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2026年2月22日説教「手を伸ばすとき ― 担われる信仰へ」志布志教会 石倉夕子牧師

聖書:イザヤ書46章3–4節
ヨハネによる福音書21章18節

Ⅰ 老いと信仰

私たちは、年を重ねてもなお「何かの役に立ちたい」と願います。それはとても誠実な思いです。けれども同時に、「役に立たなくなったら、ここにいてはいけないのではないか」、そんな不安を抱えていることもあります。教会の高齢化が 「衰退」や「問題」として語られるとき、その不安は、静かに深くなっていきます。今日は、聖書がまったく違う角度から老いと信仰を語っていることに耳を澄ませたいと思います。

Ⅱ イザヤ書46章 ― 神の側から見た老い

イザヤ書で、神はこう語られます。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」ここで語られているのは、人間の努力ではありません。神の変わらなさです。若いときだけ担う神ではないのです。役に立つ間だけ用いる神でもありません。白髪になっても、弱くなっても、神は担うことをやめないのです。老いとは、神から遠ざかる時間ではありません。むしろ神に担われていることが否定できなくなる時間なのではないでしょうか。

Ⅲ ヨハネ21章 ― 人間の側から見た老い

ヨハネによる福音書で、イエスはペトロにこう言われます。「若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし年を取ると、両手を伸ばして、 他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れていかれる。」これは衰えの宣告でしょうか。いいえ、これは衰えの宣告ではありません。弟子としての完成の姿なのではないでしょうか。「信仰とは、いつまでも自分で決め、自分で動き、自分で担い続けることではないのでは」と、最近思います。やがて来るのは、手を伸ばす信仰です。そして悲しいかな、「こんなはずではなかった」と思う時もあるのです。それでも神はその伸ばした腕を引いてくださるのではないでしょうか。

Ⅳ「役に立ちたい」という願いの転換

年を取っても 「役に立ちたい」と願う人は多いと感じています。 それは悪いことではありません。しかし聖書は、私たちの価値を「役に立つかどうか」で、決めてはいません。私たちは、役に立ってきたから、ここまで生かされてきたのではありません。担われてきたから、ここまで来たのです。かつての口語訳聖書では「持ち運ぶ」と訳されていました。そうです。私たちは「神様に持ち運ばれて」きたのです。私はこう思います。信仰が深まるとは、何かができるようになることではなく、「私はここまで生かされました。さあ、神さま、後はあなたの御手の中にあります」と、神に委ねられるようになることです。

Ⅴ 若い方たちへ

ここで、一言だけ、若い人たちにも伝えたいことがあります。あなたがまだ何者でもなくても、何を残せるか分からなくても、神にとっては、大切な一人なのです。ここにいてよい一人一人なのです。この言葉は、「将来のために頑張れ」という意味ではありません。「今ここにいるだけで、呼ばれている」ということです。すでにあなたは神に担われているのです。

Ⅵ 教会が年を取る!?

教会員の年齢層が高くなり、平均年齢も高くなりました。そうしたことがあっちでもこっちでも起きている状況です。しかしこれは教会が年をとったのではありません。神の前で、時間を生き残ったのです。担ってきた時間も、担われる時間も、どちらも神の恵みの中にあります。今ここにいる一人ひとりは、役割によってではなく、存在そのものによって、すでに神の出来事の中に置かれています。

Ⅶ 派遣の言葉

行きなさい。担うことに疲れた手を、どうか伸ばしてみてください。
あなたをここまで運んでこられた神は、今日も変わらず、あなたを担っておられます。

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