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2022年8月7日説教「平和へのサウダージ」松本敏之牧師

ヨハネによる福音書16章16~24節

(1)平和聖日にあたって

日本では、8月は平和を祈る時となっています。その8月の第一日曜日を日本基督教団では、平和聖日と定めて、特に平和のために心をあわせ、祈る日曜日としています。毎年恒例の行事であった鹿児島ユネスコ協会との共催行事である「平和の鐘を鳴らそう」は新型コロナウイルス感染症予防策として、2年間は休止してきましたが、今年はロシアのウクライナ侵攻のこともありますし、3年ぶりに開催することとしました。

本日は、「2022年 日本基督教団・在日大韓基督教会 平和メッセージ」と「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を1枚のプリントにして配布いたしました。週報には、「九州教区平和聖日メッセージ」も配布したと書きましたが、教区から平和聖日にあわせて届いたものは、先週お配りした「平和を学ぶ絵本の紹介」だけでした。教区独自の「平和聖日メッセージ」というのはありませんでしたので、この「平和を学ぶ絵本の紹介」が、それに代わるものとご理解ください。

(2)「見張りの使命」を果たすため

さて毎年、礼拝で朗読してきた「戦責告白」の朗読は、今年も残念ながら休止します。その中で、どうしても忘れてはならない一文だけは、私がお読みしたいと思います。プリントの4ページの中ほどの部分です。どうぞご覧ください。

「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。 まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。 しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。」

私たちがなぜ今も毎年「戦争責任を告白する」のかということは、ただ単に過去の罪を謝罪するということだけではありません。今と関係があるから、そして未来と関係があるからです。過去を見据えてこそ、今なすべきことが見えてくるでしょう。

私が、この「戦責告白」の中で最も大事であると思うのは、「教会には見張りの使命がある」ということです。

聖書を通して、神の御心を知る者として、あるいは聖書が告げる平和がどういう平和であるかを知る者として、「見張りの使命」を果たさなければならない。そして国家が誤った方向へ進もうとしているならば、教会は警鐘を鳴らさなければなりません。「そちらは危ない。そちらに行ってはいけない。そちらは命へ通じる道ではなく、滅びに通じる道ですよ。死に至る道ですよ」と警鐘を鳴らすのです。

(3)「平和の鐘」を鳴らすとは

この礼拝の後で行われる「平和の鐘を鳴らそう」という行事は、鹿児島加治屋町教会と鹿児島ユネスコ協会の共催行事です。その意味で、宗教行事ではありません。それならば、なぜ教会がそうしたことを行うのか、と考える方もあるかもしれません。事実、そういう声もありました。平和の鐘を鳴らす思いは、人それぞれでしょう。それぞれの思いで鐘を鳴らしてよいと思います。そこで思い描く「平和」のイメージもおそらく一人ひとり違うでしょう。「平和の鐘」という言葉から、のどかな平和な情景を思い浮かべる方もあるかもしれません。

ただそもそも鐘を鳴らすことには、どういう意味があるのでしょうか。それは何かの合図であると思います。一番シンプルなのは、時を告げる鐘です。「今から礼拝が始まりますよ。」「今から授業が始まりますよ。」(「ウェストミンスターの鐘」というのが学校のチャイムとして有名です。)あるいは「授業が終わりましたよ」。それは「先生、早く終わりなさい」という合図であるかもしれません。先生の話が終わっていなくても、鐘が鳴ったら勝手に出て行く学生もあります。

それはシンプルな合図ですが、最も大事な合図は、やはり戦争と関係があるのではないでしょうか。さらに細かく考えると、2種類ありそうです。それは危険を知らせる鐘、そして勝利を知らせる鐘です。勝利を知らせる鐘は喜びの鐘です。「戦争が終わったぞ。私たちが勝利したぞ。」今まだ目の前は戦争の焼け跡であったとしても、すでに勝利が確定したことを、鐘によっていち早く伝える。「ガランガラン、戦争が終わった」ということを知らせる鐘です。凱旋の前触れと言ってもよいかもしれません。

しかし、私たちが鳴らす「平和の鐘」とは何でしょうか。私は、勝利を知らせる喜びの鐘ではないと思うのです。だとすれば、やはり危険を知らせる鐘ではないでしょうか。先ほど申し上げた、教会の「見張りの使命」との関連で言えば、「警鐘を鳴らす」ということです。

私は、まさに今、この時に「平和の鐘を鳴らす」ということは、危険が迫っていることを知らせる「警鐘を鳴らす」ことの徴としての行為ではないかと思うのです。ですから、ただここで鐘を鳴らすことでは終わらない。象徴行為と言ってもよいのですが、その言葉は「象徴としての天皇の行為」を連想しがちですので、その言葉を使わないとすれば、その徴として、鐘を鳴らす。だからここで鐘を鳴らすことで終わらない。警鐘を鳴らすことを外でもやっていく決意のような意味が込められているのではないでしょうか。神社で手を合わす前に鐘を鳴らすのとは意味が違うと思います。

(4)今年の教団の「平和メッセージ」から

今年の日本基督教団と在日大韓基督教会の合同の平和メッセージも、すべて紹介することはできませんので、各自、よくお読みいただきたいと思います。項目を中心に少しだけ拾い読みしてみますと、最初はやはり〈ロシアのウクライナ軍事侵攻について〉です。こう記されています。

 「去る2月24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻をしました。このことは、どのような理由をもってしても決して容認できるものではありません。  特に、この度、ロシアの大統領が核抑止部隊に特別態勢を取るように命じたことについて、世界で唯一の戦争被爆国である日本にあるキリスト教会として、何としても最悪の事態となることを防がなければなりません。  また、日本では、戦争にかこつけて軍事費を倍増させようとする短絡を問わねばなりません。」

このことについても、私たちは「見張りの使命」を果たし、警鐘を鳴らしていく必要があるのではないでしょうか。

二つ目は〈憲法改正の動きについて〉であります。ここでは、こう述べられます。

「わたしたちは、『日本国憲法』の基本原則である主権在民、基本的人権、平和主義を護り、国家優先の憲法とする改憲の試み、また戦力保持を是とする改憲の動きに強く反対いたします。」

その後、〈新型コロナウイルス感染拡大について〉〈ヘイトクライムについて〉と続きます。これらについては、「ブラック・ライブズ・マター」のことなどを含めて、昨年も述べましたので、今は割愛します。どうぞよくお読みください。

その後、〈難民・在日外国人の人権について〉という項目があります。これについては、特に「また、日本では、ウクライナからの難民を『避難民』と区別しています。『難民』との差別的な処遇との差別がなぜ起きるのでしょうか。」という言葉に注目したいと思います。

日本国内にも、そして日本政府にもウクライナからの避難民を何とかして受け入れて上げたいという熱意があるのは喜ばしいことです。それが現在の日本の厳しい難民政策にあわないものですから、ウクライナからの避難民をその他の難民とは区別して特別扱いにしているのです。しかしそれはダブルスタンダードです。他の国々から日本に助けを求めて難民申請をしている人たちからすれば、「なぜウクライナの人だけ特別なの」ということになります。当然のことでしょう。

私は、だからと言って、ウクライナの人々をシャットアウトする方向ではなく、これを機に、他の国々から同じように、戦争から、あるいは国内の紛争から逃れてきている人を受け入れる方向、国際基準に照らし合わせて、もっと枠を広げる方向に進んで行ってもらいたいと思います。昨年軍事クーデターが起きたミャンマーにしてもそうです。ミャンマーの問題はまだまだ現在進行形です。先日は、政府に反対する民主活動家の死刑が執行されました。ミャンマーの人たちは、世界中の、そして日本中の国際的関心がウクライナに行ってしまって、ミャンマーのことが忘れ去られるのではないかと心配しています。8月28日には、鹿児島加治屋町教会の主日礼拝の説教を、ミャンマー人のマウマウタン牧師にお願いしていますので、そのあたりの事情もお話しいただけるのではないかと思っております。

最後に〈貧困の拡大について〉が述べられていますが、どうぞこれも各自お読みください。

またここには時間的に間に合わなかったのか、7月8日に起きた「安倍元首相に対する銃撃事件」については触れられていません。しかし日本基督教団社会委員会では、このことについての声明を発表しています。もちろんどんな事情があろうとも、それを理由に人を殺すことは絶対に許されないことではありますが、その事件にいたった背景に、私たちは目を向けていかなければならないでしょう。これについても、私はこれまでの説教で触れてきていますので、今日はそういう課題があるということに留めておきたいと思います。

ちなみに日本基督教団は、社会委員長名で、8月1日付で、安倍首相の国葬反対の声明も発表しています。

(5)「平和」と「神の国」

さて今日は、「平和へのサウダージ」という説教題を付けました。このメッセージは、「ヨハネ福音書を読もう」という連載の中で、「神の国へのサウダージ」と題していたものを元にしております。平和聖日にちなんで、「平和へのサウダージ」としたのですが、なぜそうしたのかと言えば、聖書が見据えている「平和」すなわち「シャローム」というのは、「神の国」を指し示している、言い換えれば、聖書の告げる「神の国」というのは、「まことの平和に満ちた世界」に他ならないと思ったからです。

聖書が「平和」について語る時、それは単に戦争をしていない状態のことではありません。「平和」は、ヘブライ語ではシャロームという言葉です。シャロームというのは、「何かが欠けたり、損なわれたりしていない状態」です。「人間の生のあらゆる領域において、望ましい満ち足りた状態」、それがシャロームということの第一の特徴です。ですから「平和」の他に、「平安」とか、「無事」とか、「健康」とか、「繁栄」とか、「和解」とか、さまざまな日本語に訳すこともできる。まさにそれは「神の国」が示す世界でもあります。

(6)サウダージ

一方、「サウダージ」(Saudade)という言葉は、ポルトガル語の中で、最も美しい言葉であると言われます。(ヨーロッパのポルトガルでは「サウダーデ」と言いますが、ブラジルでは「サウダージ」と発音します。)他国語に訳すのが難しいのですが、一般的には、「ノスタルジア」、「郷愁」と訳されます。

サウダージとは、「本来そこにあるべきものが欠けている状態において、それを熱く求める気持ち」と言えばよいでしょうか。「どこそこへ行きたい。でも行けない」「何々が欲しい。でも手に入らない。」「誰それに会いたい。でも会えない。」そうした熱い思いです。

私は、1991年から98年まで、約7年間ブラジルで宣教師として働きましたが、前半の4年間は一度も日本に帰りませんでした。最初のうちは平気でしたが、3年を超えたあたりから、無性に日本へのサウダージが強くなりました。昔、ブラジルへやってきた日本人たちがそうしたサウダージを強くもったことが、何となくわかりました。サンパウロの教会員の一人は、「空港へやってきては、『あの飛行機に乗れば日本へ帰れるのだなあ』と考えた」と言っておられました。今は逆に、私の中でブラジルへのサウダージが突然、膨れ上がることがあります。

(7)賛美歌「イエス・キリスト、世界の希望」

ブラジルには、このサウダージをモチーフにした「イエス・キリスト、世界の希望」(Jesus Cristo, Esperança do Mundo)という美しい賛美歌があります。この曲の原歌詞の3節、4節、5節には、サウダージという言葉が冒頭に出てきます。直訳すると、次のようになります。

3 邪悪のない世界、蝶の羽と花の 楽園(エデン)へのサウダージ 憎しみも痛みもない世界 平和と正義と兄弟愛へのサウダージ

4 争いのない世界へのサウダージ 平和と純潔への願い 武器もなく死も暴力もなく 体と体、手と手が出会う

5 支配者のいない世界へのサウダージ そこには強者も弱者もいない 宮殿とバラック小屋を生み出す システムがすべて崩壊する

それが元のポルトガル語の直訳です。日本語の歌詞には、その一番大事なサウダージという言葉を入れられませんでしたが、その思いを込めて日本語歌詞を作成しました。

(8)まことの平和を願って

この「サウダージ」は、単に過去への郷愁ではありません。エデンの園を思い起こしつつ、「神の国が実現しますように」という「熱い思い」が歌われているのです。

ロシアがウクライナに軍事侵攻をし、半年近くになろうとしています。ウクライナの人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになります。そして世界のシャロームが危機に瀕していると言えるでしょう。そういう時だからこそ、より一層強く、「み国が来ますように」、「まことの平和が来ますように」という祈りを新たにしたいと思います。

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