2023年6月18日説教「小さき者の集う家」神奈川・溝ノ口教会牧師 飯田瑞穂
マルコによる福音書3章31節〜35節
鹿児島加治屋町教会創立145周年おめでとうございます。私は8年間この教会に在籍しましたが、本日の記念すべき礼拝で説教をする恵みを感じています。
加治屋町教会は1877年(明治10年)、アメリカプロテスタント教会メソジスト派の宣教師によって伝道がはじまり翌年に教会が発足しました。日本でキリシタン禁制が解かれてわずか4年、キリスト教が日本に上陸した黎明期以来の加治屋町教会の長い歴史を感じます。1941年には、日本基督教団に属し名称を鹿児島城南教会と変えました。照国町にあった教会堂は、1977年に敬愛幼稚園のあった現在地の加治屋町に移転し、名称を鹿児島加治屋町教会と変えたと聞いています。加治屋町教会の歴史を振り返る時、歴代の牧師や信徒の働きはもちろんのこと、敬愛幼稚園を創設したアリス・フィンレー宣教師のことも記念したいと思います。今回、私は、礼拝堂前にあるフィンレー先生の御写真と再会できることを楽しみにしていました。こちらを見つめる深い眼差しが「愛の家にお帰りなさい」と礼拝者を招いているように感じます。
今日の聖書は、イエスさまと弟子達が伝道の拠点として泊まった家での出来事です。そこは弟子シモンの家で、イエスさま一行をもてなしたのがシモンの義理の母親のようです。名もなき人たちがイエスさまの宣教活動を底辺で支えていたことがわかります。イエスさまが滞在されれば、病を癒してもらうために方々から集まる人々でこの家は溢れます。2章を読むと、中風の人を戸板に乗せてこの家まで運んで来た男たちは、中に入れなかったので、家の屋根を剥がして、天井から中風の人をイエスさまの目の前へ吊り降ろしたことが記されています。家の者にとっては、部屋が占拠され、屋根まで剥がされてしまうのですから迷惑至極なことでした。けれども、イエスさまは人々が出会うこの家を愛し、家の者を愛し、この家を自分の家とされたのではないでしょうか。一方、一家の大黒柱だったイエスさまが故郷を出て宣教を始めると、あらぬ噂がイエスさまの家族の耳にも入ってきました。安息日に癒しを行うイエスについて、あれは律法違反だ、気がおかしくなったなどと喧伝されれば、ムラ社会で生きる家族の気が休まりません。母マリアやイエスの弟たちは、ナザレの家に連れ戻す勢いでイエスさまをこの家まで探しに来たのです。彼らの気持ちの中に、自分の家族には貧しい人たちと関わりをもってほしくないという本音があったのかもしれません。しかし、イエスさまは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言い、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、又母なのだ」と家族を退けました。一見、冷たい言葉のようですが、イエスさまは決して家族が憎いのではありません。
ある時、悪霊にとりつかれた人がイエスさまに癒されると、そのまま着いて行こうとします。しかしイエスさまは「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとくしらせなさい」と諭しました。又ある時は、弟子が目の不自由な人を前にして「この人が生まれつき目が見えないのはだれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と問うと、イエスさまは「神の業がこの人に現れるためである」と答えました。病気、障ガイ、精神疾患を患う人々。徴税人や娼婦、礼拝に出られない羊飼い・・・。イエスさまが家を出たのは、律法学者やファリサイ人によって罪人と断罪された人達を、家族という運命論や諦めから解放し、その人の尊厳を交わりの中で回復させるためではなかったでしょうか。家族とは、時として厄介です。家族という血縁が前面にでると世間体が幅をきかせます。民族という血が優先すると世界は排他的に暴力的になります。
わたしが北海道の小さな教会で子育てしていた頃、東京の青年達がよく牧師館に泊まりに来ていました。若い人たちは、旅をし、旅先の家の子どもたちと遊び、大人に話をきいてもらいたくて来るのです。夜を徹して彼らの語りを聴くうちに、誰もが親や家族との葛藤を抱えていることに私は気付きました。愛情のすれ違いだったり、過度の期待を負わされていたり、親の正しさの前で息苦しさを感じていたり。彼らは、しばし親の家を出て、人生の意味を真剣に考えていました。
家ということを考えた時、戦前、日本では、家の家長が絶対的な力を持ち、末端の女性は家という支配構造の中で父親か夫の所有物とされた時代がありました。家の中で妻と妾が同居することは男の甲斐性といわれ、女性は家を守り、貧困家庭の娘は家のために身売りされました。私は、現在、日本キリスト教婦人矯風会の働きを担っていますが、明治期の女性達の苦しみが、矯風会を発会させたともいえるのです。
1873年キリスト教の解禁で、鹿児島には伝道の火がともされ、同じく欧米から渡ってきた女性宣教師によって日本で女子教育の道も開かれていきました。隣の熊本では酒乱の夫の暴力に苦しみ半盲状態に陥った矢島楫子は、離縁した後上京し、女性宣教師に見出されて女子教育に従事すると、数年後には56人の女性キリスト者で「矯風会」を創立しました。特に身売りされた女性のために働くようになるのです。日本の女性達が、初めて聖書に出会った時の衝撃を想像してみると、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」と、「ひとり」の存在の価値を謳う御言葉が、彼女たちをどれだけ励ましていたのかと思います。
さて、1916年(大正5年)、ここ加治屋町にも、女性宣教師アリス・フィンレー先生が来鹿しました。家父長制の強い日本の風習の中に飛び込んだフィンレー先生は、日本の貧しさと女性の地位の低さに驚いたのは違いありません。女性宣教師の中でも幼児教育者は珍しく、女性や子どもが数にも入れられない時代に、子どもを抱きしめるフィンレー先生の姿から愛される体験は子どもの長い人生を支える土台であると教わった者がたくさんいました。ミス・アリス・フィンレー記念誌を読むと、敬愛幼稚園一期生がこう書いています。「S君と、先生は男か女かということで喧嘩をしたことを覚えている。当時は女の洋装など考えられもしなかったし、僕の記憶では外人の男を見たこともなかった。そんな意味でも若い女の身で遠い鹿児島に単身赴任された先生の大きな伝道精神に頭の下がる思いがする」と。若い女の身で!桜島、加治木、串木野、志布志など農村を訪ね歩くフィンレー先生は人々から奇異の目で見られましたが、家を出て来た女性宣教師の存在は、家の中でしか生きられなかった日本の女性たちに血縁を超えて他者のために働く新しい生き方を示していたのです。加治屋町を拠点にしてフィンレー先生自身が「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、又母なのだ」の御言葉を実践し、心から鹿児島の地を愛し、鹿児島の人々を愛し、その豊かな出会いを喜びにしながら福音の種を蒔いたことは、今でも教会と幼稚園に恵の足跡を残しています。
日米間で戦時色が濃くなった1935年、フィンレー先生は鹿児島を離れました。日本の近代国家が男性には「お国」のために命を投げ出して戦う精神を、女性には兵士を産み育て国に子を差し出す役割を叩き込む時にも、先生は小さき者の命を慈しみ、戦争を否定し平和再来を願い去っていきました。
戦後、軍国主義国家の土台となっていた家制度はなくなりました。けれども、「ひとり」の存在の尊さが国や家族よりも後回しにされてきた日本で、わたしたちは本当に、血縁による家族から自由になったのでしょうか。
この地で、私にとって忘れられないできごとがありました。園庭で園児の声がする中、唐突にロビーに入って来た方がいたのです。その人の話では、夢の中で突然「悔い改めよ」との神の声がしたのに飛び起き、鉄砲玉のように家を飛び出してきたそうです。両親が熱心な信者でもあり敬愛幼稚園の卒園生でした。私は、その方の体調がかなりよくないことを知っていたので「どうやって来たのですか?」と思わず尋ねると、自転車をこいできたとの返事。神の声に打たれ無我夢中で走ってきたことを察しました。礼拝堂に入り一人静かに祈り帰って行く姿を見て、加治屋町教会の歴史の途上で、人知れずに礼拝堂に入り神の前で心を注ぎ出した人が、どれだけいたのだろうかと思いました。人生の挫折、親や隣人を悲しませてきた不始末、罪悪感。血縁に縛られ家族が重いと感じる者にも、イエスさまは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、又母なのだ」と古い家族からの解放を告げておられます。イエスさまは、この地に立つ教会を近くから遠くから見ている者達へ大きく手を広げておられることを確信した日となりました。
イエスさまご自身も家を出て、小さき者たちの集う家に身を寄せ、共同体から追いやられた人たちの悲しみや苦しみに触れ、貧しい市井の人達から学ばれたのです。だからでしょうか。互いの存在を喜び合える「小さき者の集う家」を築こうとなさったのではないでしょうか。十字架の最後の場面で見えてくるものがあるのです。十字架上でイエスさまは、母マリアと弟子ヨハネに向かって「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と双方に言われました。そのときからヨハネはイエスの母を自分の家に引き取ったと福音書にあります。私たちも、自分の中の狭い家を出て、自分を愛してくれる者だけを愛するという利己的な愛を脱していかねばなりません。イエス様の十字架と復活の出来事の後、イエスを信じる者達の教会が生まれ、初代教会の中に母マリアもいたことを改めて感謝したいと思うのです。
加治屋町教会は、血縁によらず、生まれや民族、性別によらず、互いを大切にし合う「小さき者の集う家」として出発しました。フィンレー宣教師の悲しみを教会の遺産として、この国が南西諸島の軍事化を急速に進めている今も、これからも、国や民族を超えての平和を祈り求める教会であり続けてほしいと祈ります。
愛の家、寛容な家、ゆるしの家。なによりもイエスさまご自身が私たちの帰るべき家となられます。創立145周年おめでとうございます。