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2025年9月14日説教「神様の配慮」松本敏之牧師

創世記1章31節‐2章4節a マタイ福音書13章24~30節

(1)「天の国」のたとえ

先ほど読んでいただいたマタイ福音書13章24~30節は、先週の日本キリスト教団の聖書日課です。先週はこれを扱うことができませんでしたので、本日、この箇所で説教させていただくこととしました。特別に高齢者祝福に関係する聖句ではありませんが、神様の深い配慮について心に留めることは、高齢者の方々にとても深い意味のあることであると思います。この箇所は、特に平和について大切な示唆を与えられるたとえ話です。

イエス・キリストは、たくさんのたとえ話を語られました。特に「天の国」のたとえは、たくさんあります。この13章にもたくさんの「天の国」のたとえが記されています。いや、イエス様の語られたたとえは、ある意味ですべて「天の国」のたとえであると言えるかも知れません。「天の国」とは、いわゆる「天国」、つまり私たちが死んでから行く世界のことではない。それもある意味で含まれるでしょうが、それだけではない。一言で言うならば、神様の支配される世界のことです。それが見えない形で、すでに、今ここで始まっている。それはなかなか私たちにはわからない。しかし確かに始まっている。それをいろんな側面から、いろんなたとえで説明されようとするのです。

(2)良い種が蒔かれた良い世界

さて、今日のたとえも天の国のたとえですが、このように始まります。

「天の国は。良い種を畑に蒔いた人に似ている。」マタイ13:24

天の国は種蒔きに似ているのです。36節以下に、このたとえの説明が出ているのですが、その説明によると、「良い種を蒔く者は人の子」(37節)、つまりイエス・キリストです。そして「畑は世界」(38節)です。私たちはまずここから大事なことを聞き取りたいと思います。それは、この世界は、よい世界だということです。そしてイエス・キリストによって良い種が蒔かれた世界なのです。

創世記によれば、最初に、神は、天地を創造され、その後、光を創造されました。

「神は言われた。『光あれ。』すると光があった。神は光を見て、良しとされた。」創世記1:3

この形式はその後も続きます。

「神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。」創世記1:10

一つ一つ、一日一日、神はこの世界を創造しながら、「良し」とされていったのです。そして1章の一番終わりには、こう記されています。

「神は造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。」創世記1:31節~2章1節

それが神の創造された世界です。私たちの世界には、さまざまな問題があります。それはこのたとえ話でもわかる通りです。しかし私たちは、この「世界」という畑は、神に属するよい世界だということを、確認したいと思うのです。創造の御業もそうですが、さらに人の子であるイエス・キリストが良い種を蒔かれた畑だということです。そしてイエス・キリストが蒔かれた種が、今芽を出している。私たちはそういう世界に住んでいるのだということを信じたいと思います。

(3)敵の仕業だ

それではどうしてそのよい世界に悪いことが存在するのか。それはずっと昔から続いている大きな問いです。良いお方が良い種を蒔かれたのであれば、悪は存在しないはずではないか。その問いは、このたとえの中の僕たちが、いみじくも言い表しています。

「ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どうして毒麦が生えたのでしょう。」マタイ13:27

その僕の問いに対し、主人はこう答えます。

「敵の仕業だ。」マタイ13:28

もう少しさかのぼってみれば、こう書いてあります。

「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。」マタイ13:25

この世界には、神に敵対するものがいるということです。聖書は、それをサタンとか、悪魔とか呼んでいます。悪霊という時もあります。しかしながら、それはこの世界の支配者ではありません。侵入者です。夜中にこっそりやってきて、悪い種を蒔いていく。良い種を蒔く主人に反する行為をする。それは決して偶然にそうなるのではなく、私たちを神様が導こうとしておられるのとは反対の行為をするのです。私たちはそうした力の存在をあなどらないようにしたいと思います。私たちが自然に立っていると、そちらへ誘われるのです。しかも非常に巧みな仕方で。サタンは私たちに明らかにサタンとわかる顔をしているわけではありません。時には、神様と見分けがつかない。神様とそっくり、イエス・キリストとそっくりのことをやる。イエス・キリストとそっくりの言葉を語るのです。いや聖書の同じ言葉を用いて、サタンは人を誘惑することができる。実際、イエス・キリストが荒れ野で誘惑を受けた時、サタンは聖書の言葉を用いて、イエス・キリストに近づいたのでした。

イエス・キリストが良い種を蒔いているのを見て、それとそっくりの動作で、毒麦の種を蒔いていくのです。私は、もしもこの世界で神様に一番そっくりの存在を挙げるとすれば、それは案外、サタンであるかも知れないと思います。宗教改革者のルターは「神は教会を建て、サタンはチャペルを建てる」と言ったそうです。私たちは、その力をあなどらないようにしたいと思います。

しかしその力がいかに大きいように見えても、それは所詮侵入者です。支配者ではない。夜中にこっそりやって来るものです。私たち自身はそれに打ち勝つ力をもっていなくても、神の力の前では、何の力も持たないものであるということです。私たちは、軽々しい楽観論は退けなければなりませんけれども、同時に過度の誤った悲観論も必要ない。どんな敵がいようとも、この世界は神のよき畑です。それがサタンの畑になることはありません。やがて収穫の時に、神様がそれを摘み取ってくださるというのです。

(4)「いや、ちょっと待て」

さて、主人が「敵の仕業だ」と言うと、間髪をいれず、僕がこう言います。

「では、行って抜き集めておきましょうか。」マタイ13:28

ある意味で、正義感に満ち溢れた僕だと思います。主人のために、何かしたいと思っていることもよくわかります。しかしその僕に対して、主人は何と言ったでしょうか。この答えがまたユニークなのです。

「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」マタイ13:29~30

これは、とてもおもしろい問答だと思います。実は、私はこの話は主イエスのたとえの中でも、最も好きなたとえの一つです。僕の方が、悪いことを許せなくて、気持ちが逸っている。そして何か主人のためにしたいと思っている。「では行って抜き集めておきましょうか。」

ところが主人の方が、僕をいさめるのです。「いや、ちょっと待て。そうあわてるな。そんなにあわてると、間違うぞ。」この僕は不正を許すことができません。悪がのさばっているのを許すことができない。そして自分の手で、正義の鉄槌をくだそうと申し出る。自分で解決しようとする。主人のために、と思っているのだけれども、不思議なことに、いや皮肉なことに、この僕が、主人を追い越してしまうのです。しかし主人は、ここで毒麦を抜き集めることよりも、間違えて良い麦を抜いてしまわないように、ということを優先されたのです。

(5)9・11の時のこと

これは私たちが今日、平和について考える時に、大事な示唆を与えてくれるものではないでしょうか。

今でも忘れられないのは、いわゆる9・11から始まる一連の動きです。2001年9月11日に、ニューヨークとワシントンDCが攻撃されました。アメリカ史上、はじめてのことでありました。アメリカはその後、数ヶ月して、アフガニスタンに戦争を仕掛け、タリバーン政権を倒し、さらにイラクに攻撃を仕掛け、フセイン政権を倒しました。実は、アメリカにはアメリカの打算があったであろうことは言うまでもありませんが、見かけは正義の戦争を装っている。「それは本当に正義の神様の望まれることなのですか」と思わざるを得ませんでした。

「悪いやつはピンポイントで正確に爆撃します」。しかしながら、実に多くの誤爆がありました。この主人であれば、悪いやつを引っこ抜くことよりも、誤って誤爆することのないように、ということを優先したのではないでしょうか。「少々の犠牲はやむを得ない」とはおっしゃらなかったであろうと思います。

(6)キング牧師「敵の視点でものを見る」

もちろん、「テロという行為が許されるものではない」というのは、共通理解であると思いますが、なぜそのようなことが起きるのかということに、私たちは目を向けなければなりませんし、それにどう対応するのかということも慎重に吟味しなければなりません。それを押さえるためにと信じて、やっている行為がかえって憎しみを増幅させ、かえってテロ事件は増えています。この世界は、決してより安全な世界にはなっていません。どんどん平和から遠ざかっていくように思います。

そのような時に、私たちは立ち止まって考えなければなりません。神様は何を求めておられるのか。今しようとしていることが果たして神様の御心に沿ったことであるのか。マーティン・ルーサー・キング牧師は、ベトナム戦争の真っ只中で、「私たちは、敵の視点、自分が敵だと信じている人の視点で、ものを見なければならない」と言いました。

私たちは、何か間違いに気付くと、気になります。人の過ち、人の罪は一層気付きます。そして間違いを正したいと思う。しかしそうした熱心な思いがかえって問題を大きくすることがしばしばあります。自分が神様、イエス・キリストに代わって、そのお手伝いをしたいと思う。しかしいいことだと思ってやってみて、後でとんでもないことをやってしまったということもあります。誰かが、「人は時に神よりも宗教的になる」と言いました。おもしろい言葉です。「人は時に、神よりも正義をふりかざす」と言ってもいいかも知れません。神様を追い越してしまうのです。それを神様の方が、「まあまあ、そんなにいきり立たないで。じっくりと取り組もうじゃないか」とおっしゃるのです。「慎重であれ」ということでしょう。

今放映中の朝ドラの「あんぱん」でも、「こちらが正義だと思っていても、侵略された側から見れば、悪魔だということになるでしょう。逆転しない正義とは何か」と言っています。

(7)神の忍耐を学ぶ

私たちは、ここで神様の忍耐を学ばなければならないと思います。神様は良い者にも悪い者にも同じように雨を降らせてくださるお方、正しい者にも正しくない者にも太陽を昇らせるお方です。

もちろん、「忍耐することと」、黙って我慢することとは違います。誰かによって、自分が攻撃されると感じた場合は、何とか自分の心を守らなければなりません。その場合、信頼できる誰かに相談し、心の負担を軽くし、そして善後策を相談していくことが肝要であると思います。必ず逃れの道は用意されています。「やられたらやり返せ」では解決しないでしょう。

本当は、神様ご自身も、早く手を下した方がいい、早く毒麦を抜いてしまった方がいいと思いながら、忍耐しておられるのかもしれません。この神様の忍耐、「いやちょっと待て」というのは、一体何を意味しているのでしょうか。

一つにはここに書いてあるとおりでしょう。今、それを刈り取ろうとすると、間違ってよい麦まで摘み取ってしまうかも知れない。一緒に抜いてしまうかもしれない。説得力があります。しかし果たしてそれだけでしょうか。私はもう一つ隠れた理由があるように思えてならないのです。この「間違うかも知れない」というのは、むしろ僕を説得するための理由ではないかとも思います。私たち人間であれば、確かに間違うこともあるでしょう。しかし神様であれば、間違うことはないのではないでしょうか。神様であれば、早い段階で、毒麦と良い麦の根をきちんと分けて、毒麦の方だけを抜き取ることも可能でしょうか。全知全能の神であれば、それ位のことはできないことはないでしょう。

(8)毒麦も変わるかもしれない

それでは、なぜあえて、「いや、ちょっと待て」とおっしゃったのか。何を待っておられるのか。それは、このたとえを超えたことです。私たち実際の人間は、植物のように、あの人はよい麦で、あの人は毒麦、と言う風に分けることはできません。そうした中、今は毒麦であっても、いつかはよい麦に変えられるかも知れない、という風に待っておられるのではないでしょうか。実際の植物であれば、毒麦として生まれたものは毒麦、麦として生まれたものは麦、ということで、変わることはないかも知れません。いつかそういう話をしたら、いや植物の世界でも「突然変異はあるのです」と言われた方がありました。

それならば、私たち人間においても、もっと起こりうることでしょう。

今は確かに毒麦かも知れない。しかし来年、再来年、いや十年後、二十年後にはよい麦に変えられるかも知れない。実際の人間にはそういうことが起きるのです。私たちにその力があるというのではないでしょう。それを待ち、そのために祈り、そのために十字架にかけられている。だから「いや、ちょっと待て。今は抜くな」とおっしゃっているのではないでしょうか。そして最後の時に、私が正しい裁きをする、とおっしゃっている。いや私たち自身は毒をもって死ぬかも知れません。しかしイエス・キリストは、その毒を消してあまりあるほどの毒消しの力(あがないの力)を持っておられた。イエス・キリストにはその力があるし、それを言う資格もあるのです。

イエス・キリストは、私たちに、「裁きは私がきちんとするから、お前はそう逸るな。自分で裁きをくだそうとすると、間違って余計、大変なことになるぞ」、と言われる。そしてそう言いながら、ご自身も忍耐を持って、命をかけて、私たちが悔い改めて、キリストの弟子になることを待っておられるのではないでしょうか。そのイエス・キリストを思いつつ、私たちも平和を祈り、平和に向けて、正しい方向へ一歩を踏み出して生きたいと思います。

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