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2025年5月18日説教「神の愛」松本敏之牧師

ヨナ書3:10~4:11
ローマの信徒への手紙8:31~39

(1)ヨナ書のこれまでのあらすじ

昨年度まで聖書日課に基づいた説教を月に一度位してきましたが、十二小預言書の中のヨナ書のみ、全体を取り上げてきました。1月、2月、3月と、3章まで読んできましたが、4章のみ残っていましたので、本日、最後の4章を取り上げたいと思います。少しこれまでの物語を振り返っておきましょう。

第1章の冒頭、ヨナは神様からこう命じられました。

「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」ヨナ1:2

しかし、ヨナはこの命令に従わず、ニネベとは反対方向であるタルシシュ行きの船に乗り込みました。しかし神様は、ヨナが逃げるのをよしとせず、大嵐を起こします。船の中では、「誰のせいでこんな目に遭っているのか、くじで神様のみ旨を尋ねよう」ということになり、くじを引いたところ、ヨナに当たります。ヨナは、自分が主の御顔を避けて逃亡したことを船にいた人々に伝えて、「私を海に投げ込んでください。そうすれば、海は静まるでしょう」と言いました。人々は、ヨナの言うとおりにすると、確かに嵐はやみました。海に投げ出されたヨナは、魚に呑み込まれます。

「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませたので、ヨナは三日三晩その魚の腹の中にいた。」ヨナ2:1

ヨナは魚の腹の中から、祈りました。すると、神様はヨナの祈りを聞いてくださいました。主が魚に命じると、魚はヨナを陸地に吐き出します。そして第3章ですが、神様は再び、ヨナをニネベに遣わされます。

「さあ、立って、あの大いなる都ニネベに行き、私があなたに語る宣告を告げよ。」ヨナ3:2

ヨナは、今度は神様の言葉に従って、ニネベに向かいました。ヨナはまず都に入り、一日かけて歩いて、短い一言だけを語りました。それは「あと四十日で、ニネベは滅びる」(3:4)という言葉でした。それが神様からヨナに託された言葉です。「だから、そうならないように悔い改めなさい」ということを付け加えることもありませんでした。それは悔い改めの呼びかけではなく、裁きの宣告でした。悔い改めを呼びかけるには、もう遅すぎると思われたのかもしれません。ヨナ自身も、こんな町は滅びて当然だという思いがあったようです。しかし神様にとっては果たしてそうであったでしょうか。ただ「あと四十日でニネベは滅びる」という宣告だけにしたのは、ヨナが納得の行く言葉で、早く町を回らせるための方便であったのかもしれません。

というのは、ただ「滅びの宣告をするだけだとすれば、四十日という猶予期間はいらなかったでしょう。猶予期間を置かれたということは、やはりすぐに滅ぼすのではなく、ヨナと違って、悔い改めるかどうかを見ながら、心のどこかでそれを待たれたのではないかと思うのです。

ニネベの町では、ヨナの思いを超えたことが起きます。

「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ、粗布をまとい、灰の上に座った。」ヨナ3:5~6

その後、今度は王自らが街中の人に悔い改めの呼びかけをしました。

「神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」ヨナ3:9

ここで奇跡のようなことが起きます。ニネベの人たち、そしてニネベの町全体が悔い改めたこと自身がひとつの奇跡のようなことであったでしょう。さらに最後の10節。

「神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった。」ヨナ3:10

(2)ノアの洪水物語

今日は、ここから読んでいただきましたが、ここは神様が一旦決心なさったことを「思い直された」ということが記されている珍しい聖書箇所です。神様は、本当は滅ぼしたくない。そのことは、やがて4章を読むときに、私たちに伝わってきます。そこには、40日間の猶予を与えて、待っておられる神様の姿が記されるのです。

私は、「神が思い直される」ということから、旧約聖書のある物語を思い出しました。ノアの洪水物語です。創世記6章から9章に記されています。

「主は、地上に人の悪がはびこり、その心に図ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。……だが、ノアは主の目に適う者であった。」創世記6:5、8

そして大洪水によって世界を刷新されるのです。しかしその結果はどうであったかと言うと意外なことになります。

「主は宥めの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。『人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものすべてを打ち滅ぼすことは二度としない。』」創世記8:21

つまり、神自身が、最初は造ったことを悔やまれるのですが、洪水の後は、「そんなことをしていれば、何回世界を造り直しても同じことだということに気づかれる。それでは人間など造らないほうがよいということになったのかと言えば、そうでもない。神は人間と共にあることを選ばれるのです。それではどうなるのか、と言えば、自分で自分に契約を結ぶのです。

「私はあなたがたと契約を立てる。すべての肉なるものが大洪水によって滅ぼされることはもはやない。……代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。私は雲の中に私の虹を置いた。これが私と地との契約のしるしとなる。」創世記9:10~13

ここに人間に滅んでほしくないという神さまの意志が現れています。

(3)ニネベの町についても、神は思い直された

今日のヨナ書3章10節の「神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった」ということの背景には、そうした神の意志があるのだと思います。

しかしそれはヨナの納得するものではありませんでした。ヨナにとっては、「そんな短期間の悔い改めで赦されるものなのか」と思ったのでしょう。滅ぼされることはないとわかったら、またしばらくしたら、元の悪事に戻ってしまうのではないかとも考えたかもしれません。ヨナは神様に訴えます。

「ああ、主よ、これは私がまだ国にいたときに言っていたことではありませんか。ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。」ヨナ4:2

これはちょっとした驚きの言葉です。ヨナは、自分が警告を発しても、ニネベは悔い改めるはずがないから、行きたくなかったというのではなく、自分が「40日したら滅びるぞ」と言っても、神様はニネベの人の悔い改めを見て、滅ぼすのをやめるかもしれないから」ということでした。それが、ヨナがニネベに行きたくなかった理由だったというのです。そして神様がどういう神さまであるかをここで表明しています。これは、以前から言われてきた神さまの定義のようなものです。

「あなたが恵みに満ち、哀れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っていたのです。」ヨナ4:2

この言葉は、たとえば、出エジプト記34章6節にも、ほぼ同じような言葉が出てきます。

「主、主、憐み深く、恵みに満ちた神。
怒るに遅く、慈しみとまことに富み
幾千代にわたって慈しみを守り
過ちと背きと罪を赦す方。」出エジプト34:6

神様はそういう方だというのです。ただこう続きます。

「しかし罰せずにおくことは決してなく
父の罪を子や孫に
さらに、三代、四代までも問う方。」
出エジプト34:7

罰も与えるけれども、恵み、赦しのほうはそれをはるかに超えて千倍位大きいというのです。ヨナは、神様がそういう方であることを知っていたというのです。一体、ヨナは何が不満だったのでしょうか。

(4)不満をもったぶどう園の労働者

でも、これと同じような反応をした人を、新約聖書の中にも見ることができます。

ひとつはマタイ福音書20章1節以下に出てくる「ぶどう園の労働者」のたとえです。

主人は、朝6時に広場に行って、一日1デナリオンの契約を結んで雇います。その後、9時にも、12時にも、午後3時にも公園に行って追加で雇いました。あげくの果てには夕方5時にも公園に行って雇いました。夕方(おそらく6時頃)に、賃金を支払い始めます。あとから来た人から始めて、1デナリオンずつ支払ってやりました。朝6時から来ていた人たちは、それを見て、一体自分たちはいくらもらえるのだろうとワクワクしていたかもしれません。しかし実際には、1デナリオンでした。彼らは不平を言いました。

「最後に来たこの連中は、1時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。」マタイ20:12

しかし主人はこう答えます。

「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも私の気前のよさを妬むのか。」マタイ20:13~15

この主人の行動は、朝6時から働いていた人にとっては大いに不満でしたし、理解不能でしたが、「自分のものを自分の好きなようにしてはいけないのか」と言われましたが、まだに私たちの神さまもそうでありましょう。私たちの思い通りに動かれるとは限らない。常識を超えているのです。

(5)不満をもった放蕩息子の兄

もうひとつ、これと同じような反応をした人が、イエス様のたとえ話に出てきます。誰かすぐに思いついた方もあるでしょう。そうあの放蕩息子のお兄さんです。ルカ福音書15章に出てくるたとえです。

弟のほうは、お父さんに自分が将来もらうはずになっている財産を、「今、先にください」と言います。お父さんは不安になりましたが、息子の言うとおりにしてやりました。しかし町へ出るとやりたい放題のことをして、すっからかんになってしまいます。そこへ飢饉がやってきて、食べるものに困ってしまいました。その弟息子は「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人同様にして働かせてください」というつもりで、その練習もして、お父さんのところへ行くのですが、お父さんはそれを言わせず、最上級の服を着せてやって、息子として迎えてやりました。一日中働いていた兄がくたくたになって帰ってきます。すると、何か家が騒がしい。「どうしたのか」と雇い人に聞くと、「弟様が帰ってこられたのです」と告げました。兄息子は不満です。へそを曲げて家に入ろうとしません。お父さんは、兄を外に迎えに行きました。兄息子は言いました。

「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」ルカ15:29~30

「どうなってるのですか。なんなんですか、これは一体!」大爆発です。しかし父親は静かにこう諭しました。

「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」ルカ15:31~32

兄は、この父親の言葉に何も応答していません。紙芝居だと、ここで兄は父親の気持ちを理解して、兄もその輪の中に加わるのですが、聖書はその手前で止めています。実際に、まだ納得しないか、納得するか、その両方の可能性があるでしょう。しかし大事なことは父親の意志、神様の意志がすでに現わされたということです。

(6)とうごまの木を用いる神

ヨナの物語も同様です。最後は開いたまま終わります。

さて、その前に、神様がヨナにわかるように、あるものを使ったたとえを示されます。それは「とうごま」という植物です。

ヨナは、ニネベの町がどうなるかを見届けようと丘の上に小屋を建ててそこに留まりました。「ここならよく見える。「神様は果たして先ほど言われたように、踏みとどまられるか。それとも初志を貫いて滅ぼされるか。どちらでもいいや」と思っていたかもしれません。高みの見物です。

そこに神様はとうごまの木を伸びさせます。一日で大きくなり、ちょうどよい日陰ができました。ヨナは、「やったー。ラッキー」と思ったでしょう。ところが翌日になると、神様は一匹の虫に命じて、とうごまを枯らせてしまいます。太陽がカンカン照りになって、ヨナは不満たらたらです。「生きているより死んだほうがましです」とまで言いました。そこで神さまはこう言われました。

「あなたはとうごまのことで怒るが、それは正しいことか。」
「もちろんです。怒りのあまり死にそうです。」
「あなたは一夜にして生じ、一夜にして滅びたとうごまをさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、おびただしい数の家畜がいるのだから。」ヨナ4:10~11

ここでもヨナがどういう反応をしたかが記されていませんが、神様の意志はここではっきりとしました。神様は、悔い改めて神様のもとに立ち返るのを喜んでおられ、待っておられるということです。そして私たちすべての人たちに、それを一緒に喜んでほしいと望んでおられるということです。

私たちもそのような神様がいて、私たちを待っていてくださるということを感謝して、そちらを向いて生きていきたいと思います。

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