2025年10月19日説教「一人で立つ」松本敏之牧師
エゼキエル書18章1~9節
マタイによる福音書25章1~13節
(1)終末を迎える心の備え
先ほど読んでいただきましたマタイによる福音書25章1~13節は、本日の日本キリスト教団の聖書日課です。この箇所は、しばしばアドベントが始まる前の日曜日に取り上げられます。教会の暦でいえば、アドベントから新しい1年が始まりますので、その前の週ということは、教会暦の1年の最後の日曜日ということになります。この日は終末主日とも言われ、終末に再臨される主を待ち望む。そのことを特に心に留める主日ということです。それが、どういうわけか日本キリスト教団の聖書日課では、今日の、つまり10月の箇所になっております。もちろん私たちは、1年に一度だけ、世の終わりについて考えればよいわけではありません。いつもいつも、いつ世の終わりが来てもよいように心の備えをしておく必要があるでしょう。その姿勢は、同時に、私たちの人生がいつ終わりを迎えてもよいという心の備えをすることに通じるものであります。
マタイ福音書は、25章の前の24章で、終末について詳しく述べています。それは24章3節の、弟子たちのこういう言葉で始まっています。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
この問いの前半、「いつ起こるのですか」に対して、24章36節では「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である」と答えられました。「子」というのは、イエス・キリストご自身ですから、「自分も知らない」ということになります。しかしだからこそ、「それがいつ来てもよい心の備えをしておきなさい」ということで、25章に入っていくわけです。
(2)厳しい物語
イエス・キリストは、こういうたとえを離されました。花婿の到来を十人のおとめが待っていました。誤解のないように言えば、「十人の花嫁」ではありません。花嫁の友人たちです。
花婿も友人に伴われて来るそうですが、花嫁のほうでも、友人と共に、これを迎えるのです。いやむしろ花嫁自身は控えていて、ヴェールをかぶっておしとやかにしている。その花嫁の喜びを、花嫁の友人たちがストレートに体全体で表現する役割を担っていたのかもしれません。
この十人のうち、五人は賢くて、あとの五人は愚かであったということです。花婿はいつまで待っても来ません。みんなうとうとと居眠りを始め、ついに全員が眠ってしまいました。その時突然、「花婿が到着したぞ」という声にびっくりして、とび起きました。ところがもうランプの火が消えかかっています。十人のうち賢い五人は予備の油を用意していましたが、愚かな五人は予備がないので、あわてふためきました。そこで予備を持っていた五人に頼み込みました。「お願いです。油を分けてください。この借りはきっと返します」。
しかし冷たく、「分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(9節)と断られてしまいます。そのとおりにして買って帰ってくると、すでに花婿は到着し、扉は中から閉められていました。「ご主人様、ご主人様、開けてください」と叫ぶのですが、こう言われてしまうのです。
「よく言っておく。私はお前たちを知らない。」マタイ25:12
ずいぶん厳しい話です。この主人(花婿)も厳しいですが、五人の「賢いおとめ」も冷たい。
イエス・キリストの教えからすれば、たとえ自分の油がなくなって、共倒れになろうとも、油を分けてあげるべきではなかったでしょうか。主イエスは「隣人を愛せ。友を愛せ。敵まで愛せ。そのために自分の命まで差し出せ」と教えられたではありませんか。そういう意味からすれば、この五人の「賢いおとめ」は、主イエスの弟子失格、とでも言えそうです。しかしながら、この話をなさったのはイエス様ご自身ですから、いよいよわからなくなってきます。主イエスは「天の国のたとえ」として、どうしてこんな話をなさったのでしょうか。
ひとつ言えることは、この話は数ある「天の国のたとえ」の一つであるということです。「天の国」というのは私たちの想像、理解をはるかに超えたところです。地上世界には、天の国全体を映し出す物語(たとえ)は存在しません。ですからどうしてもその一部しか描くことができません。だからこそ主イエスは、何度も何度も「天の国のたとえ」を語られました。マタイ13章などは、種蒔きのたとえから始まって、天の国のたとえオンパレードになっています(『マタイ福音書を読もう2』140頁参照)。
そうしたたとえの一つ一つが、天の国の大事な一面を照らし出しているのです。この25章にも三つの話がありますが、「隣人を愛せ」という文脈からすれば、三つ目の31~46節の話が、今回のたとえを補完する関係になっていると言えるかもしれません。
(3)分かち合うことのできないもの
それでは、この厳しい、そしてわかりにくいたとえ話は、何を語ろうとしているのでしょうか。この話の焦点は、いったい何なのでしょうか。
あくまで伝統的な枠内での解釈ですが、私が思うには、「それは私たちの人生には、どうしても分かち合うことのできないものがある」ということではないでしょうか。
もちろん分かち合うことのできるもの、分かち合わなければならないものは、たくさんあります。私たちは教会に集い、祈りを共にします。聖書の言葉を共に聞きます。信仰を分かち合います。信仰の経験を分かち合います。共に主を待ち望みつつ、希望を分かち合います。
教会の外にあっても、私たちはさまざまなものを分かち合って生きています。喜びを分かち合います。痛みを分かち合います。パンを分かち合います。私がブラジルで働いていた2つ目の任地の教会は、とても貧しい地域にありました。貧しい人こそ、支えあわなければ生きていけないことをよく知っていました。自分で高いお金を払うような保険には入れませんので、困った時、大きな病気をしたような時には本当によく助け合っていました。私たちもみんな、多かれ少なかれ、支え合って生きています。そのようにして、私たちの生活、私たちの信仰は豊かな広がりをもってきます。
しかしそうでないものもあるのではないでしょうか。
たとえば責任というのはいかがでしょうか。もちろん責任も互いに担い合うことによって、限りなく軽くされていきます。しかしながら他の人とはどうしても分かち合えないものがある。どうしてもその人自身が担わなければならない領域というものがある。そこでは甘えは通用しません。
罪というのも、そうした種類の事柄です。他の誰も引き受けることができないものです。友人として、親として、妻として、夫として、赦すことはできても、代わってあげることはできない。私たちはむしろ、そういう中でこそ、主イエスと出会うと言えるかもしれません。
他の人たちが入り込むことができない最たるものは、私たちの死です。もしもたとえ他のすべての経験を他の人と分かち合うことができたとしても、死だけは分かち合うことができません。誰も共に死んであげられない。心中というのはあります。しかしそれも厳密に言えば、二つの死がただ隣り合わせになっているだけです。私たちはひとりで死んでいかなければならないのです。それはどんなに恵まれた人生を送った人であっても、例外のない厳粛な事実なのです。
この賢いおとめたちは冷たいようですが、仮にどんなに親切なおとめであったとしても、分けてあげられないものがあるのです。このたとえは、ひとつの大事な意味として、その厳粛な事実、甘えやごまかしのきかない事実を、伝えようとしているのではないでしょうか。
(4)それぞれの責任
今日は、旧約聖書は、エゼキエル書18章を読んでいただきました。この箇所は、それぞれの罪の責任はそれぞれにあるということを宣言した箇所として知られています。この当時は、他の周辺諸国同様、因果応報のような世界観が漠然と信じられていました。
エゼキエルは、イザヤやエレミヤと同じように、民の不信仰、不誠実に対して、神様の審判と悔い改めを説いていました。ただエゼキエルは、民族・国家というものがまるまる滅びてしまったという事実に直面して、もはや先祖が悪いというような他に責任を問うやり方では、問題の解決がないと見て、「それぞれの責任」ということを語るようになるのです。
「主の言葉が私に臨んだ。『あなたがたがイスラエルの地について、『父が酸っぱいぶどう酒を食べると、子どもの歯が浮く』ということわざを口にしているのは、どういうことか。私は生きている――主なる神の仰せ。あなたがたはイスラエルで二度とこのことわざを口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も私のものだ。罪を犯した者は、その者が死ぬ。』」エゼキエル18:1~4
その後、さまざまな例をあげて、誰かが悪いことしたら、その本人の責任であって、その子どもや親は関係がない、ということを告げるのです。これは当時も今もある因果応報という考え、つまり「親の因果が子に報い」という考え方を超えていくものです。バビロニアで捕われていた人たちは、自分たちのせいではなく、親のせい、先祖のせいで、こうなっているのだと思っていました。そしてあきらめの気持ちもあって、自分たちの罪に気づかず、悔い改めようともしない。しかしそうではない、というのです。そして最後にこうまとめます。18章30節。
「それゆえ、イスラエルの家よ。私があなたがたをそれぞれの道に従って裁く――主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきにはならない。あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルよ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」エゼキエル書18:30~33
私たちは、自分の罪については、一人神に向かって立ち、それを担っていかなければなりません。先ほど、申し上げたように、むしろそうしたところでこそ、イエス・キリストと出会うということも言えるでしょう。
(5)一人で主の前に立つ
ボンヘッファーは、『共に生きる生活』という書物の中で、「交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい」と言いました。これはある意味でわかります。しかし同時に、「ひとりでいることのできない者は、交わりの中にいることを用心しなさい」とも言いました。
私たちは、しばしば一人でいることができないから、それを忘れるようにして、甘えの気持ちで交わりの中に入ろうとするのではないでしょうか。私は、そういうこともあってもよいのではないかと思いますが、私たちは、どこかで自己を確立しなければならない。主の前に「一人で立つ」ことを学ばなければならない。逆に言えば、主が一緒にいてくださるからこそ、それも可能だということもできるでしょう。
「交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。ひとりでいることのできない者は、交わりの中にいることを用心しなさい。」
(6)場所はたくさん用意されている
さて、このたとえから学ぶ二つ目の大事なことは、この花婿が閉めた扉が天の国への扉であるとすれば、その扉は私たちの前でまだ閉まってはいないということです。今この言葉を聞いているすべての人の前に開かれています。主イエスは、ヨハネ福音書14章のところで、こう言われました。
「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:2~3
定員オーバーで閉まることはありません。「何人でも入れます。ぜひいらっしゃい」というイエス様の招きがここにあります。私たちは、その招きに応えるべく、主を待ち望んで生きるのです。
(7)時を見失わないように
問題は「時がある。その時を見失わないように」ということです。主イエスは、こう言われました。
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」マタイ25:13
ここには「目を覚ましていなさい」とありますが、実は「賢いおとめ」たちも目を覚まし続けていたわけではありません。彼女たちも眠っていました。賢いおとめたちと愚かなおとめたちの違いは、眠っていたか、起きていたかではなく、油を用意して眠っていたか、油を用意しないで眠っていたかの違いです。
「愚かなおとめ」たちは、「今か今か」と目を覚まして起きていようとして、かえって疲れ果てて、バタンキューと用意もなく眠ってしまったのかもしれません。私たちは眠らないと体がもちません。
私は信仰をもって生きるということは、ちょうど油を用意して生きるようなものではないかと思います。きちんと油を用意していれば、居眠りをするようにリラックスして生きていてもよいのです。しかし油を用意していないと、いざ何かが起こった時にあわててしまうのです。家族に大変な不幸が起きたとか、自分自身の命があと何か月、何日というふうに宣告されたとか、そうした時、最後の最後のところでは他の人は何にもしてあげられないのです。何があろうともあわてておどおどしない人生を歩むためには、自分でしっかりと生きている土台を築いていかなければならないのです。
クリスチャンというと、どういうイメージが持たれているでしょうか。世間ではクリスチャンというと、融通の利かない固い人間というふうに見られることが多いのですが、私はそんなことはないと思います。信仰をもって生きるということは、人生に対してがちがちにならないで、かえってゆとりをもって生きていかれる。リラックスして、安心して居眠りもできるような、そういう生き方ができるようになることだと思います。
宗教改革者ルターは、「たとえ、明日世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える」と言いました。そのような思いをもって、冷静に、しかし終わりの日の備えをしつつ、生きていきましょう。