2025年1月5日説教「博士たちの訪問」松本敏之牧師
イザヤ書60:1~6
マタイによる福音書2:1~11
(1)公現日(エピファニー)
あけましておめでとうございます。
年が明けても、まだクリスマスの話をしているのか、と思われる方もあるかもしれませんが、教会の暦においては、まだ降誕節は始まったばかりです。そしてクリスマスの飾りつけなどは、公現日(エピファニー)と呼ばれる1月6日まで置いておかれることになっています。
公現というのは、「公に現れる」と書きます。神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。キリストの降誕(誕生)によって、神様が私たち人類と共におられることが明らかにされました。それは闇の中に光がさしこむような出来事でした。神に希望をおく人は、その光に従って生きていきます。
公現日というのは、もともとは、東方教会で始まりました。それは、主の降誕、博士たちの来訪、洗礼、カナにおける最初の奇跡など、「神の顕現」(神様の栄光が最初に顕されたこと)を祝う日でした。西方教会では、12月25日の主の降誕祭が成立していたので、公現は、主に博士たちの来訪を祝うものとして取り入れられました。
(2)星の役割
今日のテキストは、公現日(前日)にふさわしく、博士たちが赤ちゃんのイエス様を訪ねた箇所です。つまりこれが、イエス・キリストの公の社会デビューであったということができるでしょう。
東方の博士たちは、星に導かれてエルサレムへやってきました。そして星が救い主のいた馬小屋(家畜小屋)の上でぴたりと止まりました。それはとても象徴的なことです。
星が動いて博士たち(そして私たち)を導くというのは、アドベントを象徴しています。星は遠くのものを指し示しながら、救い主を待ち望む私たちをそちらへと導いてくれるものであります。そしてその星が、今止まった。星の意味がここで変わりました。星はこれまで博士たちを導いてきましたが、止まることによって、救いの場所を指し示したのです。「ここに私たちの救いがある。ここを見よ。」そして博士たちが幼子のいる小屋に入った時に、星の任務は終わりました。ここで待望が成就に変わったのです。別の言葉で言えば、アドベントからクリスマスに、待降節から降誕節になったのです。
(3)ヘロデも、エルサレムの人々も不安を抱いた
ただ、この救い主の誕生を、すべての人が歓迎したわけではありませんでした。時のユダヤ地方の支配者ヘロデ王は、不安をもってこのニュースを聞きました。自分の地位が脅かされると思ったのでしょう。その不安は、その後、敵意に変わっていきます。ところが、このニュースを歓迎しなかったのは、ヘロデ王だけではありませんでした。こう記されています。
「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」マタイ2:3
「エルサレムの人々も皆、同様であった」というのは、つい読み過ごしてしまう言葉ですが、「あれ?」と思わされますのでは、ないでしょうか。ダビデ王に匹敵する救い主メシアを待ち望んでいたはずのエルサレムの人々が、救い主誕生のニュースで不安を感じているのです。このことは、イエス・キリストが、やがて救い主を待ち望んでいた人々の手によって、十字架に追いやられていくことへとつながっていきます。ヘロデはどうしても、幼子イエスを見つけ出して殺すことはできませんでしたが、何とそのヘロデの思いをエルサレムの人々が果たした、ということもできるでしょう。マタイは、これから始まろうとしているイエス・キリストの生涯を、そういうふうにして、予期させているのだ言えるかもしれません。
私たちだって、クリスマスをお祝いすると言いながら、実はイエス・キリストに逆らって生きている、神様の御心に背いて生きていることもあるのではないでしょうか。聖書は、「イエス・キリストを十字架にかけたのは、ほかならぬあなたではないか」と迫ってくるのです。私たちの心には、神様よりも自分を大切にする思いがある。それはヘロデだけではない。エルサレムの人々もそうであったし、世界中に広がっていることを示しているのだと思います。
(4)異邦のマゴスたちとユダヤの知識人
マタイ福音書によると、最初に救い主の誕生を祝って拝みに来たのは、信仰の指導者である祭司長たちでもなければ、聖書のことを研究している律法学者たちでもなく、遠い東の国の異邦人、博士たちでした。「博士たち」は、前の新共同訳聖書では「占星術の学者たち」となっていましたが、その前の「口語訳聖書」以来、「博士たち」として親しまれてきました。新しい聖書協会共同訳聖書で、「博士」に戻ってほっとしたのではないでしょうか。この言葉の原語はマギ(単数形はマゴス、マジックの語源)といって、元来は、ペルシアのゾロアスター教の祭司で、天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈をよく行い、人の運命や世の動きについて神意を伝える人たちであったようです。
しかしその後、この言葉は、漠然と東方で不思議なことをやりながら、星占いや運勢判断をして生活している人々を指すようになりました。それは、「博士」という言葉から思い浮かべる「知識人」でもなかったようです。旧約聖書には、「占いや呪術を行ってはならない」と記されていますから(レビ記19:26等)、少しあやしい仕事、いかがわしい仕事と言えるかもしれません。
ユダヤの知識人であった祭司長たちや律法学者たちが、救い主誕生について何も知らなかったわけではありません。ヘロデ王が「メシア(救い主)はどこに生まれることになっているか」と問いただした時、彼らはちゃんと「ユダヤのベツレヘムです」と答えています(5節)。
一方は聖書を熟知していたにもかかわらず、救い主を探し出して礼拝するにはいたらなかった。他方は聖書のことは何も知らないはずであるのに、遠い国からわざわざ救い主を礼拝しに来た。救い主を認め、その方を礼拝することが必ずしも知識によるのではないということを思わされます。時には、逆に知識が私たちを傲慢にさせ、素直に救い主を礼拝することを妨げる場合もあるのです。
(5)博士たちはすべての人の代表
博士たちが何人であったかは、聖書には書いてありません。しかし捧げものが三つであったことから恐らく三人であると考えられ、さまざまな伝説が生まれました。
それぞれカスパル、メルキオール、バルタザールという名前が当てはめられ、西洋の絵画などでは、当時知られていた三大陸を代表させてヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人として描かれています。さらに各世代を代表させて老年、壮年、青年として描かれてきました。それらには聖書的な根拠はありませんが、ヨハネ福音書には、クリスマスを指して「その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(ヨハネ1:9)という言葉があります。そのようなクリスマスの意義を考えると、なかなか深い内容をもった想像ではないでしょうか。ただそこに女性がいないのは、ちょっと残念ですが、当時の考えからすると、仕方がないのかもしれません。
(6)捧げものの意味
彼らは「宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」(マタイ2:11)ました。黄金というのはわかりますが、乳香、没薬というのは聞き慣れない言葉です。
乳香は植物学の分類では、「かんらん科」に属する植物の樹脂で、幹に傷をつけると、ゴムの木と同じように乳白色の樹脂がにじみ出てくるそうです。その形が乳頭に似ていることから「乳香」と名づけられたとのことです。
また没薬は古代より人々に愛好された貴重品で、強い殺菌力があり、健胃剤やうがい薬、熱さましなどの医薬品として使われたそうです。没薬の特徴は苦さと香りであり、今でもアロマテラピーの精油の中に「ミルラ」という名で見つけることができます(「信徒の友」2003年12月号参照)。
さてこれらの贈りものには、どういう意味があったのでしょうか。このところでも、古来、さまざまな解釈があります。ラテン語聖書の翻訳者として知られるヒエロニムスは、この三つの贈りものは、これを捧げられたイエスが〈王〉であり、〈神〉であり、さらに〈死すべきもの〉(つまり人間)であることを示していると理解しました。
またある解釈によれば、この黄金、乳香、没薬とは、博士たち(占星術の学者たち)の商売道具であったというのです。つまり彼らはこれを使って、占いをしたり、おまじないをしたりして歩いていました。しかし彼らは、これまで肌身離さず持ち歩いていた大切な商売道具を、捧げてしまったというのです。これはどういうことを意味するのか。それは、これまで自分が一番大事にしていたもの、これまで自分が頼りにしていた、かけがえのないものを主の前に差し出して、これからは救い主イエス様を自分の生の拠点として新しく生きる、ということではないでしょうか。
(7)『アマールと夜の訪問者』
20世紀のアメリカの作曲家メノッティの作品に、『アマールと夜の訪問者』というクリスマスの小さなオペラがあります。日本語でも、『ベツレヘムへの道』という美しい絵本にもなっています(文:いっしきよしこ、絵:さのようこ、こぐま社)。数年前、年末の全家族礼拝で、その絵本をお見せしながらお話したことがあります。
アマールは、おかあさんと二人暮らしで、とても貧乏です。その上アマールは足が不自由で、杖なしで歩くことができません。ある夜、宝の箱をもった三人の旅人が「一晩泊めてください」と、アマールの家を訪ねてきました。
三人の旅人がぐっすりと眠っているところへどろぼうが入ってきました。
「誰だ!」
何とそれはアマールのおかあさんでした。
「おゆるしください。この宝のほんの一部でもあれば、アマールの足を治してやることができると思ったのです。」
旅人は言いました。
「私たちは星の知らせで、救い主がお生まれになったことを知ったのです。私たちは、この宝物をその救い主に捧げに行くところなのです。」
アマールは言いました。
「救い主がお生まれになったんだって! かあさん、ぼくも一緒に捧げものをしに行きたい。」
「うちには捧げるものなんて、何もないよ。」
「かあさん、ぼくの杖があるよ。」
「それを捧げてしまったら、これからどうやって歩くつもりなの。」
「だってこれが、ぼくの一番大切なものだから。ぼくはこの杖を捧げるんだ。」
そう言って、アマールは杖を両手で掲げて、旅人の方へ近づいて行きました。
その時、おかあさんは叫びました。「あっ、アマールが歩いている!」
不思議なことに、アマールは杖を捧げると決心した瞬間から、杖なしで歩けるようになったのです。アマールは三人の旅人と一緒に、救い主に杖を捧げに行きました。
(8)私たちは何を頼りに生きるのか
そういう物語です。先ほど、「博士たちが、もしかすると商売道具であったものをささげるというのは、それまで頼りにしていたものをこれからは頼りにしないで、救い主を自分の生の拠りどころとして生きる、その決意のしるしだということを申し上げましたが、それは、この「アマールと夜の訪問者」の物語にも通じるものがあるのではないでしょうか。
私たちは、何を頼りに生きているでしょうか。杖でしょうか。黄金でしょうか。お金でしょうか。それとも自分の地位でしょうか。神様はクリスマスに、それらよりもはるかにすばらしいものをプレゼントしてくださいました。救い主イエス・キリストです。クリスマスは招きの時です。私たちがこれまで自分の人生の拠点としていたものを、この主の前に差し出して、これからはこの方を自分の人生の拠点として生きる。そのことへの招きです。
私たちも博士たちと共に、またアマールと共に、かけがえのないものを主の前に差し出して、主を礼拝しましょう。そうすることによって、何よりも私たち自身が、これまでそれにしがみついて生きていた自分から解放されるのではないでしょうか。