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2025年9月28日説教「ゆるし、ゆるされる」松本敏之牧師・奏楽 椎名雄一郎

箴言21章13節
マタイによる福音書18章21~35節

(1)何回赦すべきか

今日は、日本キリスト教団の聖書日課に従い、マタイ福音書18章21節以下を読んでいただきました。

マタイ福音書18章においては、罪ということがひとつの問題となっています。直前の単元である18章15節には、こういう言葉があります。

「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」マタイ18:15

これはイエス様の言葉です。弟子であるペトロは、この言葉を聞いていたのであろうと思います。彼は、イエス・キリストに、こう尋ねました。

「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。」マタイ18:21

そう尋ねながら、自分のほうから答えを用意して、「7回までですか」と付け加えました。

この当時、ユダヤ教の学者は、誰かが自分に対して罪を犯した時に、「3回までは赦してやりなさい」と教えていたそうです。3という数字は一つの完全な数字です。1回は誰でも赦さなければならない。2回も赦せば、偉い人だ。それを超えて3回も赦せば、もう十分だ。完璧だ。その人はやるだけのことはやったということになります。日本語にも「仏の顔も三度まで」ということわざがあります。3回までは赦してやるけれども、4回は限度を超えている。これが誰もが納得する線であろうかと思います。そこで仏が鬼に変わるのです。ペトロもそのようなことが頭にあったのではないでしょうか。しかしペトロは、「7回までですか」とさらに「上」を言いました。ほめてもらうことを期待していたのかも知れません。「そうだ。ペトロ、よく言った。お前も7回も人を赦せる人間になれよ。」

ところがそれに対してイエス様はびっくりするような答えをされました。

「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」マタイ18:22

7の70倍ということは、計算すると490回となります。77倍という読み方もあるようです。7の70倍だと、あまりにも大き過ぎると思った人がいるのかもしれません。しかしイエス・キリストがここで言おうとされたことは、我慢の回数の問題ではありません。我慢の回数の問題であるとすれば、3回我慢して4回目に爆発した人よりも7回我慢して8回目に爆発した人の方がもっと怖い復讐をするかも知れません。490回が我慢の限界だとすれば、もっと恐ろしい気がしいます。480回位から、あと10回、あと5回。488、489、490。そこまでだ。バーン。

イエス様の言葉も、そのように理解するならば、根本的なところで読み違うことになるでしょう。そのことをペトロに悟らせようとして、イエス様は、ひとつのたとえをお語りになりました。

(2)決して返せないほどの負債(負い目)

王様がある家来に、とてつもない金額のお金を貸していた。1万タラントン。1万タラントンというのは、私たちの想像を絶する額です。あとで確認します。すぐ後に100デナリオンの借金というのが出てきますが、こちらは想像がつきます。労働者の1日分の給料が1デナリオンでありました。一日の賃金を今日の日本の相場で少なめに見積もって5千円とすると、100デナリオンは50万円です。さて1万タラントンというのは、それの何倍か。聖書巻末の度量衡換算表によれば、「1タラントンは6千デナリオン(ドラクメ)に相当」とあります。それの1万倍です。6千万デナリオン。5千円で掛け算をすると、5千円×6千万で、3千億円になります。気が遠くなるような額です。一人の人間がどんなにしても返せるようなお金ではありません。ですからそういう数字の比較そのものよりも、負い目、罪ということの性質、本質を見るべきでありましょう。

王ということで、神様がたとえられていると考えてよいでしょう。異論もあるようですが、一般的な理解で考えていきましょう。私たちの罪、負い目というのは、私たちが一生かかって、どんなに償っても償い切れないほどのものである。それにもかかわらず、神様は私たちを認め、赦してくださっている。私たちを支え、生かしてくださる。そういう私たちと神様との不釣合いな関係を思い起こさせようとしているのだと思います。

この家来は「どうか待ってください。きっと全部お返ししますから」(26節)としきりに頼みます。返せるわけがないのですが、泣きついて、そう頼みました。さて主人はどうしたでしょうか。

「家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった。」マタイ18:27

これが、いわばこの物語の第1幕です。

(3)人間同士の負債(負い目)

しかしこの話はこれで終わりません。この家来は赦してもらって釈放された後に、今度は自分がお金を貸している仲間に出会います。100デナリオンの借金です。100日分の給料に相当する額、50万円です。

彼は、首を締め上げて「借金を返せ」と迫ります。この仲間も「どうか待ってくれ。返すから」と頼み込みます。しかし彼は、それを聞こうとしないで、その仲間を牢屋に入れてしまいました。こっちのほうは、本当に一生懸命働けば返せないことはない額です。50万円。私たち人間同士の負い目は、神様に対する負い目に比べたら、その程度のものであるということを暗示しているのでしょうか。そして牢屋に入れてしまったところで、第2幕が終わります。

今度は、牢屋に入れられた人の友人が王様にすべてを打ち明けて、「何とかしてください」と直訴するのです。王様はその家来を捕まえてくる。

「不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」マタイ18:32~33

そして今度は、その家来を牢屋に入れてしまった。それがいわば、このたとえ話の第3幕と言えるでしょう。

(4)この話がわかるかどうか

いかがでしょうか。この話は、イエス様が語られたたとえ話の中では、分かりやすいものの一つではないでしょうか。展開はよくわかる。しかし分かりやすいだけに、かえって「ああ、分かった。なるほどね」で、済ませてしまいそうです。「あなたもこういう人にならないようにしましょう。」もしかすると、ペトロも、そういうふうに聞いていたかも知れません。

しかし、この話がわかるということは、そういうことではないでしょう。自分のこととして読むことができるかどうかということです。聖書が分かるというということは、文字面が分かるということではありません。単に論理がわかるということではありません。私に語りかけられた言葉として聞くことができるかということ。それが、聖書がわかるということであります。

この家来のしていることはいかにも不自然なことです。これだけの借金を赦してもらいながら、彼自身は赦してやることができない。そんなひどいことをしている。イエス様がここでおっしゃろうとしていることは、「その不自然なことを、あなたもしているのではないですか」ということなのです。私たちがそのことを読み落とすならば、いくらたとえ話の筋がわかっても、論理がわかっても、分かったことにはなりません。「あなたがこのことをしているのではないですか。」それを聞き取る時に、この物語が生き生きと、私たちに迫ってくるのです。

(5)はじめに赦しありき

そういうことを考えながら、あといくつかのことを学びたいと思います。

第一は、最初に王様の赦しがあった、ということです。王様がこの家来を赦してやった時に、王様はこの家来に何の条件もつけていません。「はじめに赦しありき」です。「お前が仲間からの借金を赦してやるなら、私もお前の借金を赦してやるよ」とは、言っていません。その話が出てくるのは一番終わりのところです。王様は、この家来を無条件で無制限に赦してやっているということ。これがひとつの大きな意味です。

使徒パウロがしつこく説いているのもそのことです。私たちが何かいい行いをするから赦されるのではない。義人はいない。一人もいない(ローマ3章)。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのです…。」ローマ5:8~9

そのことこそが、私たちを作りかえる原動力になります。そういう神様の姿に触れ、そういう神様の思いに気づく時に、私たちの中で何かが起こり、私たちの方で何かが変わってくるのではないでしょうか。

(6)償いはどうなったのか

二つ目。王様は家来に最初に、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」(25節)命じました。「償い」というのは、それだけ大きな犠牲を伴うということでしょう。もちろんそれでも償えるような額ではありませんでした。あの返済するための犠牲は、どうなってしまったのでしょうか。その後の物語には出てきません。いつの間にか消えてしまっています。王様がそれを赦してやったということだけです。しかし私たちは、この物語の背後にあること、隠れた形で起きていることに目を向けなければなりません。「どんな犠牲を払ってでもそれを償え」という「犠牲」は、無くなってしまったのではありません。どうでもいい事柄ではないのです。決済をするためには、何かが起こらなければならない。何かの犠牲が払われなければならない。

実は、その王の決済をするために犠牲になった方がいたのです。それは、このたとえを語っているその方自身です。イエス・キリストです。このお方であれば、1万タラントンの負債であっても支払うことができます。イエス・キリストは、このたとえをお語りになっている時に、自分がそのために命をはるという覚悟をしておられたと言えるでしょう。その覚悟の上で、このお話をなさっているのです。私たちはそのことを見落としてはならないでしょう。

「王の借金は帳消しにされる。そのために私は来たのだ。そのために私はここにいるのだ」と言うことを、同時に伝えようとしておられるのです。イエス・キリストの十字架が、隠れた形でこの物語を支えているのです。そのイエス・キリストだけが、この物語を語ることができる。他の誰かがこの話を語ったのであれば、それは架空の話となり、傲慢なことだということになってしまうでありましょう。

(7)赦されることと赦すこと

三つ目。神様のゆるしが無条件であり、無制限であれば、私たちは何をしても関係がないということになるでしょうか。そういうことではありません。この物語を読んでいれば、そうではないということが見えてきます。

確かに順序を間違えてはいけません。私たちが誰かを赦すから、赦されるのではありません。はじめに赦しありき、です。しかしながら、神様が私たちを赦してくださるということと、私たちが誰かを赦すということはくっついています。切り離すことはできませんよ、ということです。

「主の祈り」の中に罪のゆるしを求める祈りがあります。従来の言葉では、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という言葉です。「私たちが人の罪を赦すように、私たちの罪も赦してください。」この祈りは、難しい祈りです。祈るたびに、口ごもる思いにさせられます。自分は果たしてそのようにしているだろうか。偉そうにそんなことは、とても言えない、と思ってしまう。

しかし主の祈りは、イエス様が私たちに「こう祈りなさい」と言って、教えてくださった祈り、いや命じられた祈りです。イエス様が命じてくださったから、私たちはあの祈りを祈ることできる。あの祈りを祈ることを許されているのであり、それを祈らなければならないのです。「私は人を赦すことはできない弱い者ですが、私の罪を赦してください。」そう祈る方が正直で、その方が楽なのですが、イエス様の命じられた祈りは、そうではなかった。自分の罪の赦しを請うこと人を赦すことは切り離せないのです。その点、新しい口語体の「主の祈り」は、そのところがすっきりしました。

「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」決意表明のような形で、結びつけられています。

(8)「正当な主張」の罪

最後にもうひとつ、四つ目です。「この家来は仲間にお金を貸している。貸しているものを返せと言う。」それだけを取り上げてみれば、それは彼の正当な主張と言えそうです。この人には、そう言う権利がある。特に法外の利息をとっていたとも書いてありません。

私たちは、自分が正当なことを主張している時にこそ、むしろ私たちの罪が姿を現すということを思い起こさなければならないでしょう。正当なことをしている。この世的レベルでは、誰もそれを非難することはできません。それでも私たちは、この家来のしていることはおかしいと思う。それは神様との関係という次元が見えてきた時にわかることだと言えるでしょう。神様と私達との関係が見えてこない時には、この話はわからないのです。

私たちの世界は正当な権利を主張しあう中でいがみあっています。それぞれに正当な理由がある。それぞれの言い分を聞いていれば、それぞれに筋が通っています。しかしかみ合わないのです。小さなレベルの、私たちの隣人関係においてもそうですし、国と国の関係においてもそうです。それぞれが正当な根拠をもって戦争をするのです。正当な理由で殺しあう。どこかおかしいと思う。

昨日の、国連総会におけるイスラエルのネタニエフ首相の演説も、そういうものでありました。彼はハマスが最初にとんでもないことを仕掛けてきたから、二度とそういうことにならないように、攻撃をするのだ、と言います。しかしその論理は、その後のガザの被害に照らし合わせれば、とても受け入れられるものではありません。私たちは、それぞれの「正当な主張」で対立しているのです。その枠組みから抜け出すことができない。

私は、このたとえ話には、そこから抜け出す鍵があると思います。そしてそのために、イエス・キリストは多大な犠牲を払ってくださった。十字架で死んでくださったのです。そういう次元から見る時に初めて、「そうだ。私もゆるさなければ」ということが見えてくるのではないでしょうか。

「ゆるし」とは単に我慢することではありません。私たちが変えられること、そこで新しい生き方へと促されることです。私たちの人生を変えるもの、私たちの世界を変えるものは一体何か。復讐の連鎖、うらみの連鎖では何も変わらない。その連鎖から抜け出る突破口。それをイエス・キリストはお示しくださったのではないでしょうか。私たちもその世界に生きるようにと促されているのです。私たちも自分の歩みを振り返り、そこに注がれた神様の愛とゆるしを忘れることなく、感謝をし、私たち自身も、心をゆるめられて、人を赦せる人間になりたいと思います。

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