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2023年4月2日説教「御国へ行かれる時には」松本敏之牧師

ルカによる福音書23章32~43節

 

(1)十字架上の七つの言葉

古来、「十字架上の七つの言葉」として知られるテキストがあります。それは、イエス・キリストが十字架上でお語りになった言葉を四つの福音書から全部抜き出して、それをある順序で並べたものです。音楽好きの方は、このテキストによる「十字架上の七つの言葉」という音楽を思い起こされるかもしれません。有名なものとしては、ハインリヒ・シュッツの「十字架上の七つの言葉」があります。単純ですが、非常に美しい曲です。私の大好きな曲の一つです。

もう一つ、有名なのは、ヨーゼフ・ハイドンのものです。彼は、スペイン南部の町の司祭の依頼によって、「十字架上の七つの言葉」に基づく(黙想のための)器楽曲を作るのですが、この曲に余程情熱を傾けていたと思われます。オーケストラ版、弦楽四重奏版、ピアノ版、声楽を伴うオラトリオ版と4つの版を作っています。ところどころ秘めた激しさもみられますが、これも慰めに満ちた美しい音楽です。現代の作曲家でも、ソ連邦タタール自治共和国(現在のロシア連邦タタールスタン共和国)出身のソフィア・グバイドゥーリナが、このテキストに基づいた大曲を書いています。彼女の代表作のひとつです。

ちなみにこの七つの言葉というのは、以下のとおりです。興味のある方は、聖書箇所だけでも控えておかれるとよいかもしれません。

①「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34) ②「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43) ③「女よ、見なさい。あなたの子です。」  「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26、27) ④「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34、マタイ27:46) ⑤「渇く。」(ヨハネ19:28) ⑥「成し遂げられた。」(ヨハネ19:30) ⑦「父よ、私の霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)

(2)「七つの言葉」の構成

確かにこれはよく考えられた順序であると思います。よく構成されています。 最初の三つは、いわゆる執り成しの言葉です。最初の、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」というのは、天の父なる神に向かって、人を執り成す言葉です。二つ目の、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」というのは、その執り成しについて、自分が執り成し手であることを、人に向かって告げている言葉です。イエス・キリストが楽園へ導く権威をもった方であることも示しています。三つ目の、「女よ、見なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」というのは、人と人とを執り成す言葉です。教会の原点がここにあるとも言えるでしょう。

四つ目は、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」という言葉です。これは、マルコとマタイに出ている言葉ですが、マルコは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というアラム語で、マタイは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というヘブライ語でそれを記しています。これは捨てられた者の叫びであり。人間としてのイエスの言葉です。

五つ目は、「渇く」と言う言葉です。これも人間的な言葉です。先ほどの四つ目が「神に捨てられる」という精神的苦痛を言い表しているとすれば、こちらは「肉体的苦痛」を言い表しているということもできるでしょう。イエスの人間的な側面を伝える言葉ということができるように思います。

六つ目は、「成し遂げられた。」。イエス・キリストの地上での働きが、この十字架上で完成することを告げています。単純に「終わった」と訳すこともできる言葉です。

そして最後の七つ目が、「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」という言葉です。すべてを天の神に委ねるイエスの安らかさが思い浮かびます。シュッツの音楽でも、ハイドンの音楽でも平安を感じさせるものです。

これら七つの言葉を、こうして並べてみますと、先ほど申し上げましたように、よく構成されていますし、イエス・キリストが誰であったのか、あるいは何をなさったのかということが端的に示されていると思います。

これを並べて改めて思うのは、ルカとヨハネに集中しているということです。それぞれ三つずつですから、これですでに六つになります。マタイとマルコでは、ただ一言「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だけしか記されていません。

(3)括弧に入れられた言葉

今日は、この七つの言葉のうち、最初の二つの言葉を心に留めたいと思います。先ほど読んでいただいた聖書箇所の中にある言葉です。

最初は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という言葉。これは、謎に満ちた言葉です。しかし私たちの心をとらえる言葉です。実は、聖書の重要な写本の中には、この言葉が欠けているものもあります。聖書協会共同訳聖書でも、新共同訳聖書でも、この23章34節は、最初の福音書にはなかったかもしれないものとして括弧に入れられています。そうしたあやしい言葉の多くは、聖書協会共同訳聖書でも、新共同訳聖書でも、本文から外されて、その福音書の末尾に記されているのですが、この言葉は、どうしてもそういう扱いをすることができなかったのでしょう。

「この言葉はどうしてもイエス様の言葉としてはずすことができない。」私もそう思います。私の信仰も、この言葉の上に立っていると言っても過言ではないほど重要なものです。

もっともたとえ、イエス・キリストが、この言葉を語られなかったとしても、私の信仰が変わるわけではありません。なぜなら、イエス・キリストの生涯全体と十字架の姿そのものが、そういうイエス・キリストの執り成しを示しているからです。

(4)誰かが削除したか、誰かが挿入したか

ではどうして、この言葉がある写本とこの言葉がない写本があるのでしょうか。それは、もともとあったのに、誰かがそれを省いてしまったか。あるいは逆に、もともとなかったのに、誰かがそれを挿入したのか、そのどちらかです。私は、両方の可能性があると思います。

もしもこの言葉が最初の写本にあったのだとすれば、十字架の上でイエス・キリストがこういう祈りをされたということが、理解できなくて省いてしまったと考えられます。どうして省いたのか。第一に、「わからなかった」と言って、その罪が赦されるのかと考えた人がいる。特に人を殺してしまうような罪はそうでしょう。第二に、「イエスを十字架にかけたのはユダヤ人たちである。それはそう簡単に赦されるわけがない。そんなユダヤ人たちのために、イエス・キリストがこんな祈りをなさるはずがない」という反ユダヤ主義的考えです。

またある人々は、逆に、この祈りは後から付け加えられたと推測します。なぜかと言えば、イエス・キリストを十字架にかけたのは、(ユダヤ人の祭司長たちだけではなく、)ローマの兵隊たち、ローマの総督ピラトでもありました。ルカ福音書が書かれたのは、異邦人伝道がなされていた頃です。そこで、「ユダヤ人たちは意識的にイエス・キリストを十字架にかけたけれども、異邦人たちはまだよくわかっていなかった。無知であったために、仕方なく、イエス・キリストを殺してしまうことをしてしまった。それはイエス様も大目に見てくださるだろう」。そうしたことから、この祈りが挿入されたと推測するのです。

今、幾つかの解釈を紹介しましたが、それはそれだけこのイエス・キリストの祈りを理解することが困難であったということの表れであるとも言えるでしょう。

(5)私たちすべてを包む祈り

主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という祈りには、どういう意味があるのでしょうか。それは何よりもまず、自分で気づいていないことの中にも罪が存在するということです。ピラトは裁判の折り、恐らく自分が何をやっているのか、本当のところ、よくわかっていなかったでしょう。仕方なく開いた裁判でした。何とかして主イエスを赦そうとした人でした。しかしそのことは言い逃れにはならない。ローマの兵隊たちも、この時、ただ任務を遂行していただけです。「いやな仕事だなあ。早く終わらないかなあ」と思った者もあるかもしれません。しかしそれが罪なのです。無知と無関心と優柔不断。そして自分の関心事に目を奪われること、まさにそのことによって、イエス・キリストは十字架にかけられていくのです。

それらと同時にいつも私が思い起こすのは、イスカリオテのユダのことです。そしてイスカリオテのユダについて考えるということは、取りも直さず、私たち自身について考えるということでもあります。ユダは、イエス・キリストの十二弟子の一人に選ばれながら、やがてイエス・キリストを裏切り、売り渡してしまいます。彼のしたことは、ほんのささいなことでしたが、その結果起こってしまう事はとても重大なことでした。

彼自身、その重大さ、深刻さに耐え切れず、後悔のあまり自死してしまいます。自分で滅びの道を突き進んでいったような人物です。新約聖書の中でも、最も謎に満ちた人物でしょう。このイスカリオテのユダは、永遠の滅びの中に、葬り去られたのでしょうか。このようなことは、最後に神が決定されることであり、私たちが不用意に、勝手に、何かを言うことは許されていません。それはただ神様の御手の中にあり、神様の御旨に隠されたことと言ってもよいでしょう。ただ、ひとつ言えることは、主イエスは十字架の上で、イスカリオテのユダのためにも祈られたということです。言いかえれば、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、分からないのです」という祈りの「彼ら」の中にはイスカリオテのユダも含まれているのだと思います。

このユダは、十二弟子の一人として、最後の晩餐に連なり、イエス・キリストによって足を洗われました。私は、このユダがそこから洩れていなかったからこそ、私も洩れていないと、確信することができるのです。このユダのためにも祈られたからこそ、私のためにも祈られたと信じることができるのです。それは、ここにいる誰ひとりとして、そこから洩れることはないということを示しているのです。

私は、このイエス・キリストの祈りが届かない世界がある。この祈りが空しく終わることがある、すなわちこの祈りをもってしても償えない罪がある、と考えるとすれば、そう考えること自体、十字架を低く見積もることであり、不信仰であると思います。

この最後の主イエスの祈りの射程は、私たちすべてを包み込んでいるということを思い起こしたいと思いました。

(6)私を思い出してください

今日、心に留めたいもう一つの十字架上の言葉は、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という言葉です。

この言葉は、イエス・キリストの隣で十字架にかかっていた「犯罪人」に向かって語られたものです。イエス・キリストの両側には、二人の犯罪人が十字架にかけられていました。そのうちの一人は、「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」(39節)と言いました。「人のことを祈っている場合じゃないだろう」という嘲笑を感じます。すると、もう一人のほうがこうたしなめました。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」ルカ23:40~41

そしてイエス・キリストに向かってこう言うのです。

「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」42節

私は、かつて8年間程、ブラジルで宣教師として働きました。ブラジルの教会を去ることが決まった時、ブラジル人の牧師の友人が、冗談でこの言葉を私に語ったのを思い出します。

ここでは「イエスよ」と書いてありますが、「主よ」というのは、ポルトガル語で、「セニョール」と言います。セニョールというのは、「主よ」という意味であると同時に、男性への一般的な呼びかけとしても使われます。「ちょっと、だんなさん」というような時にも「セニョール」と呼びかけますし、名前がわからない相手へ「あなたは」というふうに用います。

その牧師は、私が日本へ帰っていくことを知って、「セニョール、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言ったのです。日本のことを楽園だと思ったのでしょうか。

私は、とっさに「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という聖句を思い起こしたのですが、うまくポルトガル語で言えませんでした。「でも、言えなくてよかったかな」とも思います。日本へついて来られても困りますから。

(7)私と一緒に楽園にいる

さて冗談はさておき、この言葉は、やはりいろいろなことを思い起こさせてくれます。

ひとつは、楽園への道は最後の最後の時まで開かれている、ということです。イエス・キリストは、そういう約束をしてくださいました。

しかし私は、もうひとつ、この言葉の奥行きを考えますと、この人は最後に悔い改めたから楽園にいると約束されたのでしょうか。対比的に言えば、もう一人の犯罪人は楽園から排除されているのでしょうか。「楽園にいる」のは、彼が悔い改めたからというよりは、その前のイエス・キリストの祈りの故だと言えるのではないかと思うのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という祈りの延長線上に、「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」という言葉があるのではないでしょうか。

むしろ、この祈りの言葉に支えられているのだと思います。それゆえに、主イエスは、イエス・キリストをののしったもう一人の犯罪人のためにも祈られたことでしょう。「父よ、彼をお赦しください。自分が何を言っているのかわからないのです。」

(8)執り成しと悔い改めと救い

ただしそのことは、悔い改める必要がないということでは全くありません。イエス・キリスト私のために執り成しをしてくださっている。そのために命をかけられた。そして死んでくださった。そのことを知るか知らないかで、私たちの信仰は変わってきます。

知ろうと知るまいと、イエス・キリストは私を受け入れ、私のために祈ってくださっているという根本的事実は変わりありませんが、それをはっきりと主体的に受けとめることによってこそ、生き方も変わってくるのです。そのことを軽んじることはできないでしょう。

ただ楽園への道は、私たちがイエス・キリストに覚えられているということ、決して忘れられてはいないということの中に根拠があるのです。

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