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2023年9月10日説教「すべてはあなたのもの」松本敏之牧師

歴代誌上29章10~20節
マルコによる福音書12章13~17節

(1)歴代誌とは

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課、今は歴代誌というところを読んでいます。7月8日から歴代誌上に入り、詩編を10編はさんだ後、8月23日から歴代誌下に入りました。10月3日まで続きます。どのくらいの方が、聖書日課についてきておられるでしょうか。歴代誌だけで3か月近くになりますので、それなりに大きな部分です。そしてなかなか読みにくいところです。特に今読んでいる部分は、歴代の王様の名前がずらずらと続いており、誰が誰だか頭がこんがらがってきます。少しでも整理して読めるように、歴代の王の名前を書いた年表をプリントして、玄関に置いておきましたので、利用したい方はどうぞお持ち帰りください。また教会の聖書日課で聖書を読んでおられない方も、歴代誌がどういう書物であるかを知っておくのは意味のあることですので、ちょっとがまんしてお聞きいただきたいと思います。

歴代誌は、その名が示す通り、歴史を書き記しています。ただ面白いことにアダムから始まるのです。アダムから始まって、アブラハムなど族長たち、モーセ、ヨシュア、イスラエルの王国時代、その分裂と滅亡、そしてペルシャ帝国の成立までの長い歴史です。内容的に、歴代誌の前にあるサムエル記と列王記に重複する部分がかなりあります。ただ違った視点で書かれていて、その違いに注目すると、それなりに興味深いものがあります。

(2)歴代誌の系図の意義

内容を見てみますと、歴代誌上は、先ほど言いましたように、アダム以下の系図から始まります。アダムの子孫という小見出しのもとに、こう始まります。

「アダム、セト、エノシュ、ケナン、マハラエル、イエレド、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、ヤフェト。」歴代誌上1:1~4

また1章24節以下には「アブラハムの子孫」という小見出しのもとに、こう続きます。

「セム、アルパクシャド、シェラ、エベル、ペレグ、レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラムすなわちアブラハム。アブラハムの子らはイサク。イシュマエル、彼らの系図は以下のとおり。」歴代誌上1:24~26

そしてその後、イサクの子どもがエサウとヤコブという双子の兄弟ですが、そのヤコブがイスラエルと呼ばれるようになり、その子孫からイスラエルの歴史が始まっていきます。歴代誌上は、1章から9章まで9章にわたってサウル王までの系図を記しています。

それを細かく、たどっていくことはあまり意味のないことでしょうが、なぜそこまでして系図にこだわるのかを考えてみることは意味のあることでしょう。

系図を記すことには、ひとつには権威付けということがあったかもしれませんが、少なくともそれだけではありません。系図は、聖書の信仰がどういうものであるかについて示唆を与えてくれます。系図は、神様の約束や決意が継続してきたことを示すために書かれています。

歴代誌の系図では、第一に、神の創造計画の中で人類が特別な地位を享受している(役割を担っている)ことを確認します。第二に、イスラエルの現在(と言っても2023年ではなく、執筆時の「現在」)がいかにその過去に依存しているかを示します。イスラエルの「今」があるのは、過去の神様の恵み、神様との約束があったからだということ。第三に、人類のための神様の当初の目的がいかにしてイスラエルのうちに成就しているかを示しています。そして第四に、キリスト教の立場から言えば、イスラエルのための神の計画が、究極的にはいかにしてイエス・キリストによって実現されるかへとつながっていくかを理解するのに役立ちます。それは、マタイ福音書冒頭にあるイエス・キリストの系図につながるものでしょう。

(3)歴代誌の枠組と特徴

歴代誌は、系図の後、歴代誌上の10章から歴代誌下の9章までは、イスラエル統一王国時代、すなわち、サウル王、ダビデ王、そしてソロモン王の時代を扱います。歴代誌下10章から終わりの36章までは、南北分裂とユダ王国の歴史について述べます。ちなみに歴代誌は列王記と違って、分裂後の北イスラエル王国についてはほとんど述べていません。エルサレムを中心にした南ユダ王国に集中して述べるのです。

それが全体の枠組みですが、先に申し上げたように、かなりの部分がサムエル記、列王記に重なっています。ただ違う部分もあります。特に私が印象深く思うのは、「神の箱」の扱い、「神殿建築」の扱いです。神の箱というのは、モーセが神様からいただいたとされる十戒をしるした石の板が収められている箱です。その箱は、出エジプト記の後半部分で制作されるのですが、荒れ野の旅の間はずっと担いで運ばれ、どこかに長く停泊する時には、幕屋というところに安置されます。その後、ヨシュア記、士師記の時代、イスラエルの民が定住すると、神の箱は聖所に収められます。

ダビデの時代になって、ダビデはその箱を自分の町に迎えることになります。そして宮殿を建てて宮殿に置きます。それからその神の箱を収める神殿を建てる計画を立てます。しかしそれは実現にはいたらず、息子のソロモン王の時代に神殿は完成することになるのです。

(4)「神の箱」を迎えた後のダビデの祈り

その要所要所で、歴代誌は、印象深い祈りの言葉を記しています。まずはダビデが神の箱を迎えに行ったところ。歴代誌上15章1節にこう記されています。

「ダビデは、ダビデの町に宮殿を作り、神の箱のための場所を用意し、その場所のために天幕を張った。」歴代誌上15:1

そして神の箱を迎えた後、感謝の祈りを捧げます。長い祈りです。16章7節以下です。

「主に感謝し、その名を呼べ。
もろもろの民に主の業を知らせよ。
主に向かって歌い、主をほめ歌え。
すべての奇しき業を誇れ。」歴代誌上16:8~9

「全地よ、主に向かって歌え
日ごとに救いの良い知らせを告げよ
国々に、主の栄光を
すべての民にその奇しき業を語り伝えよ。
まことに主は大いなる方、大いに賛美される方
すべての神々にまさり畏れ敬われる方。」歴代誌上16:23~25

長い祈りの最後はこういう言葉です。

「主に感謝せよ。
まことに、主は恵み深い。
その慈しみはとこしえに。
そして言え。
『我らの救いの神よ、私たちを救い
国々から集め、救い出してください。
私たちはあなたの聖なる名に感謝し
あなたの誉れを誇ります。』
イスラエルの神、主をたたえよ
いにしえからとこしえまで。」歴代誌上16:34~36a

「民はこぞって言った。『アーメン、主を賛美せよ』」歴代誌上16:36b

これらは、聖書の別の部分である詩編の祈りに通じます。もっとも詩編の作者は、かつてはダビデであると考えられていましたので、そこに同じトーンがあるのは不思議ではありません。

(5)神殿建築の準備

そしてダビデは神の家となる神殿の建築を夢見て、こう祈ります。17章25節以下です。

「わが神よ、あなたは僕の耳を開き、僕のために家を建てると言われました。それゆえ、僕はただただ御前に祈ります。主よ、あなたこそ神です。あなたは僕にこの良いことを約束してくださいました。どうか今、僕の家を祝福し、御前でとこしえに長らえさせてください。主よ、あなたが祝福されたものは、とこしえに祝福されるのですから。」歴代誌上17:25~27

歴代誌はその後、歴代誌上の21章で人口調査について述べます。それは。神殿建築の準備の準備なのです。そして22章で、いよいよ神殿建築の準備に取り掛かります。ダビデはこう言いました。神様がダビデに告げられた言葉の引用です。

「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を重ねた。私の前で、あまりに多くの血を大地に流したため、あなたが私の名のために神殿を建てることはない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人となる。私は周囲のすべての敵からその子を守り、安らぎを与える。その子の名はソロモンである。私は彼の生涯の間、イスラエルに平和と静けさを与える。彼が私の名のために神殿を建てる。彼は私の子となり、私はその父となる。私はその王座をイスラエルの上にとこしえに堅く据える。」歴代誌上22:8~10

そのお告げを受けて、ダビデはソロモンにこの大事業を引き渡すためにできるだけの準備をしようとするのです。

「わが子ソロモンは若く、経験もない。また、主のために建てるべき神殿は、この上なく壮大で、万国に名声と誉れを得るものでなければならない。それならば、この私が彼のために多くの準備をしよう。」歴代誌上22:5

そして建築の準備をすると共に、神殿運営上の準備、つまり人の手配ですね。基本的に神殿にかかわるのはレビ人と呼ばれる人、祭司はアロンの系譜の人々が担います。そして詠唱者という神の言葉を詠唱する人たちの任命を行いました。あわせて神殿を守り、町を守る軍隊を組織します。さらに王室の財産管理者の任命をします。人口調査はそれらの人々を任命し、軍隊を組織するための準備であったのです。

(6)神殿建築の準備と祈り

そのような準備が整ったところで、ダビデは神殿建築の宣言をいたしました。28章です。

「私の兄弟たち、私の民よ、聞きなさい。私は主の契約の箱、私たちの神の足台を安置する神殿を建てる。志を抱き、建築の準備をした。しかし、神は私に言われた。『あなたは戦いに身を置き、人々の血を流してきた。それゆえ、あなたが私の名のために神殿を建てることはない』と。」歴代誌上28:2~3

そしてソロモンを立てられたことを告げ。「、ソロモンに対して、こう言うのです。

「わが子ソロモンよ、あなたは父の神を知り、誠実な心と自由な魂で神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを見抜かれる。もし主を尋ね求めるならば、主はあなたの前に現れてくださる。もし主を捨てるならば、主はいつまでもあなたを拒まれる。今、心に留めなさい。主は聖所とすべき家を建てるためにあなたを選ばれた。勇気をもって行いなさい。」歴代誌上28:9~10

そしてすべての準備が整ったところで、ダビデはこう祈るのです。先ほど司会者が読んでくださった祈りです。

「主よ、偉大さ、力、誉れ、輝き、威厳はあなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、王国もあなたのもの。あなたは万物の頭として高みにおられます。富と栄光は御前より出、あなたは万物を支配しておられます。勢いと力は御手にあり、その御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。」歴代誌上29:10~12

(7)「主の祈り」の頌栄の原型

この言葉をお聞きになって、皆さん、何かを思い起こされないでしょうか。主の祈りの結びの言葉を思い出してください。

「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです」という言葉です。これまでの文語訳では「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」という言葉です。これは元来の主の祈り言葉(マタイでは6:9~15)にはありません。カトリック教会の主の祈りでは、これを付け加えませんが、プロテスタント教会では、世界中でこの言葉を添える習慣があります。この言葉の元になっているのが、この歴代誌上29章(ここ)に記されているダビデの祈りの言葉なのです。

「国と力と栄光は」と私たちは祈ります。「王国もあなたのものです」さかのぼって最初に、「主よ、偉大さ、力はあなたのもの」と告げています。そして最後に「富と栄光は御前より出」とあります。良いもの、偉大なものをすべて、主なる神様に帰するのです。

私は、プロテスタント教会がこの言葉を元来の主の祈りに添えるのは意味があると思います。主の祈りそのものは、イエス・キリストが「こう祈りなさい」と弟子たちに、そして私たちに教えてくださった祈りです。それに対して最後の頌栄の言葉は、それへの人間の側からの応答になっているのです。さらに、この言葉があることによって、「主の祈り」が新約と旧約を結ぶ祈りにもなっていると言えるでしょう。

(8)神のものは神に返す

ダビデの祈りは、こう続きます。

「私たちの神よ、今こそ私たちはあなたに感謝し、誉れある御名をほめたたえます。取るに足らない私と、私の民が、このように自ら進んで献げたとしても、すべてはあなたからいただいたもの。私たちは御手から受け取って、差し出したに過ぎません。私たちは、先祖がそうであったように、あなたの前では寄留者であり、滞在者にすぎません。私たちの地上での生涯は影のようなもので、希望などありません。私たちの神、主よ、聖なる御名のためにあなたの神殿を建てようと準備したこの大量のものは、すべて御手から出たもの、すべてあなたのものです。」歴代誌上29:13~16

この祈りも多くのことを語っています。

先ほど、新約聖書のほうは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という、有名な納税問答のところを読んでいただきました。意地悪な質問をされたことへの、一つのテクニカルな答えであったわけですが、それを超えて、私たちの生き方、この世の在り方を示した名言だと思います。

「皇帝のものは皇帝に返せ。神のものは神に返せ。」しかしながら皇帝のものとはいったい何であったのでしょうか。

「皇帝」という言葉で象徴されるこの世の権威と、神の権威がそれぞれ別の領域で、対等に並んでいるかのように聞こえます。しかしそうではありません。皇帝といえども、それを皇帝が認めようと認めまいと、神によって造られた被造物です。この場合で言えば、ダビデ王もそうです。ですから皇帝も、もう一つ深い次元で言えば、神のものであるはずです。だとすれば、「皇帝のものは皇帝に返せ」という命令は、「神のものは神に返せ」という命令によって限界づけられていることがわかります。決して対等ではない。ですからもしもこの世の権威が、神の意志に反するようなことをしていれば、私たちはそれに従わず、神の意志がどこにあるかをただしていかなければならないことも起こってくるでしょう。

(9)後継者に委ねていく-断念と希望

このダビデの祈りが示す、大事な二番目のことは、ダビデが傲慢にならないために神様はダビデに限界設定をされたということです。ダビデは、ここで神殿建築のために「大量のものを準備した、とありますが、それはこの世的価値からすれば、ものすごいものであったことと思います。しかしそれも「御手から受け取ったもの」と、ダビデは言っています。ダビデは自分の代でその神殿を建てることはできないと告げられた時は、どんなにか無念な思い、残念な思いをしたことかと思いますが、この祈りを祈っている今は、「それでよかったのだ」という思いが前面に出ているのではないでしょうか。

私たちの仕事、この世の仕事、特に神様にかかわる仕事は、一代では完結しない、ということを告げています。後継者へと委ねていく。委ねていかなければならない、自分で完結することはできないという断念と、委ねていくことが許されているという希望の両方を語っていると思います。

私たちの現在は、過去の先輩たちの働きの上に成り立っています。それは、最初の系図を説明したところでも語った通りです。なぜ系図を掲げるのかというと、今の自分たちがあるのは過去の神様の恵みの故、過去の神様の恵みの故である、と言いました。それと同時に、私たちの今が、やがて来る世代、教会であれ、世界であれ、その将来のための準備になる、種まきになるということです。過去の先輩たちの働きの刈り入れをしながら、まだ見ない将来の世代のための種まきを同時にしていく。それが、神様の大きな計画の中で、私たちに求められていることではないでしょうか。この時のダビデの祈りも、奇しくもそのことを示しています。私たちの今あること。教会の内外で、家庭で、学校で、会社で、世界で、国で、そうしたことを念頭に置いて、神様に栄光を帰しつつ、神様の計画の一端を担うことが許されているのだという思いで進んでいきましょう。

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