2025年4月20日説教「恐れながらも大喜びで」松本敏之牧師
イザヤ書12章1~6節
マタイ福音書28章1~10節
(1)愛する者の死
イースター、おめでとうございます。
イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られたのは、金曜日の午後でありました。ユダヤ教では、金曜日の日没から安息日が始まります。その前に埋葬を済ませ、それぞれ家路に着きました。しかしその時、いつまでも墓の前を立ち去らない人がありました。
「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓に向かって座っていた。」マタイ27:61
この言葉には、彼女たちがいかにイエス・キリストを愛し、信頼し、それに従って生きてきたかということがあふれ出ています。墓の中にあるのはイエス・キリストの亡骸です。もうイエス・キリストは死んでしまったのです。そのことはよくわかっているのだけれども、墓の前から立ち去ることができない。これは愛する人を失った者の気持ちをよく表しているのではないでしょうか。
私ごとになりますが、この説教の準備をしていて、ちょうど昨年のイースターの前日に私の父が召天したことを思い出しました。こちらでイースター礼拝を終えて、ちょうど愛餐会の途中で、故郷の姫路へ向かいました。99歳という十分に生きた年齢でありましたが、それでも肉親を失うことは寂しく痛みのあることであります。
安息日が終わり、日曜日の夜明けを待ちわびるようにして、真っ先にイエス・キリストのお墓へとんで行ったのも、他ならないこの二人のマリアでありました。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」マタイ28:1
(2)地震と墓の前の番兵
「すると、大きな地震が起こった」と続きます。これはマタイ福音書だけが書き記していることです。マタイは、イエス・キリストが息を引き取られた時にも、地震が起こったと記しました。(27:51)。
現代の日本に生きる私たちは、地震というのがひとつの自然現象であることを承知しています。9年前の4月には、熊本大分大地震がありました。小さな地震であれば、日常茶飯事です。少々のことではあまり驚きません。私がかつてブラジルに住んでいましたが、ブラジルでは地震がほとんど起こりませんので、地震というのは想像がつかなくて、本当に恐ろしいものとして、世の終わりの出来事のように感じている人もたくさんいました。日本で地震が起こったというニュースの度に、「トシは地震が恐ろしくて、日本からブラジルへ逃げてきたのだろう」と、よく言われました。
イエス・キリストが息を引き取られた時と復活なさった時に、地震があったというのは、それがまさに私たちの生きているこの世界をその土台から揺さぶるような出来事、天地がひっくり返るような出来事であったことを示しているのだと思います。
私たちの人生においても、全く予想しなかったこと、考えもしなかったことが、突然起こります。それは自然現象としての地震ではなくても、私たちの人生を大地震のように揺さぶるのです。私たちの世界、あるいは私たちの人生の土台というのは、私たちが考えている程、不動のものではないのです。
お墓の前の地震に続いて、こう記されます。
「主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。」マタイ28:2
天使は軽々と、それをやってのけました。
「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」マタイ28:3
ここで、その地震が偶然起こったのではなく、神様の力がそこに介入したのだということが、示されます。それを目の当たりにした「見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のように」(4節)なりました。
弱い者を武力で威圧する人間は、自分よりもはるかに大きな力を目の当たりにする時、自分の頼みとしていた力がおもちゃのようなものでしかないということを思い知らされます。力で人を脅かしている人間ほど、立場が逆になった時に恐ろしくなるのではないでしょうか。この見張りの者たち(新共同訳では「番兵たち」)は、恐ろしさのあまり真っ青になり、固まって動けなくなってしまいました。まさに死人のようになってしまったのです。
(3)恐れと喜び
彼女たちは、イエス・キリストを見るためにここにやってきました。しかしそれは死んだイエス・キリストです。もう自分たちには何もできないと知っていながら、それでも何か心を込めたことをして差し上げたい。また彼女たち自身が、そうすることによって、言いようのないような寂しさ、悲しさ、言いようのないぽっかりと空いてしまった心の穴を少しでもふさぐことができれば、と思ってやってきたのでしょう。
あるいはもう一度、イエス・キリストの亡骸の前で思いっきり泣きたいと思っていたかもしれません。しかし、彼女たちはしたいと思っていたことをすることができません。そこにあるはずのイエス・キリストの遺体がないからです。ところが、それは喜ばしい期待はずれ、喜ばしい裏切られ方ではなかったでしょうか。
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ遺体の置いてあった場所を見なさい。」マタイ28:6
「そこにあるはずのものがない」ということは、普通、私たちを失望させ、悲しませるものですが、この場合は違っていました。イエス・キリストは、死者の中にはおられない。イエス・キリストはお墓の中にはおられない。
「女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り」(8節)ました。この「恐れながらも大喜びで」という言葉が、彼女たちの気持ちをよく表しています。私たちは、自分の生きている世界という土台が、あたかも不動であるかのように思っているならば、それを覆すような出来事に遭遇する時に、ただ不安になり、恐ろしさのあまり震え上がることしかできません。たとえそれが、神様が介入されたゆえに起きたことであったとしても、それを受け止めるアンテナがないのです。
しかし私たちの世界、私たちの人生に神様が介入して来られることがあるということを知っている人間、しかもその神により頼む者にとっては、あるいはよいことをしてくださる神様がいるということを知っている人間にとっては、そうではありません。確かに同じように恐れはもちます。しかしその恐れは、あの「番兵たち」の恐れとは質的に違ったものではないでしょうか。「畏敬の念」と言ってもいいでしょう。だから「恐れながらも喜ぶ」ことができるのです。
(4)復活のイエスの顕現
9節以下は、マタイだけが記していることです。彼女たちが急いで走っていこうとすると、今度は突然、復活されたイエス・キリストご自身が彼女たちの前に、立ち現れました。
「女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」マタイ28:9
これは、イエス・キリストが亡霊のようなものではなく、手で触れることのできる肉体をもって復活されたということを示しているのでしょう。そしてイエス・キリストもまた「主の天使」と同じように、「恐れることはない」と言われました。イエス・キリストご自身が「恐れることはない」と言ってくださることによって、「本当に恐れなくていいんだ」ということを確認するのです。そしてこう言われました。
「行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」マタイ28:10
ここで「きょうだいたちに」となっていますが、新共同訳聖書では「わたしの兄弟たちに」と訳されていました。気になって原文をチェックすると、やはり「私の」という言葉があります。主イエスは、わざわざ「私のきょうだいたち」と言われたのです。弟子たちはすべて、イエス・キリストを見捨てて逃げ去りました。普通であれば、ここで「兄弟の縁は切れた」(やくざの世界のような言葉ですが)ということになるでしょう。それにもかかわらず、主イエスの方から弟子たちのことを、「私のきょうだいたち」と呼んでくださっている。そこには大きな招きがあると思います。
(5)空っぽのお墓
さてこの二人のマリアは、イエス・キリストの「お墓参り」に行ったということができるでありましょう。お墓とは一体、何でしょうか。あるいはお墓参りは一体何のためにするのでしょうか。「クリスチャンはお墓を大事にしない」と批判されることがありますけれども、クリスチャンもお墓参りをします。ではクリスチャンにとってお墓参りというのは、一体どういう意味があるのでしょうか。
普通の日本人の感覚で言いますと、先祖を大事にする。先祖の供養をするということがあろうかと思いますが、クリスチャンは、遺された者が供養をしないと、先祖が浮かばれないという考え方はしません。もちろんお墓に行って、故人のことを思い起こし、なつかしむ。あるいはその故人から受けた大きな恵みを感謝する。それは共通のことでしょう。お墓というのは、その人が生きたしるしが刻まれる場所です。
お墓には、その人の名前と没年月日だけが記されています。私たちの人生は、最も短く要約すれば、それに生年月日を加えて、何年何月何日にこの世へやってきて、何年何月何日にこの世から去って行った、ということになるのかもしれません。お墓は、ある意味では人生の終着駅のようなものでありますが、クリスチャンにとっては、もっと大きな意味があるのです。
二人のマリアがイエス・キリストのお墓参りをした時に、そこにはイエス・キリストの亡骸はありませんでした。お墓は空っぽだったのです。「空っぽのお墓」。実はそこに大きな意義があります。日本は火葬ですので、お墓にそのまま亡骸を収めるわけではありませんが、本質的には同じだと思います。お骨はそこにある。亡骸はそこにある。しかしその人は、もうそのお墓の中にはいません。その人はそこを通り越して、天へと行かれた。
そのことを確認する場所がお墓なのではないでしょうか。私は墓前礼拝の説教で、よくこの箇所を選ぶのですが、その時には、「納骨室の蓋が天国へのエレベーターの入口のようなものだ」と言います。「そこにずっといるわけではありません。それは天国につながっていることを象徴しています」という話をするのです。
そうした意味では、イエス・キリストのお墓同様、私たちのお墓も空っぽなのです。それを確認して、天を見上げる場所が、お墓なのであり、そこで天を見上げることこそが、クリスチャンにとってのお墓参りの最も大きな意義なのではないでしょうか。
(6)私たちの初穂として
イエス・キリストは死者の中から復活された。それは私たちすべての者がそれに続くためでありました。
「キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。」コリント一15:20
私たちは「イースター、おめでとうございます」と言いますが、どうしてそう言うのでしょうか。何がめでたいのでしょうか。もちろん、それはイエス・キリストが復活されたからではありますが、それだけではそれほどめでたくないのではないのではないでしょうか。「イエス様は神の子だったから特別だったのだ。でも私たち普通の人間は、そうではないですよね」ということで終わるならば、あまりイースターをお祝いする意味はないように思います。イエス様の復活を祝うのは、私たちもそれに続くものをされるからです。イエス様は私たちの初穂となられた。私たちも復活をするそのしるしとして、最初に復活されたのです。
私たちはお墓の前で礼拝する時にも、あの二人のマリアと同じように、天使のメッセージを聞くのです。
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」マタイ28:6
そして恐れながらも、大いに喜ぶのです。
(7)お墓、天を見上げる場所
愛する人が亡くなった後、遺された人はそこへ行って、その人をなつかしみ、感謝をします。しかし私たち人間には、それだけしかできません。どんなに立派に、どんなに忠実に、どんなに丁寧にそのことをしようとも、残念ながら、それ以上のことはできないのです。死は、生きている人と死んだ人を無残に引き裂きます。私たちはその死の力の前ではどうすることもできません。死を引き伸ばすことは、少しだけできるようになりましたが、死をなくすことは人間にはできないわけです。どうしても超えることのできない一線がある。死は、ある日突然やってきて、愛する者同士が隔てられてしまいます。その力は、あたかも墓の前に立ちはだかって、そこに来る人を威圧していた番兵たちのようです。
しかしながら、イエス・キリストの復活の物語は、私たちにこう告げています。神の力はそれを超えている。私たちと死んだ者を隔てている力、私たちを威圧し、私たちを恐れさせている力自体が、神の力の前で無力にされる。私たちを脅えさせている力そのものが、神の力の前で震え上がり、死人のようになってしまう。神の力が働く時には、死の力そのものが、死にいたらされる。そして死んだはずの者が生きた者とされるのです。イエス・キリストを信じる者にとっては、お墓は終着駅ではありません。通過点に過ぎない。そこを通り越して、それは天へと通じているのです。
イースターのこの日、イエス・キリストが初穂として復活なさって、私たちに先立って天への道をつけてくださったことを共に喜び、お祝いいたしましょう。