2022年11月27日説教「主がこの世界に来られたから」松本敏之牧師
ヨハネによる福音書1章5~14節
(1)ヘルンフートの星
教会の暦では、今日から新しい1年が始まります。同時にクリスマスを待ち望む季節、アドベント待降節が始まりました。皆さん、お気づきでしょうか。礼拝堂の上のほうには、星が浮かび上がりました。これは、ベツレヘムの星を象徴するものですが、この形の星はヘルンフートの星と呼ばれます。なぜそう呼ばれるようになったのかと言えば、この星の形はヘルンフート兄弟団という教派の教会から始まって広まっていったからですが、ヘルンフート兄弟団は、みんなが平等な兄弟姉妹ということと、とても敬虔な祈りをすることで知られていますが、現在のチェコスロヴァキアのモラヴィア地方において、当時の教会から信仰の迫害を受け、ドイツに逃れてきた人たちから始まりました。そこからモラヴィア兄弟団とも呼ばれます。ちなみにヘルンフートというのは「主の守り」という意味です。そういう意味ではヘルンフートの星は「主の守りの星」という意味になりますから、ベツレヘムへの道を守り、私たちをも守ってくれる主の守りの象徴ということで意味深い名前だと思います。
ちなみに私たちの教会はメソジストという伝統の系譜に連なっていますが、メソジスト教会の創始者と言われるジョン・ウェスレーも、このモラヴィア兄弟団から強い影響を受けました。
ジョン・ウェスレーは、1735年、イギリスから、アメリカのジョージアへ行く途中に、航海中、大変な嵐に見舞われるのですが、嵐の中で平安を保ち、神を賛美するモラヴィア兄弟団にとても感動いたしました。アメリカに上陸後、モラヴィア兄弟団の指導者シュパンゲンベルクはウェスレーに「あなたはイエス・キリストを知っておられますか?」と尋ねたそうです。「知っているのなら、平安を尋ねたはずだ」ということでしょう。3年後の1738年、アルダスゲイトでモラヴィア兄弟団の宣教師ペーター・ベーラーの説教を聞いて、信仰の確信を得、第二の回心ともいうべき体験をしました。このように、モラヴィア兄弟団の敬虔主義は、後に形成されたメソジストにも大きな影響を与えることになるのです。私たちの鹿児島加治屋町教会も、その系譜に連なっているのです。
このヘルンフート兄弟団というのは、毎年、「ローズンゲン」(日々の聖句)と呼ばれる短い聖書日課を発行していることでも知られています。ドイツの町や教会では、アドベントに入ると、このヘルンフートの星がよく見かけられるようになるとのことです。
(2)紫は悔い改めの色
そして講壇のキャンドルに火が一つともり、講壇のかけ布や私のストールが緑から紫になりました。紫は悔い改めを象徴する色とされています。ですからイースターの前の受難節、四旬節でも紫が使われますが、このアドベントも受難節と同じ紫を用いるのです。それは教会のアドベントというものが、街中の騒がしいクリスマスと違って、静かに自分を振り返って悔い改めの思いで、救い主イエス・キリストを待ち望むことを促しているのです。
(3)だから今日希望がある
今年のクリスマス、鹿児島加治屋町教会では、「だから今日希望がある」というテーマを掲げました。この言葉は、私が日本語に訳して紹介したアルゼンチンの賛美歌の題名です。私は、これまで30曲ほどブラジルをはじめとしてラテンアメリカの賛美歌を日本語で歌えるように訳してきましたが、その中で、この「だから今日、希望がある」は、おそらく最もよく歌われてきた曲です。たとえば、今はどうかわかりませんが、同志社中学校では、「毎年、クリスマスになると、あの曲を歌うのが好例になっています」と言ってくださいました。
美しい短調のメロディーで静かに始まり、だんだんと希望に満ちた力強いトーンに変わって行きます。一度聞いたら忘れられない名曲だと思います。原語のスペイン語のタイトル〈Tenemos Esperanza〉で検索すると、たくさんの演奏を聴くことができます。
今年は、この賛美歌をめぐって、あるいは、賛美歌の歌詞に関連のある聖句から、6回の説教をいたしますので、あまり全部話してしまわないように気をつけて、本日はこの賛美歌の1節(1番)を中心にお話をします。説教の後で、1節を歌うことにしていますが、まずは1節の歌詞を紹介します。どうぞ楽譜の下の歌詞をご覧ください。
1 主が貧しい馬小屋でお生まれになられたから
この世界のただ中で 栄光、示されたから
主が暗い夜を照らし 沈黙、破られたから
固い心、解き放ち 愛の種、蒔かれたから
(くりかえし)
だから今日、希望がある
だから恐れずたたかう
貧しい者の未来を 信じて歩み始める
だから今日、希望がある
だから恐れずたたかう
貧しい者の未来を 信じて
この曲は、アルゼンチンのメソジスト教会の監督(ビショップ)であったフェデリコ・パグーラという人が作詞し、それに基づいてオメロ・ペレーラという人が作曲した賛美歌です。もともとはタンゴ調の賛美歌ですが、タンゴで歌う必要はありません。今や世界中に広まった賛美歌ですので、さまざまな調子で歌われます。
歌詞を書いたフェデリコ・パグーラという人は、メソジスト教会の人ではありましたが、ラテンアメリカのカトリック教会から始まった解放の神学をよく受けとめていました。そして貧しい人のための教会の活動を積極的に行い、教会も変わっていかなければならないということを真剣に訴えた人です。この賛美歌にもそうした心が、特にくりかえし部分によく表われています。
ちなみに日本語の歌詞は、「主は貧しい馬小屋でお生まれになられたから」で始まり、「~から」というのを4回繰り返しています。その繰り返しが印象的なのですが、実は、スペイン語の原歌詞ではその2倍、8回も繰り返しているのです。
この賛美歌の1節を、直訳で紹介しましょう。
「彼がこの世界に~」と始まるのですが、「彼」は大文字になっていますので、これは神様あるいはイエス様を指しています。ですから「主」と訳させていただきます。
主がこの世界に、そして歴史に入って来られたから
主が沈黙と苦悩を破られたから
主がこの地をその栄光で満たされたから
主が私たちの暗い夜の光であったから
主が暗い馬小屋でお生まれになったから
主が愛と命の種を蒔かれたから
主が頑なな心を砕かれたから
打ちひしがれた心を立ち上がらせたから
(4)クリスマスの意義を歌う
この1節はまさにクリスマスのことを歌っています。日本語の歌詞では、「主が貧しい馬小屋でお生まれになられたから」というのを冒頭に持ってきましたが、原歌詞では、それは1節の真ん中あたりに出てくるのであって、原歌詞で最初に告げられるのは、「主がこの世界に来られた、そして私たちの歴史に入って来られた」ということです。
「主が貧しい馬小屋で生まれた」というのは、主がこの世界に来られた形、クリスマスの情景を語っていますが、それはルカ福音書が告げていることです。それに対して、主がこの世界に来られた。主が私たちの歴史に入って来られた。というのは、クリスマスの事実そのものを示し、クリスマスの意義を語っていると思います。そして福音書の中で、それを一番語っているのは、ヨハネ福音書です。
ヨハネ福音書はこう告げます。
「言は肉となって私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」ヨハネ1:14
ヨハネはクリスマスの出来事を「言が肉となった」という表現で表すのです。
この「ことば」というのは、私たちが普通に使う「言葉」というのと違います。「葉」という漢字がなく、「言」(げん)という一文字で「ことば」と読ませております。そこには、これは普通のいわゆる「言葉」とは違うのだという思いと、それでもこれは「ことば」としか言いようのないものなのだ、という思いの両方が込められております。一般的にはなじみがないものですが、キリスト教界ではもうこれが定訳となって他の言葉には置き換えられないものになっています。文語訳の時から、すでにそう訳されていました。
ちなみにこの「言」は、もともと「ロゴス」というギリシャ語ですが、このロゴスには、言葉という意味のほかに、理性、論理、定義などの意味があります。ヨハネ福音書記者は、その「ロゴス」という言葉を特別な意味を込めて使ったのです。それはこの世界に来られる前のイエス・キリストを、イエス・キリストという名前を用いないで、言い表すということでありました。
「肉となった」というのは、この世界で目に見える形になったということ、具体的には「人間になられた」ということです。そのようにして、本来、天におられるはずのお方が、人の形をとって、私たちの世界に入って来られた。私たちの歴史の一員になられたということなのです。難しい言葉で、「言の受肉」ということもあります。この「だから今日、希望がある」という賛美歌も、その事実を最初に高らかに告げるのです。
(5)闇は光に勝たなかった
その時に一体何が起きるのか。私たちと同じ人間になって、この世界に、私たちの歴史の中に埋没してしまうのではありません。私たちと同じ人間になっておしまいというのでは、救い主として来られた意味がないでしょう。何をしに来られたのか。それは光となって希望を与えるためです。ヨハネ福音書は、こう告げます。
「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」ヨハネ1:9
イエス・キリストは何のために人間になってこの世界に来られたのか。それは光となって私たちを照らし、そして神の栄光を輝かせるためであったと言ってもよいでしょう。
この賛美歌も、こう歌います。
「この世界のただ中で、栄光、示されたから。
主が暗い夜を照らし、沈黙、破られたから」
原語の意味はこうです。
「主がこの地をその栄光で満たされたから
主が私たちの暗い夜の光であったから」
この光は闇にうずもれる光ではありません。
ヨハネ福音書は語ります。
「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」ヨハネ1:5
(6)キリストを受け入れ、「世の光」として生きる
ヨハネ福音書の続きを少し読んでみましょう。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」ヨハネ1:10
この世界はイエス・キリストの意志で造られたにもかかわらず、イエス・キリストが、直接やって来られた時に、そのイエス・キリストを認めなかったというのです。
「言は、自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。」ヨハネ1:11
まことの光がもたらされた時に、闇のような世界にはそういういわば拒否反応がある。本当のもの、真実なものがやってくる時に、偽りの世界では、それをいやがって、あるいはこわがって、拒否するような反応が起きる。
あるいは真理の光自体が、それを受け入れるか拒否するか、この世界を分断させるような力(本物が来た時に、偽物はあわてふためいて抵抗をするということ)をもっているとも言えるでしょう。イエス・キリストは別のところで、自分は「剣をもたらすために来た」(マタイ10:34)と言われましたが、そのように鋭く、人を峻別するような力をもった言として来られたということです。ただ私は、それを踏まえながら、むしろその後に続く言葉に注目したいと思いました。
「しかし言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えられた。」ヨハネ1:12
「権能」というのは難しい言葉ですが、「資格」と言ってもよいでしょう。「イエス・キリストを受け入れる」というのは、ただイエス・キリストを受け入れる、ということです。そういう人にいわば無条件で、神の子となる資格を与えられる。そういう風にイエス・キリストの名を受け入れた人々は、「血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである」(13節)と言うのです。これは、私たちに無条件で与えられている本当に大きな福音でしょう。洗礼を受けてクリスチャンになるということも、その事実を指し示すものであると思います。
もちろん、それで終わりというわけではありません。イエス・キリストは、「私は世の光である」(ヨハネ8:12)と言われましたが、同時に「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言って、私たち自身がイエス・キリストというまことの光を反射させて、光となって生きるようにと促されるのです。
私たちは、今年のアドベントとクリスマス、この賛美歌を味わいつつ過ごしていきたいと思います。