2021年7月4日説教「旧約とつながる福音書」松本敏之牧師
マタイによる福音書5章17~20節
(1)共観福音書
鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、明日で第二コリントを終えて、明後日7月6日からマタイ福音書を読み始めます。まだこの聖書日課に即して読んでおられない方、また一度挫折された方は、このマタイ福音書から合流してくださると、ちょうどよいかと思います。最初に、マタイ福音書の概説的なことをお話しておきましょう。
ご承知のように、新約聖書の最初には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書が置かれています。福音書というのはイエス・キリストの生涯と死、業と言葉を記したものですが、単なる伝記ではありません。それぞれの視点から、イエス・キリストが神の子、救い主であることを、証ししようとするものです。
四つの福音書のうち最初の三つの福音書は共通するものが多く、共通の観点をもって書かれていることから共観福音書と呼ばれます。ちなみにヨハネ福音書は全然違う視点で書かれています。
福音書の中では、マルコ福音書が最も古く、大体紀元後70年代に書かれました。一番古いと言っても、イエス・キリストの十字架の死から約40年経っていることは、書かれた動機や背景を知る上で、頭に入れておくとよいでしょう。つまり福音書というのは、生前のイエス・キリスト(という言い方も変ですが、私たちはイエス・キリストは今も生きていると信じているわけですから)のことをよく知っている弟子が書いたのではなく、一時代後の人が、伝承、言い伝えをもとにまとめたものということになります。
さてマルコ福音書の次は、マタイとルカですが、この三つには共通するものが多いと申し上げました。なぜかと言えば、マタイ福音書記者もルカ福音書記者も、実はマルコ福音書の存在を知っていたのです。それでマルコ福音書をもとにしながら、独自の視点を加えて、それぞれマタイ福音書とルカ福音書を書き直したのです。
(2)Q資料、独自資料、マルコ福音書
だから共通する話が多いのはわかるのですが、不思議なことに、マタイ福音書とルカ福音書には、マルコ福音書には書かれていない共通の話があるのです。少し複雑な話になりますが、よく聞いてください。できるだけわかりやすく申し上げます。でも推理小説のようでもありますので、こういう歴史の話がお好きな方もあるでしょう。
たとえば来週お話するマタイ5章38節以下の「敵を愛しなさい」という言葉は、ルカ福音書の6章27節以下にも出てきます。ところがマルコ福音書には出てこないのです。そしてマタイとルカはお互いの福音書を知りませんでした。それなのに、同じ話が出てくるのはどうしてか。それは、マルコ福音書以外に、マタイとルカが共通して知っていた資料が何かあったのではないか。それは、今は存在しないのです。でも当時は何かそういう伝承資料があったのだろう。ということで、その資料のことをQ資料と呼んでいます。オバケのQ太郎のQです。
それに加えて、マタイもルカも、自分しか知らない資料をもっていた。それらによって、マタイとルカはそれぞれの福音書を書いたのです。整理すると、こうなります。
マタイ福音書は、①マルコ福音書、②Q資料、③マタイ独自資料をもとに書かれている。ルカ福音書は、①マルコ福音書、②Q資料、③ルカ独自資料をもとに書かれている。こういうことは神学校に入ったら、1年生で最初に学ぶことです。聖書を歴史の中で書かれたものですから、歴史の中に戻して位置づける。ちょっと面白いでしょう。
(3)マタイとルカの視点の違い
さて話を前に進めましょう。マタイ福音書とルカ福音書、この二つの福音書はある意味でとても対称的です。先に結論的なことを言えば、マタイ福音書は過去志向というか伝統志向です。それに対して、ルカ福音書は未来志向です。執筆動機と想定読者が少し違うのです。
マタイ福音書はユダヤ教を信じている人たちを主な想定して書かれており、それに対して、ルカ福音書は、どちらかと言えば異邦人を想定して書かれている。つまり、マタイは、イエス・キリストこそユダヤの歴史において長く待ち望まれてきた救い主(メシア)であるということを、特にユダヤ人たちに向かって語っている。それに対して、ルカは、それはそうなんだけれども、そのイエス・キリストは、ユダヤ人の救い主に留まらず、世界の救い主なんだということを、異邦人たちに向かって、主にギリシア世界の人々に向かって語るのです。だから必然的に、その後に使徒言行録が続くのです。
聖書の中の福音書の配列は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとなっています。マタイ福音書が最初に置かれているのは、かつてはそれが一番古いと考えられていたからですが、それが否定されるようになった今日でも(マルコ福音書が一番古いということがわかった今日でも)、この順序はやはり意義深いものがあると思います。なぜなら、マルコ福音書を真ん中にして、マタイ福音書はそれ以前の歴史(旧約聖書)とのつながりが深く、ルカ福音書はそれ以後の歴史とのつながりが深いからです。
(4)旧約聖書とのつながり
ルカ福音書については、また改めてお話する時があると思いますので、マタイ福音書に集中していきましょう。
マタイ福音書の特徴の一つは、先ほど述べたように、旧約聖書とのつながりです。マタイ福音書が読みにくい「イエス・キリストの系図」から始まるのもそのためです。いきなりこの系図でつまずいてしまう人もあるかもしれませんが、この系図にもマタイの特別な思いが込められているのです。特に1節に記されたアブラハム、ダビデという名前は見逃せません。旧約聖書の引用が最も多いことも、マタイが、旧約聖書との結び付きを大事にしたからに他なりません。
このことは、私たちの信仰にとって旧約聖書が大事なものであるということを教えてくれます。皆さんの中には、「旧約聖書は難しい、面倒だ」と敬遠する方があるかもしれませんが、キリスト教の信仰は、新約聖書だけではなく、旧約聖書の基礎の上に成り立っていることを心に留めましょう。
また、旧約聖書は、もともとユダヤ教の聖典ですが、今日の世界においても、ユダヤ教を信じる人々がいるということも忘れないようにしましょう。マタイ福音書は、ユダヤ教の流れを大事にしながら、対決姿勢も鮮明です。そしてそのことがキリスト教世界からのユダヤ人迫害の一因になったことも心得ておきたいことです。
(5)律法主義の誤り
さて本日は、そのように旧約聖書と深いかかわりをもつマタイ福音書の中で、それがどういう関係であるのかをもっともよく示す、イエス・キリストの言葉を、取り上げました。マタイ福音書5章17節以下の「律法について」と題された箇所です。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)
「律法」「預言者」というのは旧約聖書の中の主な部分ですが、ややこしい説明を抜きにして言えば、旧約聖書を代表し、旧約聖書全体を表現していると言ってもよいでしょう。
この言葉が語られたのは、イエス・キリストの新しい教えを聞いて、これまでの律法、教えを否定していると誤解した人たちがいたからでした。それは両方の側、つまり、それを聞いて憤慨した人たちも、それに安易に飛びついた人たちも誤解したのでした。
イエス・キリストが登場した時に、厳格な聖書の信仰に立っていた人々は動揺しました。「この男は律法を否定している。律法を無視している。神を汚している」。
例えば、安息日を守ることについてもそうでした。彼らはモーセの十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めから、安息日には何もしてはいけないと考えていました。なぜそういう戒めが与えられたのかについて考え、その恵みを味わうよりも、この戒めそのものが絶対化されていった。こういうことを律法主義といいます。イエス・キリストが批判されたのは、律法そのものではなく、律法主義でした。
イエス・キリストは、安息日にもあたかも自由であるかのごとく振る舞われました。安息日にも人をいやされました。それは、律法主義者に対しては、挑発的な行為に映りましたけれども、イエス・キリストは、安息日律法をないがしろにされたのではなく、それが形骸化することによって、その精神がないがしろにされていることを批判するために、あえて挑発的な行為をなさったのでした。「安息日は、人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と言われました。
何につけ「○○主義」となる時に、問題が生じてきます。形だけが一人歩きしてしまうのです。資本主義であれ、社会主義であれ、共産主義であれ、その原則が絶対化される時は危険です。「キリスト教主義」も例外ではありません。
律法の本来の精神は、それによって神を神とし、律法に表された神様のみ心を知ることにあります。神様はいつも人のことを思いやっておられます。ところが律法を文字通りに守ることが、その心を問うことよりも優先される。律法自体は神ではないのに、あたかも律法が神のようになってしまう。つまり律法という名の偶像を拝んでいると言えないでしょうか。
イエス・キリストは、「よくよく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画(いってんいっかく)も消えうせることはない」(5:18)と言われましたが、それは一字一句にとらわれるということではなく、むしろ律法の本来の精神のことをおっしゃっているのです。
(6)律法無視の誤り
律法学者たちは、「イエス・キリストが律法を無視している」と誤解したわけですが、それを逆の立場から誤解した人たちもいました。「イエス・キリストが現れたのだから、律法はもう古い。律法はもういらない」。
ここでのイエス・キリストの言葉(今日の聖書箇所)は、どちらかと言えば、むしろそのように誤解した人たちに向けて語られている面が強いと思います。
パウロは、「人はその行い(つまり律法を守ること)によって義とされるのではなく、ただ信仰によって義とされる(言い換えれば「救われる」)」と言いました(ローマ3章)。そこには「どんなに律法を守っても完全にはなれない」という彼の葛藤がありました。「それでは救われる道はないのか」というところまで苦しんで、最後に行き着いたのが「いや信仰によって救われる」という福音でありました。
ところがその後、パウロの言ったことを誤解、曲解する人たちが現れます。「行いはどうでもよい、律法もいらない」、という人が出てきたのです。律法とは、私たちがいかに生きるべきか、倫理・行動の規範を示すものです。「人は信仰によってのみ義とされる(救われる)」ということは、決して「行いはどうでもよい」ということではありません。
恵みによって救われた人間は、毎日の生活の中で、自分が恵みによって生かされているということを、行いによって証ししていかなければなりません。自由にされたということを取り違えて、生活規範がなくなってしまってよいかと言うと、それは間違っていると思います。
これは今日の私たちの生活の中にもいろいろな形で出てくる問題でしょう。だからパウロも、次のように言うのです。
「それでは、私たちは信仰によって、律法を無効にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3:31)
(6)愛は律法を完成する
それでは、イエス・キリストは、どのようにして律法を完成されるのでしょうか。イエス・キリストが「私が来た(のは)」と言われる時、イエス・キリストがこの地上で何をなさったのかということを思い起こさなければならないでしょう。
イエス・キリストはただ説教をし、模範的な生活を示されただけではありませんでした。「お前たちには、これができるか」と言って、律法を守る優等生ぶりを見せられたのでもありませんでした。
むしろ神様の前で、いつも劣等生でしかないような私たちを立ち直らせるために、イエス・キリストは生き、そして死なれたのでした。このイエス・キリストの生涯を一言で言うとすれば、「愛」という言葉に尽きるでしょう。パウロが言ったように、「愛は律法を全うする」(ローマ13:10)のです。あるいは「(たとえ)山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい」(コリント一13:2)のです。
「律法や預言者を完成するため」とあります。「律法」と「預言者」は、先ほど申し上げましたように、この言葉で旧約聖書全体を代表させていると言えるでしょう。旧約聖書とイエス・キリストは断絶しているのではありません。そこには連続性があります。しかし同時に、イエス・キリストが旧約聖書の中に埋没してしまうのでもありません。イエス・キリストは旧約聖書を超えた方です。断絶でもなく、埋没でもない。まさしく、旧約聖書を完成されたのでした。
イエス・キリストの愛に促されて、私たち自身もこの愛に生き始めること、それが律法の深い意義であり、律法の精神であります。