2025年12月7日説教「疲れしこの世をおおい守り」松本敏之牧師
イザヤ書7章13~15節
マタイ福音書1章18~25節
(1)私達の内面にも悩みがあり、疲れがある
鹿児島加治屋町教会では、今年のクリスマスのテーマを、「地に住むひとには平和あれ」といたしました。この言葉は、「天なる神にはみ栄えあれ」という賛美歌(『讃美歌21』265番)の中のフレーズであることは、先週、申し上げました。そして日曜日ごとに、この賛美歌の中のワンフレーズを説教題として、その言葉にちなんだ説教をしていくことにしています。本日の説教題は、「疲れしこの世をおおい守り」です。この言葉は、この賛美歌の以下の2節の中の言葉です。
「今なおみ使い つばさをのべ
疲れしこの世をおおい守り
悲しむ都に 悩む里に
慰めあたうる 調べうたう。」
そういう歌詞です。さまざまな災害や戦争によって、世界が疲弊していることを思います。そこに天使がつばさをのばしておおい守ってくださるというのです。そして慰めを与えてくださるのです。
「地の上には平和があるように」というのが、この賛美歌の大きなテーマですが、今日は、私たち自身の中にも、内面的なさまざまな悩みがあるということに焦点をあててメッセージを聞きたいと思います。
(2)ヨセフの悩み
イエス・キリストの母となったマリアにも困惑があり、悩みがありました。そしてその婚約者であったヨセフにも、困惑があり、悩みがありました。
マタイは、「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」(18節)と述べるのですが、ルカと違って、母マリアについては何も語らず、降誕の情景についても語っていません。最後の24~25節を読みますと。いつの間にかイエス・キリストが生まれたことになっています。
「ヨセフは目覚めて起き上がると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。しかし、男の子が生まれるまで彼女を知ることはなかった。」マタイ1:24~25
マタイは、「イエス・キリストの誕生の次第」ということで、ただヨセフについて、またヨセフの身に起こったことについてだけ語りました。ヨセフはダビデ家の子孫でしたが、特別な地位の人ではありませんでした。一介の大工です。彼は生涯の伴侶としてマリアと出会い、将来について語りあっていたことであろうと思います。しかしある日突然、その夢をぶち壊し、彼を奈落の底に突き落とすような事件が起こりました。まだ自分と性的交渉をもたないマリアが妊娠してしまったのです。この当時婚約関係は、結婚に等しい程の重みを持っていたと言われます。ですからすでに婚約をしている女性が、他の男性と性的交渉をもったことがわかると、結婚している女性の姦淫と同じように、石で打たれて殺されても仕方がない、と考えられていたようです。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。」マタイ1:19
深く考えずにこの言葉を読むと、「ヨセフは道徳的に潔癖で、厳格な考え方をする人であったので、妊娠したマリアをゆるせなかった」ということになりそうです。しかし私はそうではないだろうと思います。ヨセフがマリアのことを表沙汰にするのを望まなかったのは、体裁を取り繕うためではなく、マリアを裁判にかけ、さらしものにしたくなかったからでありましょう。一方で神の前での正しさを貫こうとし、もう一方でマリアをかばい、何とか将来に道をつけてやりたいと思ったのです。彼は、ついにマリアと「ひそかに離縁しようと決心」しました。
もしかすると、ヨセフはこの時、マリアの妊娠を自分の責任にする覚悟ができていたのかもしれません。「自分が、まだ婚約中であるマリアに手をかけて妊娠させてしまった。しかも自分のわがままで彼女と縁を切ったことにしよう。人は自分のことを何とひどい男だと非難するかもしれない。しかしそのようにすれば、マリアも助かるし、神の前での自分の正しさも貫くことができる。」これが愛と疑いのはざまで悩んだ末に、ヨセフの取ろうとした最善の道ではなかったでしょうか。
もしもそうだとすれば、ヨセフにとって、これは誰にも相談できない事柄であったでしょう。ヨセフが「実は私の子ではないのだ」と口にした瞬間に、この計画は失敗に終わるからです。そうなったら、マリアがどんなに恥ずかしい思いをすることになるかと悩んだことでしょう。またマリアを愛しながら、神の正しさが貫かれなければなりません。その厳しさの中で苦しんだことでありましょう。
(3)神と出会うところ
森有正という人は、「アブラハムの信仰」という講演の中で、こういうことを語っています。これまでも紹介したことがあるかもしれません。
「人間というものはどうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることのできない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」『土の器に』p.21
ヨセフも、まさにこの心の一隅、心の一番深いところ、他の人が誰も手を触れることができないところで、神様と(天使と)出会ったと言えるでしょう。誰にも相談できない。家族や友人にも言えない。他のことならともかく、このことだけは最愛のマリアにも言えない。ヨセフは、ことをはっきりさせれば、マリアがどんなに恥ずかしい思いをするかと悩んだでしょう。またマリアを愛しながら、神の正しさが貫かれなければならない厳しさの中で、来る日も来る日も苦しんだことでしょう。そういうひそかな悩みの中、失意の中に、クリスマスの物語は始まるのです。
このような誰にも言えないことというのは、誰しもが多かれ少なかれ持っているのではないでしょうか。
先ほど私たちは、「今なおみ使い、つばさをのべ、疲れしこの世をおおい守り、悲しむ都に、悩む里に、慰めあたうる調べうたう」と歌いました。まさに、この賛美歌のように、ヨセフの悩みの中、悲しみの中に、み使いがつばさをのべて、ヨセフの夢に現れて、慰めを与えたと言えるのではないでしょうか。
「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻として迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」マタイ1:20
(4)処女降誕の由来
1章23節に、こういう言葉があります。
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
これは、『神は私たちと共におられる』という意味である。」マタイ1:23
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」という言葉は、イザヤ書7章14節からの引用です。ただ原語のヘブライ語の「おとめ」(アルマー)は、必ずしも「処女」ということでなく、むしろ単純に「若い娘」を意味する言葉であります。ところが、旧約聖書がギリシア語に訳された時に、(この時代の人々はギリシア語で旧約聖書を読んでいたのですが)、この「おとめ」は、「処女」を意味するパルテノスという言葉に訳されてしまいました。「処女降誕」という信仰も、恐らくこのことと無関係ではないでしょう。
私は、「処女降誕」という奇跡は、例えば復活という奇跡に比べれば、それほど大きな意味を持っているとは思いません。全能の神であれば、もちろんそういうこともできるであろうという位のものであって、復活の奇跡ほどの重みをもっているとは思いません。信じられなければ、信じられないで、よいように思います。
(5)婚外妊娠の子イエス
私はニューヨークのユニオン神学校に留学中、あるクラスで、ちょうどその頃出版されたジェイン・シェイバーグ(Jane Schaberg)という人が書いた”Illegitimacy of Jesus”(1987)という神学書を読み、大きなショックを受けました。難しい題名ですが、『婚外妊娠の子イエス』という感じでしょうか。この書物は、イエス・キリストが超自然的な仕方で(つまり生物学的な父親をもたない形で)、生を受けたことに疑問を投げかけ、マリアは、何らかの性的暴力、恐らく強姦によって妊娠したのであろうという仮説を立てて、そのことを緻密な釈義によって論じていきます。
イエスが、処女降誕ではなく、婚外妊娠により生まれたということは、昔からキリスト教を否定する人たちによって言われてきたことでありますが、シェイバーグは、そういう否定的な動機ではなく、むしろ、そこからこれまでになかった福音を聞きとろうとしているのです。
昔から今日にいたるまで、貧しい環境で、性的にも虐げられ、妊娠してしまう女性はたくさんいました。一人で子どもを産む決断を迫られる女性もたくさんいましたし、現在もいます。彼女たちの多くは社会的にも差別され、厳しい状況にあります。マリアは、いわばその代表だというのです。
神はまさに、そうした女性のもとにメシアを誕生させるという決断をされたのです。それは、一見、神から見放されたように見える人々にこそ、「神は私たちと共におられる(インマヌエル)」ということを告げるためであったということでしょう。そのことは、「マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである」ということと矛盾することではないと思います。(新共同訳聖書では、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」という訳でしたが、その訳よりも、「聖霊の働きによるのである」という新しい聖書協会共同訳のほうが、広がりがある言葉になったかなと思います。)
神学校の教室でも、激しい議論があって少なからぬ拒否反応もありましたが、私は、そうした一番社会のひずみを受ける立場の人、日の目を見ないところ、誰もがまさかと思うところで神様の歴史が始まっているというメッセージには、大きな意義があると思いました(カトリックの方からは叱られるかもしれませんが)。
(6)ヨセフの引き受け
天使は、ヨセフに向かって、「恐れずマリアを妻として迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである」(20節)と告げて、マリアを受け入れるように促しました。そのことは、「そのような人々を疎外させるな。温かく迎え入れよ」という、神様から今日の私たちへのメッセージでもあるのではないでしょうか。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」マタイ1:21
「イエス」という名前は、旧約聖書に出てくる「ヨシュア」という名前をギリシア語風にしたものです。この名前(ヨシュア、イエス)には、「神は私たちの救い」という意味があります。その意味がわからないと、次の「この子は自分の民を罪から救うからである」という説明の意味がわからないでしょう。ヨセフはマリアのこと、個人的なことで悩んでいたのに、それをはるかに超えて、自分も含めた自分の民すべての人の罪の救いの言葉を聞いたのでありました。
私たちの現実には、この時のマリアのように、背負いきれないような負担を強いられることもあるかもしれません。またこの時のヨセフのように、ひそかな悩みを抱え込むこともあるかもしれません。しかしまさにそういうところで、神様は私たちに出会ってくださり、「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」と告げられるのです。