2021年9月19日説教「喜びをもって」松本敏之牧師
ルカによる福音書10章38~42節
(1)女性とルカ福音書
鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課では、今、ルカによる福音書を読み進めています。ルカによる福音書の特徴の一つは、女性へのまなざし、女性の役割が大きく取り上げられていることです。
受胎告知にしても、マタイ福音書では、マリアの夫ヨセフのところへ天使が現れるのですが、ルカ福音書では、直接、マリアのところに現れます。マリアは戸惑いつつ、「どうして、そんなことがありえましょうか」(ルカ1:34)と言うのですが、最後には「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と、自分の決断で、それを受け入れていくのです。そしてマリアは、さきに洗礼者ヨハネを身ごもったエリサベトのところへかけていき、喜び合いました。そしてエリサベトはこう言いました。
「私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。」(ルカ1:43~44)
女性同士の交わり、友情が、本当に生き生きと描かれています。ブラザーフッドという言葉があります。通常、兄弟愛と訳されます。私の前任地の教会の前任者は一色義子という女性牧師でした。日本のキリスト教界の中で、女性がリーダーシップを取ることを積極的に推し進めた方ですが、彼女は、このマリアとエリサベトの交わりを指して、シスターフッドと呼ばれました(著書『水がめを置いて』)。新しい言葉だと思います。姉妹愛と訳せばよいでしょうか。
その他にも、ルカ福音書には印象的な女性がたくさん登場します。第7章に登場する「罪深い女」も印象的です。また15章には、「無くした銀貨」をとことん探す女性が出てきます。あの話は、神様が女性にたとえられている、珍しい、貴重な話です。新約聖書では唯一かと思います。さて、そういうルカ福音書ですが、その中にあって、女性が最も生き生きと描かれているのは、やはり先ほど読んでいただいた「マルタとマリア」のエピソードでしょう。
(2)マルタとマリア
この話は多くの方々にとって、特に女性の皆さんには、なじみ深い話ではないでしょうか。聖書研究などでも何度も取り上げられたことでしょう。そのことは、逆に言えば、いろいろな解釈の可能性があるということであり、読む度に新しいということでもあるでしょう。こう始まります。
「さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。」(ルカ10:38)
この村は、どこにあったのか。ルカ福音書によれば、イエス・キリストの一行は、今、故郷のガリラヤを出て、エルサレムへ向かう旅が始まったばかりですが、ヨハネ福音書によれば、このマルタとマリアの姉妹(さらにラザロという弟がいるのですが)が住んでいたのは、エルサレムにかなり近いベタニアという町であったようです(ヨハネ12:1参照)。
マルタとマリアの姉妹は、イエス・キリストの一行の到着を今か今かと待ちわびていたことでしょう。彼らがこの村に到着した時、姉のマルタがすぐに出迎えました。妹のマリアは、恐らく家で待っていたのでしょう。すぐに行動するマルタと家で待つマリア。このあたりも、私たちが知っているマルタとマリアらしいものです。ちなみに、マルタという名前には女主人という意味があるそうです。
(3)もてなしの準備をするマルタ
マルタは急いでもてなしの準備に取り掛かったことでしょう。
あらっ、お掃除はできているかしら。汚れているところを見られると恥ずかしい。ご飯の準備は大丈夫かしら。パンは焦げてないかしら。皆さん、何でも食べられるかしら。イエス様はきらいなものはないかなあ。そんなこと考えたこともなかったわ。
でもイエス様は、ああいうお仕事の人にしては珍しいほど、何でも気持ちよく食べられると聞きました。大食漢だそうだとか。でも何も食べられない人よりは、こっちもやりがいがあるわ。でも、その何でも食べるというイエス様が食べられなかったら、どうしましょう。よっぽどまずいということよね。でも私のためを思って、何でも食べてくださるに違いないわ。
お弟子さんたちは漁師さんだから、お魚は大丈夫ね。でも逆に、あっちはプロだし。へたな料理は出せないわ。無難なところで、野菜料理にしておけばよかったかしら。でも旅の疲れにはたんぱく質を取らないと。肉でも用意した方がよかったかしら。肉と言っても、この辺じゃ、羊ですけどね。
あっ、しまった。お湯が吹きこぼれている。そうだ。料理の前に、まずお茶を出さなきゃ。夕飯のことばかり考えて、真っ先にすることを忘れてたわ。のどが渇いたことでしょうね。イエス様、ごめんなさいね、気がつかなくて。
それにしても、マリアは一体どこへ行ったのかしら。今が一番手伝ってほしいのに。この大事な時に、またトイレかしら。あの人、トイレも長いのよね。
そう言えば、おうちに入られる時に、誰か足を拭いて差し上げたかしら。それが礼儀なのに。弟のラザロはどこへいったの。男は、こういう時に役立たずだから、困るわ。いつでも偉そうにしてるくせに。ラザロもそれ位のお手伝いはして欲しいわ。ああ、もういやだ。何をしなければならないか、余計わからなくなっちゃう。「マルタ、落ち着いて。」私は、やることがいっぱいになると、いつもパニックになる。だから、いつもこうやって、自分に言い聞かせてるの。「マルタ、あなたはよくやってるわ。大丈夫。」
(4)マルタの爆発
それにしてもマリアはどこへ行ったのかしら。「マリア、マリア、どこへ行ったの。早くしないと、イエス様のお話だって始まってしまうわ。」ちょっと見てきましょう。もう始まっているみたい。
あら、いやだ。あの娘ったら。もう、ちゃっかりと、自分だけ座って、イエス様の話を聞いているじゃないの。しかも一番前で、イエス様の足もとで。S席。一体何様のつもりなの、あの娘ったら。男の人たちを差しおいて。
もう頭に来たわ。何で私だけ、こんなにしんどい仕事をしなければならないの。それにしてもイエス様もイエス様だわ。ひどいわ。私だけにお世話をさせておいて。ひと言、マリアに言ってくださればいいのに。もう我慢できない。言いに行きましょう。
マルタは、意を決して、主イエスとマリアの前にやってきました。
「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)
彼女は、誰よりもイエス様に、自分のやっていることを評価してもらいたかったのかもしれません。マルタは怒りをぐっと抑えて話しているということがよくわかります。あたりに、一瞬、沈黙が漂ったことでしょう。
(5)主イエスの応答
しばらくして、主イエスが口を開きます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:41~42)
マルタは、その言葉を聞いて、どう思ったことでしょう。
「まあイエス様まで、マリアの味方なのね。マリアは、いつもいい役ばかり。誰かがしなければならないいやな役を私がこんなになってやっている。誰も私のことなんか、わかってくれない。もういいわ」となったか。
あるいは、「ああ私ったら、おもてなしのことにばかりに気を取られていて、大事なことを忘れていたわ。ごめんなさい」となったか。
聖書には何も書いてありませんので、それは、皆さんの想像に委ねましょう。イエス・キリストが何を見抜いておられたか、そこにはどういう意味があるのか、ということが重要であると、思います。
古来、この物語にはいろいろな解釈がなされ、この二人の女性に、さまざまなタイプが重ね合わせられてきました。
伝統的なものは「行動的な人と黙想的な人」というタイプ分けですが、その他にも、このマルタの方を行為義認、マリアの方を信仰義認に重ねられることもあります。マルタはユダヤ教的、マリアはキリスト教的(?)というものまであります。それは、偏見だと思いますが。
行動的タイプと黙想的タイプ、ということで言えば、みなさんも「自分はどちらだろう」という風に考えられることも多いのではないでしょうか。「私はマルタ的、考えるよりも先に行動しているのよね」という方もあるでしょう。「あの人はマリア的ね」という時は、ちょっとした批判が込められていることが多いようです。実はもう少してきぱきと仕事をして欲しいのですが、そうは言えないので、ちょっとほめるような言い方をするのです。
私は、自分はどちらか、あの人はどちらかというようなタイプ分けはあまり意味がないように思いますし、かえってどちらがいいか等という誤解を招きかねません。
話のなりゆきからすれば、「マリアは良いほうを選んだ。そしてそれはマリアから取り上げてはならない」とありますので、イエス様はマリアに軍配を上げた、となりそうですが、そう単純でもないでしょう。
(6)マルタに向けた言葉
この言葉は、マルタに向かって語られた言葉である、ということに注意したいと思います。この時のマルタは、接待のことに気を遣い過ぎて思い煩っていました。新共同訳聖書では、「多くのことに思い悩み、心を乱している」と訳されていました。「心を乱す」というのは、心がばらばらになってしまっている、という表現です。
マルタのなすべきことが間違っていた、マルタも手を止めてマリアと一緒に話を聞くべきであった、と単純に考えない方がよいでしょう。少なくともそういうことだけではない。マルタが喜んで奉仕に専念していれば、このイエス・キリストの言葉は出てこなかったと思います。彼女の心が思い煩っていたことが取り上げられている。そしてその心を思いやって、イエス・キリストは、「マルタ、マルタ」と優しく声をかけられたのです。二度も名前を呼ばれるのは、特別な思いが込められています。皮肉っぽく、叱責する口調で、二度も名前を言ったのではありません。愛情を込めて、マルタの心を心配しておられるのです。
(7)もしもマリアが不満を述べていたら
もしもこの時、逆にマリアがいらいらしていたら、どうなっていたでしょうか。「お姉さん、どうして話を聞きに来ないのかしら。台所のことなんか放っておいて、こっちへ来て話を聞けばいいのに。」それこそ心ここにあらず、という状態で座っていたら、どうだったでしょうか。そしてマリアがイエス様にこう言っていたとしたら、どうでしょうか。「主よ、わたしの姉はせっかく主が来られたのに台所に閉じこもっているのを、何ともお思いになりませんか。ここに来て話を聞くようにおっしゃってください。」
あくまで想像ですが、私はマリアをいさめられたのではないか、と察するのです。つまり、奉仕にしろ、話を聞くことにしろ、そこにその人の心があるかどうか、喜びがあるかどうか、喜んでそのことをしているかどうかということではないでしょうか。
もちろん、ここではさらに深い意味があるでしょう。女性はもてなしをする係で、男性は話を聞く係、というような風潮に対する批判が込められているようにも思います。女性をそうしたことから解放するという面も当然あるでしょう。あるいは、行動する前に聞くことの方がもっと大事だ、それがなければ、実践もできないという理解もあるでしょう。そうしたことをすべて踏まえつつ、私は、ここでの最も大きなメッセージは、「あなたは今、自分がやっていることに喜びをもっているか」ということではないかと思うのです。
「しかし、必要なことは一つだけである」という部分は、新共同訳でもほぼ同じなのですが、その前に使っていた口語訳聖書では、少し違う訳でした。「なくてならぬものは多くない、いや一つだけである」という言葉でした。これは、訳が違うだけではなく、元になっているギリシア語が違うのです。元の写本が2種類あるのです。私は前の訳(写本)の方が好きだったので、「なくてならぬものは多くない。いや一つだけである」という方が心にしみます。
しかしそれは後で付け加わったのだろうと言われるのです。なぜそれが付け加わったのだろうかと、想像しますと、「いくらなんでも、マルタがかわいそう」ということで、少しはマルタの気持ちを酌んであげる言葉が付け加わったのかもしれません。
いずれにしろ、この時、「必要なただひとつのもの」から心が離れていった、そしてマリアに対しても、イエス・キリストに対しても、素直に自分を出すことができなかった、ということが、イエス・キリストのこの言葉を促したのであろうと思います。
(8)相手に必要なものを察知して
イエス・キリストの言葉は、いつも誰に対して同じ、という訳ではありませんでした。イエス・キリストは、相手が今、何を必要としているか、その人に今欠けているものは何かということをずばりと察知して、それにふさわしい言葉をかけられたのです。この話が有名な「よきサマリア人」のたとえのすぐ後にあることも、そういうことと関係があるように思います。
「よきサマリア人」のたとえが語られたのは、律法の専門家がイエス・キリストに「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ10:25)と質問したことに促されたものでした。イエス・キリストは、すぐに答えを言うのではなく、あの「よきサマリア人のたとえ」を語られた。そして「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10:36)と問い返され、「その人に憐れみをかけた人です」(ルカ10:37)というふうに、答えを引き出されました。「あなたはすべてのことをよく知っているではないか。すでによく聞いている。今、あなたに欠けているのは、それを実行に移すこと。それをしなさい」と言うことです。
マルタに対して言われた言葉は、それと対比的になっているのではないでしょうか。「あなたは、もてなしなど、なすべきことをちゃんとしている。よく奉仕をしている。しかし今、あなたに本当に必要なことは聞くことだ」と。もちろん聞くことと実践することは切り離せません。この時のマルタに欠けていたものは、あの時に律法の専門家に欠けていたものとは、いわば逆のことでした。ですからこれは、聞くことと行うこととどっちが大事かという「あれかこれか」ではないのです。その時その時の状況を踏まえながら、その人にその時一番必要なことは何かをよく見抜いて、それを的確に指摘される。それがイエス・キリストの言葉の深みであります。
私たち自身、今自分のしていること、そこに喜びがあるか、それがイエス様に従うしるしになっているか、それを見極めながら、イエス・キリストに従っていきたいと思います。