2025年7月6日説教「主の晩餐」松本敏之牧師
エレミヤ書31:31~34
ルカ福音書22:14~23
(1)過越の成就としての受難
ルカ福音書を1か月に一度位、読み進めたいと言ってきましたが、6月は特別行事が重なったために、5月4日以来、約2か月ぶりのルカ福音書となりました。前回も過越祭について少し述べましたが、イエス・キリストの受難は、ユダヤ教の過越祭(除酵祭。出エジプト記12、13章参照)の時に起こりました。この過越の食事をするために、主イエスと弟子たちが集まったこと、そしてこの過越祭のときに、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたことを、私たちは忘れてはならないと思います。
(2)ルカの特徴
ルカ福音書は、このところの記述において、幾つかの点でマルコ福音書やマタイ福音書と少し違った書き方をしています。まずこう書き出しています。
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれた。使徒たちも一緒だった。」ルカ22;14
「時刻になったので」というのは、具体的には日没の時刻を指しています。ユダヤ教の一日は日没から始まるのです。過越祭も、その日没から始まりました。しかしこの日の「日没」は、特別な日没でした。なぜなら、過越祭の始まる日没であり、それは、主イエスの受難を象徴する最後の晩餐の始まりを告げるものでもあったからです。そういう意味では、ルカは「時刻になったので」とさらりと書いていますが、ヨハネ福音書の好む表現を用いるならば、内容的には「時が来た」ということになるでしょう。そして主イエスは、こう述べられるのです。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。」ルカ22:15
イエス・キリストの覚悟のようなものが感じられる言葉です。この言葉を記しているのもルカ福音書だけです。
(3)新しい出エジプト
N・T・ライトという聖書学者の「すべての人のための〇〇(新約聖書)」というシリーズが刊行され始めました。新約聖書のすべての書物についての黙想・説教集であります。最近、その中の第5巻となる『すべての人のためのルカ福音書』という本が出版されたのですが、私はその本の書評を頼まれて、かなり遅れて、先週ようやくそれを提出いたしました。そのために、この本を丁寧に読むことになりました。この本の一番の特徴は、ルカは、イエス・キリストの歩みを「新しい出エジプト」として捉えているということです。そうライトは述べています。ルカ福音書では、9章の途中から19章まで、イエス・キリストの言葉と業が、ガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途上で起きたこととして描かれています。それは福音書の半分近くを占めるものです。ライトは、そのルカの記すその旅を指して、「新しい出エジプト」と呼ぶのです。そしてその旅は、イエス・キリストの一行がエルサレムに到着した19章で終わるのではなく、十字架と復活へと向かい、復活後のエマオでの食事でクライマックスに達します。そこへ至るまでで最も重要な部分がこの過越の食事なのです。ライトは、このように述べます。少し長いですが、引用します。
「イエスは、ご自分に従う者たちに対して行動をもって教えられました。特に食事をともにされました。食事は、どんな教理よりも多くのことを語ります。……イエスが意図されたと思われる幾つかの事柄、つまり、ルカがそれについて書いている幾つかの事柄を、私に提示させてください。」
そういうふうに言って、ライトは次のように述べます。
「最初にして最大のものは、過越の食事です。ルカは、イエスが『出エジプトを完成する』(9:31)ためにエルサレムに上って行かれたということを告げています。神がモーセとアロンを通して第一の出エジプトを実現されたように、イスラエルと全世界のための出エジプト(つまり第二の出エジプト)を実行するために、イエスは来られたのです。悪の力が神の民を奴隷にするその最悪の時に、神はエジプトを裁き、イスラエルを救うために働かれました。この裁きと救いの両方のしるしと手段が過越でした。死の天使は、エジプトの初子を打ちます。神の初子としてのイスラエルの家、つまり、鴨居に小羊の血が塗られた家を「過越」して行き、初子は助けられました(出エジプト12章)。今や、イスラエルとエルサレムに差し迫った裁きは、イエスがたびたび話してこられた裁きであり、彼らに罰が与えられたようとしていたのです。それで、イエスは、ご自分注がれた力をもって、ご自分の民を救われるのです。イエスご自身の死により、その民は逃れることができるのです。何から逃れるのでしょうか。悪の力です。」387~8頁
そしてその先のほうで、こう述べます。
「イエスはこの食事を熱心に待ち望んでおられました。この食事は、イエスにとって何にもまして重要で、ご自分が行おうとされていることと、彼らがそのことからどのようにして益を得るかということを、豊かで重要な意味をもった言葉と行いとをもって、ご自分に従う者たちに説明するために何よりも大切なひとときでした。」388頁
少し長い引用になりましたが、この過越の食事がもつ重要性について、的確に述べた言葉であると思います。
(4)順序が他の福音書と違う
ルカ福音書の最後の晩餐の描き方で、第二の特徴は、順序が他の福音書と違うということ、そして杯の話が二度出てくるということです。先ほどの続きを読んでみましょう。
「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまでは、私は二度と過越の食事をすることはない。」ルカ22:16
これも同じような言葉が18節にも出てきます。
「言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」ルカ22:18
こちらの言葉は、マタイ福音書にも、マルコ福音書にも出てきます。ただし最初の16節のような言葉、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまでは、私は二度と過越の食事をすることはない」というような言葉は、ルカにしか出てこないのです。
マタイやマルコがパンと杯で、いわゆる聖餐式の制定の言葉が語られたのは、「一同が食事をしているとき」(マルコ14:22、マタイ26:26)と出てきます。過越の食事はその前にしておられました。過越の食事というのはパンと杯だけではありません。他のものも食べました。出エジプト記12章を見ると、「欠陥のない(傷のない)一歳の雄の小羊」を用意して、それを屠る。「そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる」(出12:7~8)というような記述がありますので、過越祭の時にもそのような食事をしたのでしょう。
ルカは、いわゆるパンと杯による儀式の前の過越の食事にも焦点をあてて、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまでは、私は二度と過越の食事をすることはない」と言って、この食事が地上での最後の食事になるということを、強調しているのでしょう。
(5)ユダの裏切りへの言及
さてルカ福音書が、マタイやマルコと違う、三つ目の点は、ユダの裏切りについての言及が最後になされているということです。マタイ福音書やマルコ福音書では、いわゆる聖餐式の制定の言葉が語られる前に、イスカリオテのユダの裏切りのことが述べられています。例えばマタイでは26章21節です。
「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『よく言っておく。あなたがたのうち一人が私を裏切ろうとしている。』弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさか私のことでは』と代わる代わる言い始めた。」マタイ26:21
マルコ福音書でも、少し言葉は違いますが、やはり聖餐式制定の言葉の前に語られています。しかしルカ福音書では、聖餐式のパンと杯にあずかった後に、この言葉が出てくる。つまりマタイやマルコでは、イスカリオテのユダが聖餐式にあずかったかどうかははっきりとはわからないのですが、ルカは「いやイスカリオテのユダも、この最初の聖餐式にあずかったのだ」ということを明確にしようとしているのでしょう。
私も、ユダも最初の聖餐式に与っていたというのは、とても大事な意味をもっていると思います。
(6)新しい契約
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これはあなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。』」ルカ22:19~20
イエス・キリストは、イスラエルの民としての過越の食事を祝い、その後、それに重ねるようにして、今日、私たちクリスチャンが主の恵みを常に思い起こす業として行っている聖餐を制定されたのです。イスラエルの民の「過越」をはるかに超えて、イエス・キリストはすべての民が神様の大いなる恵みを確認する、新しい食卓を用意されました。この食卓から新しい恵みの歴史が始まったのです。
傷のない小羊が犠牲としてささげられる過越祭のときに、「神の子イエス・キリストが十字架にかかる」ということは、イエス・キリストこそ、どんな傷のない小羊をも超えて、神ご自身が備えられた、まことの犠牲であるという意味をもっています。それは、動物の犠牲のように繰り返される必要のない、永遠の「神の小羊」(ヨハネ1:29)なのです。
ここに「新しい契約」という言葉がありますが、それはモーセを通して告げられた「第一の契約」ということが背景にあります。それは十戒を中心とする石の板に刻まれた契約でありました。
今日はエレミヤ書31章の言葉を読んでいただきました。
「その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。……その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。」エレミヤ31:31~33
これはぜひ覚えていただきたい言葉です。この言葉は、旧約聖書と新約聖書を結ぶ大事な預言です。イスラエルの民は、この契約を守ることができなかったがゆえに、神様は「新しい契約を結ぶ日が来る」と言われるのです。かつての「古い契約」では、律法が石の板に刻まれましたけれども(申命記5:22)、「新しい契約」は彼らの胸に直接刻まれるというのです。この「新しい契約」という言葉こそ、私たちが使っている「新約聖書」という言葉の語源です。「旧約聖書」という言葉は、この「新しい契約」に対して「古い契約」ということです。
ただしユダヤ教の人々が今も唯一の正典として用いている書物を「旧約」と呼ぶのは不適切だということで、いわゆるクリスチャンが旧約聖書と呼んでいる書物を、「第一の契約の書」、「ヘブライ語聖書」(ヘブル語聖書)等と呼び変えることも増えてきました。それに対して、いわゆる新約聖書のことを「第二の契約の書」と呼ぶのです。「旧約」「新約」というと、すでにある価値観が入っていますので、それを避けるのです。あるいは旧約聖書のことを「ヘブル語聖書」と呼ぶのに対して、新約聖書は「ギリシャ語聖書」と呼ぶこともあります。
(7)途上の宴
ここで、先ほどの謎のような言葉に、もう一度注目しましょう。
「言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」ルカ22:18
これは別れの言葉です。これが「最後の晩餐」となることを、弟子たちがまだよく理解しないでいる時に、イエス・キリストは、「これが最後だ」と告げられたのです。しかし単純にそれを告げられたのではありませんでした。「地上ではこれが最後だ」と言いながら、「これが最後の最後、というわけではない」ということを、間接的な表現で、そっと告げられている。別れの悲しみの中で、終末の日の宴(晩餐)について語っておられる。この言葉の順序を変えて言うならば、こうなるでしょう。「いつか神の国で、再び、あなたがたと共にぶどうの実から作られたものを飲む日が来る」。
私は、私たちが行う聖餐式においても、いつもそのことを思い起こしたいと思うのです。私たちは、確かに主が私たちのために死んでくださったこと(十字架)を思い起こしつつ、聖餐を執り行います。イスラエルの民が過越の食事をしつつ、自分たちに表された主の恵みを思い起こすように、私たちも聖餐式をしながら、過去に起きた一度限りのイエス・キリストの十字架の恵みを思い起こすのです。パウロも、聖餐式の制定の言葉で、こう述べました。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」一コリント11:26
しかし聖餐とは、そのように過去を思い起こすためだけにあるのではありません。あるいは、そのように現在も注がれている主の恵みを心に留めるためだけにするのでもありません。パウロもさりげなく語っています。「主が来られるときまで」。そう、終わりの日に何かが起こる!私たちは、再び主の食卓にあずかるのです。
私たちが、この世で執り行う聖餐式は、さまざまです。カトリックとプロテスタントではかなり理解が違います。カトリックでは、聖餐式のことを「聖体拝領」と言います。その呼び方で、すでに理解が違うことがわかります。カトリックでは、パン(ホスティア)のことを「聖体」と言って、イエス・キリストの体と同じものになって、それが体の中に入ってくる、と理解します。しかしプロテスタントでは、あのパンがイエス・キリストの体そのものと同じものになるというのは、ちょっと言い過ぎではないか。それだと偶像になってしまうのではないかと考えます。
プロテスタントの中にもさまざまな理解があります。今日は詳しいことは述べられませんが、宗教改革者の中でも、ルターとカルヴァンとツヴィングリでは、微妙に違うのです。また同じ教会(教団)の中にも、さまざまな理解があり、いつも議論が絶えません。私は私たちの行う聖餐式は、それぞれに不完全であり、しかしそれでいて、それぞれに終わりの日の宴、完全な聖餐を示す徴であると思います。ですから私たちの聖餐は、イエス・キリストの「最後の晩餐」によって制定され、終わりの日、「神の国の宴」をもって完結する、旅の途上の宴であるということができるでしょう。イエス・キリストの十字架と死を思い起こすと同時に、終わりの日の宴を、希望をもって思い起こす
受難物語は重い物語です。しかしその重い物語の隙間から、終わりの日の喜びを指し示す希望の光が、垣間見えているのです。