2021年10月17日説教「執り成しの手紙」松本敏之牧師
フィレモンへの手紙8~20節
(1)聖書通読の意義
4月から始めた新約聖書の通読日課も3分の2のところまで来ました。新約聖書全体をトラック1周とすれば、ちょうど第3コーナーに差しかかってきたあたりでしょうか。これまでがんばって来た方も、もしかすると少し疲れが出てきているかもしれません。もう少しで1周ですからがんばりましょう。早々にあきらめた方ややっていない方、どこからでも始められますので、ホームページに掲載されている通読表や、週報に記載されている「今週の聖書通読」を参考にして、ぜひ加わっていただきたいと思います。
先週の祈祷会(聖書を学び祈る会)で、聖書通読に関して興味深い質問(問いかけ)が二つほどありました。一つ目は、「一人で読んでいてもわからないのですが、意味があるのでしょうか」という問いかけでした。これについては、ポジティブ、ネガティブの両面からお話しました。ポジティブ(肯定的)な面からは、「意味はあります。ぜひ続けて読んでください」とお話しました。教会の礼拝などで聖書を読むと、断片的で、その文書が全体としてどういうことを語っているのか、なかなかつかみにくいものです。何かを見るのに、いきなり顕微鏡で見ているようなものです。通読することによって、その全体像がつかみやすくなります。また礼拝では聖書のすべての箇所を扱うことはできません。4年サイクルで、万遍なくテキストを選んでいる日本基督教団の聖書日課やカトリック、ルーテル教会などの(3年サイクルが多いですが)聖書日課にしても、全体を覆うことはできません。しかし通読することによって、全体を読むことができます。また一人で読むことによって、一対一で神様と向き合う時間を持つことができるでしょう。
ネガティブ(否定的)な面からは、「確かに一人で読んでいてもなかなかわからないこともあります。だから仲間と共に読むのも大事なことです。ぜひ続けて教会に来てください」とお話しました。仲間と共に読むことによって、あるいは牧師と共に読むことによって、独りよがりの読み方を避けることができます。
(2)聖書の宗教は共同体の宗教
それと、もっと大事なことは、聖書の宗教というのは、ユダヤ教もキリスト教も、元来、共同体の宗教だということです。一人ひとり個人的に召し集められるのではなく、最初に「神の民」がある。ユダヤ教の場合は、割礼がその群れの一員となる儀式でした。割礼は共同体の祭儀なのです。キリスト教の場合、洗礼がそれに代わると言ってもよいのですが、たとえ洗礼にまで至らなくても、そういう共同体の中に、新たな人を招かれる形、「神の民」の一員となるという形で、神様は一人ひとりを召し集められるのです。
時々、「一人で聖書を読んで信仰をもっている」という意味で「私は無教会派のクリスチャンです」という方がありますが、内村鑑三以来の日本独自の「無教会主義」というのはそういうことではありません。「無教会主義」は、洗礼、聖餐などの聖礼典や、制度としての教会の一部を否定いたしましたが、ある意味では、一般の教会よりももっと厳格な「集会」(エクレシア)という群れを持っています。
聖書というのは、個人の倫理道徳の書物ではなく、「共同体性」「社会性」を持っている。だから神様とわたしたちとの関係だけでは完結しないのです。
(3)読めば読むほど分からなくなる
そんな話をしていると、別の方が「最初はすらすら読めていたのですが、だんだんわからなくなってきました」と言われました。二つ目の問いかけです。
「それはあなたがそれだけ成長しているしるしです。これからも読めば読むほどわからなくなるでしょう。それは、ずっと恐らく一生続くでしょう」と、半分脅しのような、冗談のようなことを申し上げました。でも本当なのですね。「最初はすらすら読めていた」というのは、わからないがゆえに、ひっかかりも少なく、読めていたのでしょう。でも少しわかってくると、「あれ、これはどういう意味なんだろう」とか、「あれ、別のところで真逆のようなことが書いてあったけど、どっちが本当なんだろう」と、どんどんひっかかりが増えてきて、前に進めなくなるような気持ちになることがあります。何かで調べてすぐに解決できることはいいですが、聖書の中には専門の学者が一生かかって調べても「まだ謎のまま」という深い問いもあるのです。ですからそれは一生続く。分かれば分かるほど、分からなくなるとも言えます。
「分かれば分かるほど、分からなくなるものは何でしょう」という謎かけをしたら、何と答えますか。「はい。聖書です」と答えるならば、その人は大分、聖書が分かっているということになるでしょう。時々、「私、もうキリスト教は卒業しました」という方がありますが、私は、「それは『卒業』ではなく、『中退』というのです。キリスト教の場合、卒業式は『お葬式』ですから」と、冗談っぽく申し上げるのです。
そういうことで、皆さんもぜひ教会に連なりながら、聖書通読の旅を続けましょう。それは楽しい有意義な旅です。
(4)フィレモンへの手紙
さて今日は、今週の金曜日10月22日の聖書日課であるフィレモンへの手紙8~20節の言葉を読んでいただきました。「あれ、何章か書いていない」と思われた方があるかもしれませんが、これはミスプリントではありません。フィレモンへの手紙は1章だけなのです。他にも、オバデヤ書、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ユダの手紙が1章だけですが、パウロの手紙では、1章だけなのはこのフィレモンへの手紙だけです。
またフィレモンへの手紙は、パウロの手紙では唯一、教会ではなく、フィレモンという個人宛になっています。テモテへの手紙、あるいはテトスへの手紙も、パウロの名前によるものですが、先週の説教で申し上げたように、これらは実際にはのちの時代の人がパウロの名前によって書いたものです。真正パウロ書簡(間違いなくパウロが書いたとされる手紙)と呼ばれる手紙は7つあります。もう一度繰り返しますと、ローマ、第一コリント、第二コリント二、ガラテヤ、フィリピ、第一テサロニケ、そしてこのフィレモンの7つです。
このフィレモンへの手紙は、他のパウロの手紙に比べれば、とても小さなものですし、個人宛のものです。逆に、どうしてこれが聖書に収められたのかと不思議な気もします。
(5)奴隷と自由人の問題
これがパウロの貴重な手紙のひとつであったということはその理由のひとつでしょうが、この小さな手紙は内容的にも大事な独自性をもっていると思います。
この手紙の内容は、一言で言えば、パウロのもとに何らかの事情で身を寄せているフィレモンの奴隷(オネシモ)を主人であるフィレモンのもとに送り返すに際しての添え状のようなものです。「彼を丁重に、親切に接してやって欲しい」という執り成しの手紙です。
話を戻して、なぜこの手紙が聖書に納められたのかを考えると、この当時の教会において、奴隷と自由人の間の問題は、ユダヤ人と異邦人の問題に次いで、重要な宣教の課題であったのではないかと思われます。そこでパウロは、この問題についてどう語っているかということが大きな指針になったのでしょう。
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章26節以下で、こう述べています。
「あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテ3:26~28)
そういう高らかな宣言です。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙で述べたことを自ら実践しようとし、それを実際の問題としてフィレモンに伝えようとしているのです。
(6)当時の奴隷制度を前提に語るパウロ
パウロは、ここで奴隷制度を否定するようなことまでは述べていません。あくまでそれを前提に語っています。「奴隷制は認められない。奴隷制廃止運動をしよう」と呼びかけているわけではありません。いかなる奴隷制も認められないという今日的視点からすれば、「パウロは奴隷制を肯定している。中途半端だ。生ぬるい」と批判することもできるかもしれません。
しかしパウロは、その制度の中で、「いかに奴隷といえども同じ人間である。主にある兄弟として接しなければならない」と訴え、しかもそれを上から命令する口調ではなく、あくまでフィレモンを立てて、下からお願いする形で手紙を書いているのです。この当時の奴隷制度というのは、近代の奴隷制と違って、人格まで否定するようなものではありませんでした。あくまで経済的な枠組みの中で「主人の財産」とされたものでした。ですから非常に高い教育を受けて家庭教師をしていたような奴隷もいたのです。「奴隷も自由人もない」という発想自体がそういう奴隷制度であったから、ありえたのかもしれません。
問題があるとすれば、それはむしろ近代のアメリカやヨーロッパのクリスチャンたちが、こうした聖書の言葉を盾にとって、「パウロも奴隷制を当然のこととして認めている」と言って、自分たちの奴隷制度(それはとても非人道的なものでした)を肯定し、正当化したことにあると言えるでしょう。それはアメリカ大陸のことに留まらないでしょう。南アフリカでもありましたし、その他の地域でもありました。
(7)女奴隷ハガルの物語
同じようなことは、創世記16章のサラ(サライ)の女奴隷ハガルの物語についても言えます。ハガルはサライのひどい仕打ちに耐えかねて息子イシュマエルを連れて逃げるのですが、荒れ野で主なる神の声を聞きます。
「サライの女奴隷ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」(創世記16:8)
ハガルは「私は女主人サライの前から逃げているところです」と訴えます。
それに対して神はこう答えられました。
「女主人のもとに戻り、そのもとでへりくだって仕えなさい。」(創世記16:9)
このやり取りから、近代アメリカの白人たちは、クリスチャンでありながらも、「奴隷はやはり主人のもとに帰って、従順につかえなければならない」と解釈したのです。聖書という書物は、さまざまなコンテクスト(文脈)で、一見矛盾するような多くのことを語っています。ですから自分に都合のよい言葉だけをつなぎあわすならば、どんな思想も正当化できてしまうようなことも起こりえます(本当は無理があるのですが)。そういうことがあるので、コンテクストを考えないで、聖書の言葉を一字一句、そのまま別の状況にまであてはめようとするならばかえって危険です。「聖書にこう書いてあるではないか」と言っても、コンテクスト(文脈)があるのです。
(8)聖書は解放を語る
聖書は別の状況においては、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民を、モーセを用いて解放するというもっと大きなダイナミックな物語を語っているのです。
ですから私たちは「聖書は大きなところで何を語っているか、私たちの解放を語っている。対立を超えて和解することを語っている」ということを理解しなければならないでしょう。
この創世記16章のハガルに対しても、神様の「あなたの現実から逃げるな。私は必ずあなたと共にいる」ということを聞き取ることが重要でしょう。
(9)「オネシモは私」と語るパウロ
今回のテキストであるフィレモンへの手紙でも、パウロは当時の状況において、できる限り、奴隷オネシモを、人間的に迎え、兄弟として接することをすすめているということを読み取らなければならないでしょう。
パウロはこう語ります。12節。
「そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。」(12節)
「彼がしばらくの間あなたから離れていたのは、恐らくあなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。オネシモは、とりわけ私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。ですから、あなたが私を仲間と見なしてくれるなら、オネシモを私と思って迎え入れてください。」(15~17節)
なんと心のこもった執り成しの言葉でしょう。フィレモンはパウロを通して信仰を得た人でした。ですからパウロに対しては大変な恩義を感じていたのです。ここでオネシモのために必死になって、誠実に執り成そうとするパウロの姿勢はフィレモンの心を揺り動かしたでしょうし、当時の他の人たちの奴隷たちに対する接し方も変わったのではないでしょうか。だからこそ、これは正典として、私たちが信仰の模範とすべき書物として残されたのではないかと思うのです。
さらにこうした考えをパウロに起こさせた背後には、イエス・キリストの愛と執り成しの姿勢があったことを忘れてはならないでしょう。特に、マタイ福音書25章40節の有名なイエス・キリストの言葉を思い起こします。
「この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:40)
このようなイエス・キリストの言葉や姿がパウロを突き動かしたのではないでしょうか。「オネシモを私と思って迎え入れてください。」「彼は私の心です。」それは、イエス様にならおうとするパウロの姿勢が表れた言葉であると思うのです。