2025年3月30日説教「キリストの右と左」松本敏之牧師
箴言19章21節
マタイによる福音書20章17~28節
(1)三度目の受難・復活予告の後に
受難節第4主日(復活前第3主日)を迎えました。講壇のキャンドルは4つ目の火を消しました。先ほどは、マタイによる福音書20章の言葉を読んでいただきました。この箇所は、来週の日本基督教団の聖書日課なのですが、事情により、今日予定していた箇所と交換して、1週間早く扱うことにさせていただきました。
二つの段落から成り立っていますが、前半の17節から19節は、イエス・キリストの受難と復活の予告です。イエス・キリストは弟子たちに向けて、こう語られました。
「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」マタイ20:18~19
これは三度目の受難と復活の予告でした。主イエスは、どういう思いでこの言葉を語られたでしょうか。決して軽い気持ちではなかったでしょう。大勢の民衆に向けて語られたのではありません。受難と復活の予告は、「メシアの秘密」とも呼ばれ、限られた弟子たちだけに語られたのでした。
しかし弟子たちは、それをどういう思いで聞いたでしょうか。第1回目の預言の時には、ペトロが主イエスを脇へお連れして、いさめ始めたことが記されていました。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」マタイ16:22
第三回目のこの時は、ペトロはもうそういう反応をしていません。ここでは、ゼベダイの子、すなわち、ヤコブとヨハネの母親が反応しました。その反応は、受難の言葉は耳に入らず、どうもその後の復活の言葉だけが耳に残っていたようです。
彼女は、こう語りました。
「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」マタイ20:21
これは、なかなか興味深い言葉です。イエス・キリストに従っているはずなのに、まだこの世の価値観にとらわれて、順序争いをしているように思えます。
(2)献身の覚悟と人間的な思い
ここから、イエス・キリストに従うこと、それは現代の文脈で言えば、「献身」とはどういうものか、あるいは、牧師になるとはどういうことか、ということを考えさせられるのです。そのことはひいては牧師ではない信徒の方々にとっても意味のあることでしょう。主イエスが、受難と復活の予告をされた後、20節はこう始まります。
「その時、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、願い事をした。」マタイ20:20
「ゼベダイの息子たち」というのは、先ほど申し上げましたが、ヤコブとヨハネのことです。この二人の兄弟は、もと漁師であり、ペトロとアンデレに続いて、弟子として召し出されたのでした。マタイ福音書の4章21節、22節に、次のような言葉がありました。
「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、二人をお呼びになった。彼らはすぐに、舟と父を残してイエスに従った。」マタイ4:21~22
この時、つまりイエス様に従う決心をした時、ヤコブとヨハネはどういう思いだったでしょうか。もしかすると、近所の漁師仲間であるシモンとアンデレ兄弟が従ったのを見て、「自分たちもこの人に賭けてみよう」ということがあったかもしれません。どうしてそう決断したか(できたか)は、何も記されていません。私は、そこには、「漁師をやっているよりもこの方について行ったほうがよさそうだ」という、彼らなりの何らかの思惑があったのではないかと想像するのです。
イエス・キリストに従うことを自己実現の一つのステップとして、捉えていたかもしれません。それは、「よし、この方に従っていこう」という純粋な思いを否定するのではありません。その後も、「私は自分のためにイエス様に従っているのではないだろうか」という思いが頭をもたげては、「いやそんなことはない」と打ち消すことの繰り返しであったのではないでしょうか。
そのことが、イエス・キリストと過ごす最後の最後の瞬間においても出てくるのです。ここで、彼らが何を求めていたかが明らかになります。それは彼ら自身の栄光でありました。マタイ福音書では、それが母親の口を通して出てきます。(マルコ福音書では、本人たちが言います。)
(3)一人は右に、もう一人は左に
この「ゼベダイの息子たちの母」というのは、かなり熱心な人であったようです。
「その時、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、願い事をした。」マタイ20:20
何か言いたいのだけれども恥ずかしくて言えない、という感じです。それを察して、イエス様の方から声をかけられます。「何をしてほしいのか」。そこで彼女は、ようやく口を開きます。
「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」マタイ20:21
このお母さん、気の毒に名前は出てこないのですが、息子の出世のためにはなりふり構わず、何でもするという感じです。現代でもこういうお母さんはいますよね。息子の方がお母さんに圧倒されて、たじたじという感じです。彼女は夫と過ごすよりも、息子(とイエス様)についていくほうを選んで、ガリラヤを出てきた人です。4章22節によれば、二人の息子は「舟と父を残して」いくのですが、「母を残して」とは書いていません。母親は息子についてきたのでしょう。
「自分の息子は、確かにイエス・キリストの弟子の中のトップ争いには加わっている。トップ3には、入っている。マタイ福音書の17章1節、26章37節等参照)。でもトップではない。トップはペトロ。最後には、ペトロを追い抜き、一位と二位になって、イエス様の両側にいられるように。」そうした思いでしょう。
しかし、その後のやり取りで、それは母親だけではなく、ヤコブとヨハネ自身の望みでもあったことが明らかになります。二人が自分のほうから言い出せなかった心の奥底の願いを、代わりに母親が口にしたのでした。
(4)人間的な思いを持ったまま
私たちは何らかの仕事を始める時に、普通は、神様に召し出されるということは考えないでしょうから、それを自己実現の場と捉えることが多いと思います。それを通して、出世を企てることもあるでしょう。出世は考えなくても、その仕事を通して、自分のやりたいことをやる。自分のやりたいことをやって食べていければ、たとえそんなに儲からなくても幸せな人生を送ることができる。そう考える人も多いのではないでしょうか。それは決して間違っていることではありません。
牧師という仕事の場合は、どうでしょうか。牧師にもそういう面がないわけではありません。私などは、まさに誰よりもやりたいことを自分でやっているという感じがいたします。こんなにやりがいのある仕事はありません。大事な神様の言葉を取り次ぎ、人にイエス・キリストを紹介し、イエス・キリストと出会ってくれること、イエス・キリストに従っていく決心に立ち会い、それを共に喜ぶ。人の悲しみの場にも立ち会い、その人のために励まし、慰める。その人のために執り成しの祈りをする。いや自分の力や言葉でそれをするというのではなく、そこに真の慰め主であるイエス・キリストが共におられることを伝え、その方自身がまことの執り成し手であることを伝えるのです。そういう仕事です。
しかも学校の教師と違い、すべての世代と付き合えます。赤ちゃんからお年寄りまで。いや生まれる前から亡くなった後の葬儀や記念会まで、まさに人生のあらゆるステージにある人とかかわるのです。それは確かにやりがいのある仕事です。自己実現という自覚はなくても、結果的に自分のやりたいことをやり、自己実現の場となっている。
しかし牧師という仕事は、そのように単純に自己実現の場として考えることはできませんし、そういう思いはどこかで打ち砕かれるものです。しかしまたいつしか、そのようになってしまっている自分に気づきます。ずっとその間を行ったり来たりしている。その繰り返しです。私も駆け出しの牧師の頃は、そんな人間的な思いがあることは、牧師にあるまじきこととして、そういうふうに考えてはいけないと、思ったりしていました。しかし今はむしろ、牧師も人間であって、牧師にもそういう思いがあるということを否定しないで、それに対しいかに自覚的であるかということのほうが大事ではないかと思うようになりました。そうしないと、自己否定に陥りかねません。
(5)ほかの十人も五十歩百歩
このテキストの先を読んでみると、他の十人の弟子たちの反応が出てきます。
「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」マタイ20:24
ということは、他の十人も口にこそ出さなかったけれども、心の中では同じようなことを考えていたということではないでしょうか。「ヤコブとヨハネの奴め。俺たちを出し抜こうとしたな。」最後には、自分がイエス様の右にいたい。左にいたい。イエス様が栄光をお受けになる時、(彼らは単純に、主イエスがエルサレムで栄光を受けられると思っていたようでありますが)、自分たちも一緒に栄光を受けたい、と思ったから腹を立てたのです。一体、誰がその右に来るのかということは、弟子たちの間の最も大きな関心事であったのでしょう。ペトロなどは、一番に「俺を出し抜いて、なんということを言うのだ」と思ったでしょう。実際に、そう言ったかも知れません
牧師も普通の人間ですから、この世的な願いや欲望を持っています。持ったまま献身している。ちょうどこの時のヤコブとヨハネのようなものです。牧師とは、そうした自己実現の思い、自己中心の思いと、イエス・キリストの召し出しとのはざまで、悩み苦闘する。でもそれを自覚しつつ、それと闘っている存在です。
この時のヤコブもヨハネも、イエス・キリストが「私が飲もうとしている杯をあなたがたも飲むことができるか」(22節)とおっしゃったのに対し、二人とも「できます」と答えました。この言葉には彼らの覚悟が感じられます。しかし、「言うは易し、行うは難し」です。結局、この二人も、その他の弟子たちと同じように、主イエスの十字架の死の時には、逃げ去っていました。イエス・キリストの最期の時、その十字架の右側と左側にいたのは、ヤコブとヨハネではなく、皮肉にも二人の「強盗」でありました(マタイ27:38)。
(6)はざまで苦闘する
ヤコブとヨハネのそうした自己中心の思いは、ある種の弱さであると思います。ペトロもその弱さを持っていました。しかしイエス・キリストは、そのような弱い、自己中心的な人間と知りつつ、召し出して、「私の羊の世話をしなさい」(ヨハネ21:16)と命じられるのだと思います。
主イエスは、この時、ヤコブとヨハネの願いを突き放してはいません。「今はそんなことを言っていても、お前たちはみんな逃げていくことになるのだ。口を慎め」とは言われませんでした。主イエスは先の先まで、彼らがその後、どのような歩みをすることになるかまで、見抜いておられたのでしょう。「今は確かに、自分の言っていることの本当の意味がわかっていない。わからないで『杯を飲むことができます』などと言っているけれども、本当にそのようになる日が来るであろう。」
使徒言行録に、こういう言葉があります。
「その頃、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、さらにペトロをも捕らえようとした。」使徒言行録12:1~3
ヤコブはこの時、権力者にもてあそばれる如く犠牲となって殺されていきました。ペトロもやがて同じように殉教することになるのですが、この時はまだ神様がそれをお許しにならなかった。もう一人のヨハネがどうなったかは、いろいろな説があって、よくわかりません。他の弟子たちと違い、長生きをしたという説が有力です。ただしこのヨハネも苦難の伝道者の道を歩みました。そうしたことすべてが、イエス様の頭の中にすでにあったのではないでしょうか。
私はあのペトロの悔い改め(マタイ26:75)も、一度限りの悔い改めではなかったであろうと思います。その後も、何度も何度も人間的な思いが出て来てはそれを反省し、そのはざまで苦闘しながら従っていったのではないでしょうか。
(7)キング牧師の説教「めだちたがりや本能」
マーティン・ルーサー・キング牧師は、1968年2月、暗殺されるちょうど2か月前に、この物語のマルコの方のテキストで「めだちたがりや本能」(Drum Major Instinct)という興味深い説教をしています(『真夜中に戸をたたく』所収)。キング牧師は、ヤコブもヨハネも「めだちたがりや本能」(一番になりたい。注目されたい)を持っていたと言うのです。しかしながら、イエス・キリストは、彼らの「めだちたがり」の願いをそのまま退けはしなかったと言って、「めだちたがりや」もそのまま悪い訳ではなく、正しく用いればよい本能である、と説きます。そして「愛において、道徳的卓越性において、寛容においてこそ、第一人者となって欲しい」と勧めるのです。「人よりも前に出たい」という思いは悪いものではないというのです。
私は、この説教を読みながら、恐らく、キング牧師自身、自分の中に「めだちたがりや本能」があることをよくわきまえていたのだろう、それを自覚していたのではないか、と思いました。そしてそれを否定するのではなくて、いかに自分で承知して、それとうまくつきあっていくか、いかにそれをコントロールするかということを大事にしていったのではないでしょうか。人間とはどういうものか、よく知っていたキング牧師ならではの、興味深い説教です。
そして期せずして2か月後に、キング自身もこのヤコブと同じように、いわば「主の差し出される杯を飲んで」殉教の死を遂げることになるのです。
私は、自分の中にも、「めだちたがりや本能」があるなと思いました。多くの牧師がそうではないかと思います。牧師も人間ですから、さまざまな人間的な思いをもっています。それをいつも自覚し、軌道修正しつつ、苦闘しながら、イエス・キリストに従っていく。それが牧師という仕事ではないかと思います。またクリスチャンとして召し出されている信徒の方、一人ひとりも同じような面があるのではないかと思います。