのも、ウクライナがEUに加盟したりすると、ロシアにまで攻めて来るかもしれないという不安を抱いたからでありました。少なくとも表向けはそうでした。安全の保障が必要だと言ったのです。
(5)平和と安全保障は逆のこと
私はディートリッヒ・ボンヘッファーが、「平和」と「安全保障」は違う。むしろそれは逆方向のことだと述べたことを思い起こします。それは、1934年、デンマークのファネーにおける講演でのことでした。ボンヘッファーは、こう述べます。
「いかにして平和はなるのか。平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。……その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って〈平和〉に至る道は存在しない。なぜなら、平和はあえてなされなければならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、『相手に対する不信感』をもっているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争を引き起こすのである」。
これは、通常、「ファネー講演」と呼ばれます。1934年と言えば、ヒトラーが台頭してきた時でした。ボンヘッファーはまさにその時に、この講演をしたのでした。
(6)映画「ボンヘッファー」
最近、「ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師」という映画が公開されました。鹿児島でも、11月下旬に、天文館パラダイスで上映されましたので、早速、私も観に行きました。とても興味深い映画でした。徹底した平和主義者であったボンヘッファーが、最後にはヒトラー暗殺計画に加わり、それが発覚して絞首刑に処せられるまでを描いています。11月の礼拝でも少し紹介しましたが、皆さんは、ご覧になられたでしょうか。ご覧にならなかった方は、またそのうちにビデオになるでしょうから、その時にぜひご覧くださるとよいと思います。
ただ、この映画を観ながら、気になった事がありました。それは、ボンヘッファーの考えは、「平和主義者」から、「多くの人の命を奪っている張本人のような人間を殺すことは、正しいことだ」という考えに変わったと、誤解する人が出て来るかもしれない、ということでした。
21世紀に入ってすぐのこと、9・11事件が起こりました。当時のアメリカのブッシュ大統領は、その後、この事件を起こしたアルカイダの指導者オサマ・ビンラディンを見つけ出して殺そうと躍起になりました。大分時間がかかりましたが、それを達成しました。それだけではなく、大量破壊兵器を隠し持っているという噂を信じて、イラクのフセイン大統領をも殺害しました。ボンヘッファーの行動は、そうしたビンラディン殺害やフセイン殺害、ひいては現代のイスラエルのハマスの指導者殺害を正当化するものと同類ではないかと理解されてしまうのではないかと懸念しました。しかしボンヘッファーの思想は、そうした力による正義の実現、悪の封じ込めとは「似て非なるもの」でした。
ボンヘッファーは自分のしようとしていることを決して正当化しようとはせず、むしろその罪を引き受ける決心をしたのでした。
イエス・キリストは「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われましたが、ボンヘッファーは、その言葉が真実であることを承知の上で、「その滅びを自ら引き受けようとした」と言えるかもしれません。
ボンヘッファー研究者であった元代々木上原教会牧師の村上伸氏は、『ディートリッヒ・ボンヘッファー ヒトラーとたたかった牧師』(日本キリスト教団出版局、2011年)という青少年向けの書物の第1章でこう述べています。
「平和を愛し、暴力を否定していたボンヘッファーは、この考え(ヒトラーを暗殺するしかない)には(最初は)賛成できませんでした。しかし、悩み抜いた末に、彼もまた『最後の手段として暗殺もやむを得ない』と考えるようになったのです。
私(村上先生)がこのことを知ったのは、牧師になる前、まだ神学生のころでしたが、強いショックを受けて一晩眠れなかった記憶があります。熱心なキリスト教徒で牧師でもある人が、いくらヒトラーが悪い人だからといっても、その『命を奪う』ようなことをしてもいいのだろうか?聖書には『殺すな』という戒めがあるではないか?
この問いかけからすべては始まったのです。私の中にあるこの疑問は根強いものでしたが、それにもかかわらず、ボンヘッファーに対する関心はなくなるどころか、次第に深くなっていきました。あの決断に至るまで、彼はどんなに苦しみ、悩んだことだろう。そのことが、私を文字どおり『ひきつけ』てやまなかったのです」。14~15頁
そして村上伸さんは、この書物のクライマックス「ヒトラー暗殺計画」(91~94頁)のところで、結論のようなことを述べています。印象的なのは、イエス・キリストの行いとの類比(アナロジー)です。イエスは、病気で苦しんでいる人を助けるためには「安息日に治療行為をしてはならない」という当時の掟にあえて背いたと指摘し、こう続けます。
「イエスは、他者を愛するためには、自分が罪人として罰せられる結果になっても黙ってそれを受け入れました。十字架の上で二人の犯罪人と一緒に処刑されたのは象徴的です。つまり、イエスは他者の『罪を引き受けた』のです。この生き方がディートリッヒの心を打ち、彼の決心を後押ししました。彼は、最後にはヒトラー暗殺を『やむをえない』として認めましたが、そのとき彼は、自ら『罪を引き受ける』ことを決心したのです。それからは、彼はもう迷いませんでした。」94頁
つまりボンヘッファーは「ヒトラー暗殺計画」を正当化したのではなく、それも悪いこととした上で、その罪を引き受ける決心をしたのです。彼の取った行動は、究極の状況の中での決断であり、決してキリスト者の行動の規範にすることのできないものです。
そしてパターン化して、特に権力をもった人間が正義を振りかざして、「悪人を裁く」ような思想に転換されていくことを懸念いたします。
今回の「ボンヘッファー」という映画はとてもよくできた映画で、多くの人たちにぜひ観ていただきたいと思うのですが、「正義を振りかざして悪人を裁く」というような考えを持った人も、この映画を観て、「そうだ。そうだ。」と共感するかもしれないということが気になりました。
「悪の前の沈黙は悪であり、神の前に罪である」というボンヘッファーの言葉がキャッチコピーとして用いられていますが、その引用の仕方も、そうした誤解を招きかねないという気もしました。もう少し「ボンヘッファーは罪の引き受け」のことを描いてほしかった。)
と思いました。
(7)真の平和をめざして
もう一度、平和主義者ボンヘッファーの言葉に帰りましょう。ボンヘッファーは「安全保障を求めることは真の平和とは逆方向のことだとしました。この時のヘロデ王も不安から安全保障を求めようとして、自分の地位を守るために幼児大虐殺にいたります。それは平和とは逆方向のことでした。私たちは、自分で自分の安全を求めるのではなく、神様に栄光を帰すことによって、神のもとにある共存、共に生きるという平和への決断をしていかなければならないのだと思います。