1. HOME
  2. ブログ
  3. 2025年11月23日説教「主に従うことは」松本敏之牧師

2025年11月23日説教「主に従うことは」松本敏之牧師

創世記18:13~15
マルコによる福音書10:17~31

(1)謝恩日

本日、11月第4日曜日は、収穫感謝日であり、同時に日本基督教団の定める謝恩日でもあります。神様から、さまざまな収穫をいただいていることを感謝し、同時に、教会に長く仕えてくださった牧師先生方に感謝の意を表したいと思います。教会によっては、この日の礼拝献金をささげたり、100円献金と言って、教会員一人一人が毎月100円の献金をし、1年間で1200円の献金をささげたりしている教会もあります。私たちの教会は、さまざまな外部献金をあわせて宣教共有献金としてささげており、その中から謝恩日献金もするようにしています。どうぞそうしたことを心に留めていただきたいと思います。10月には神学校日がありましたが、神学校日と謝恩日は対になっていると言えるでしょう。牧師になる入口と出口。出口なんていうと失礼かもしれませんが、牧師になる人を覚えることと牧師として働いてきた人を覚える日だからです。

さて今日私たちに与えられた聖書の箇所は、本日の日本基督教団の聖書日課でありますが、この箇所は、主に従うことを考えさせられる箇所でありますので、神学校日や謝恩日とも関係があると言えるでしょう。

(2)財産の問題と信仰の問題

マタイ福音書にもルカ福音書にも、この話の並行箇所がありますが、マタイでは「金持ちの青年」となっています。ルカでは「金持ちの議員」と題されています。この人は大変な金持ちでありました。ルカが書くように、議員であったとすれば、地位もあったことになります。主イエスに従うには、それらが妨げになる。お金も地位も捨てて従うことができるか。それは厳しい問いかけです。

それゆえに、これは有名な物語の一つでありますが、あまり好まれる物語ではありません。私も説教者として、牧師として、できれば避けて通りたい話です。これを語る私自身が、どのように生きているかが鋭く問われるからです。しかし避けようと思っても避けることができない。無視しようと思っても無視することができない。そのように私たちを引き付けてやまない物語でもあります。

彼は、なぜさっとイエス様に従えなかったのか。それは、イエス・キリストがこう言われたからでした。

「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」マルコ10:21

「とてもそんなことは自分にはできない」と思ったのです。

「彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」マルコ10:22

私はお金持ちではありませんが、それなりに多くのものを持っております。本とかCDとか、売り払っても二束三文にしかならないものばかりですが、それらをなかなか手放せない自分がいます。

ですからこのところで説教をしようとすると、どこかで「持ち物を売り払わない」で済むような、つまりこのテキストが本来持つインパクトをゆるめて、話をすることになりかねません。

もちろん、その反対も危険です。「全財産をささげよ。もっと出せ」という脅しになりかねません。今、安倍元首相を殺害した青年の裁判が行われていますが、彼は統一協会の信者である母親を持ち、その母親は統一協会に何千万円、一億円という「献金」をして家族の生活が破綻してしまっていました。異端ではないキリスト教でも、このテキストを用いて、そういうことを語りかねません。事実ブラジルでは、ある新興キリスト教の一派が、貧しい人たちの中で、そういうふうに脅すように献金をさせて、裁判になったケースがありました。教会は、裁判で負けました。この物語で語られているのは、そういう次元のことではない、ということをまず確認しておきたいと思います。

それでいて、それでもなお、この物語は、財産のことと信仰の問題が切り離せないものであるということを訴えかけてきます。チャレンジしてきます。私は、このチャレンジは、あまり簡単に解消してしまわないほうがよいと思っています。問いとして、チャレンジとして、心に残っている。一生かかって答えを出していく課題です。そういう状態というのは居心地が悪いのですが、安易に答えを見出してすっきりしてしまうよりも、かえって大事ではないかと思うのです。

(3)私の青年時代

私にとって、この物語は、青年時代からずっとそういう問いを突きつけてくる物語でありました。私は神学校に入る前、つまり一般の大学(立教大学)の頃からキリスト教の勉強を既に始めていました。それは牧師になるためというのではなく、素直に、ただキリスト教の勉強をしたかったからでした。

私は浪人時代に、学問としてのキリスト教の面白さの一端に触れました。私は二浪していましたので、浪人時代に二十歳を迎えてしまいました。二十歳を迎えた時に、ちょっとしたあせりを覚えました。「友人たちはもうみんな大学で勉強をしているのに、自分はまだこんなところで足踏みをしている。」そこでもう一度原点に立ち返って考えるようになりました。「本当は、自分は何をやりたいのか。何を勉強したいのか。あるいは何を勉強するのが、一番自分らしいのか。他の人と違ったことができるのか。」そうした中で、「そうだ。キリスト教だ」と思ったのです。私は、高校一年生の時に、すでに洗礼を受けていました。

しかしその時、「そうだ。牧師になろう」とは思わなかったのですね。そこには、この人と同じような自分があったのではないかと思っています。自分は、そのためにすべてを賭けられるか。あるいはすべてを捨てられるか。牧師になるということは、それくらいの決意をもってするものだと、若いなりに考えていたのかなと思います。

野望というほどではありませんが、クラーク博士が「青年よ、大志を抱け」と言ったような大志(アンビション)もありました。特に出世欲ということではありません。これからの時代、世界を舞台にしたような仕事をしたいとか、それなりに豊かに暮らしたいとか、その程度のことです。牧師になるということは、そうしたことをすべて断念することのように思えたのです。しかしキリスト教の勉強をすることが、一番自分に合っているし、これは本気でやるに値するだけの奥深い学問だ。しかも多くの人は、まだそのことに気づいていない。友だちがまだ知らない宝物を、そっと先に知ったような思いでありました。

私が何を勉強しようかと迷っていた時、ある人が私にこういうアドバイスをしてくれました。「一番学びたいことを学べ。一番勉強したいことをしろ。それで就職できなかったとしても、就職は就職でまた戦えばいいじゃないか。そのための資格を取り直してもいいじゃないか。」「そうか」と思い、とにかく就職のことは考えずに、好きなキリスト教の勉強を、それなりに思う存分いたしました。ヘブライ語やギリシャ語、ラテン語やドイツ語も勉強しました。残念ながら、どれも身につきませんでしたが。でも楽しかったです。

そのうちに進路を決めなければならなくなります。先ほど申し上げましたように、「牧師にだけはなるまい」と思っていましたが、そう考えること自体、裏返して言えば、「牧師になるのがよいのではないか」と、心のどこかで思っていたのでしょう。そこから逃げ回り、それでいて近くをうろうろしている。往生際が悪い。しかしそのうちに神学校(東京神学大学の大学院)へ行くことに気持ちが整ってきました。それでもまだ、牧師になる決心はついていませんでしたが。やはりこの聖書箇所にあるような問いかけがあったのではないかと思います。

(4)まじめな人

もう一度この物語を見てみましょう。

一人の青年が、イエス・キリストに近づいてきて、こう質問しました。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」マルコ10:18

彼はお金持ちで、誰もがうらやむような恵まれた人でした。しかし金持ちのぐうたら息子で、遊び歩いているというのではありません。非常にまじめな、誠実な人です。人生について、そして人生の意味について、深く考えています。

人生について深く考えながら、聖書に書いてあることもきちんと守っている。それでいて何かが足りないと、自分で意識している。これで十分と言う確証が得られない。ある種のパーフェクショニスト(完全主義者)です。しかし、どうすればよいのか、彼自身もわからないでいるのです。この人は、他のファリサイ派の人々や律法学者のように、イエス・キリストを試そうとして近づいてきたのではありません。本気でそれを知りたいと願っているのです。

どこかでふとイエス・キリストの話を聞いたのかも知れません。「自分がこれまで出会った先生とは、全く違う何かを持っておられる」と直感したのではないでしょうか。言葉を変えて言えば、「この人は永遠の命をもっている。この人であれば、永遠の命を受け継ぐために何をすればよいかを知っておられるに違いない。」そう思ったのでしょう。彼は単刀直入に聞きました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 

この人は、何か善いことを積み重ねていくことによって、永遠の命を受け継ぐのだと信じています。これまでもできるだけのことはしてきたつもりです。それでも納得がいかないのです。それでイエス様のところへやってきたのです。

イエス・キリストは、こうお答えになりました。

「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。『殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証するな。奪い取るな。父と母を敬え』という戒めをあなたは知っているはずだ。」マルコ10:18~19

(5)入門編ではなく、上級編を

イエス・キリストが言われたのは、十戒の後半の戒めでした(19節)。これらは、ほぼ十戒の後半であり、人と人との関係を規定したものです。この答えに、彼はがっかりしたことでしょう。彼は、もっとすごい答えを期待していたのです。彼は、こう思ったことでしょう。「そんなことはユダヤ人であれば、誰だって知っています。律法のことを専門的に勉強していない素人だって知っています。私も当然のこととして、それらを守ってきました。いわば律法の初級のようなことではないですか。私は、その上のこと、上級の話を聞きたいのです。」この先生は、この程度の人なのか。それとも私の質問の意味をよく理解しておられないのだろうか。自分をみくびっているのか。自分をその辺の無学な弟子たちと一緒にしているのだろうか。事実、イエス・キリストのまわりにはそういう無学な人がたくさんいました。それともとぼけているのか。しかし彼は冷静にこう答えました。

「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました。」マルコ10:20

この言葉には、彼のそうした反発が感じられます。そこでイエス・キリストは、ついに先ほどの言葉を語られたのです。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」マルコ10:21

(6)急所を突き刺した

この人は、この言葉を聞いて立ち去っていきました。あきれ返って立ち去ったのではありません。幻滅して立ち去ったのでもありません。憤慨して立ち去ったのでもありません。顔を曇らせて、悩みつつ立ち去ったのです。彼は、少なくともこの言葉の意味を理解したということでしょう。理解したけれども、それに従うことができなかったのです。この言葉は、彼の急所をぐさりと突き刺しました。他のことであれば、どんな律法でも、何とかやり遂げてみせる。しかし自分の財産を投げ出すことはできない。彼は、まさか永遠の命を受け継ぐこと自分の財産を手放すことが関係あるとは思っていませんでした。

イエス・キリストは、彼自身も気づいていないような急所を見抜いておられたのです。立派な行いをし、敬虔な思いを持ちながら、神様に完全に信頼して歩むことができない。この世のものに、最後の一線を置き、自分を神様に明け渡していないからです。最後のよりどころを死守しているのです。それはあれか、これかの問題です。イエス・キリストは、別のところで、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われました。

究極の価値をどこにおいて人生を歩もうとしているのか。この人は、人生に役立つ教えを聖書に聞き、それを身につけようとしながら、最後の自分のよりどころは財産においていたのです。「そこから自由にならない限り、あなたには本当の自由はない。あなたの病は、実はそこにある。それこそが、あなたと神との間を隔てているものだよ」と診断されたのです。

(7)ザアカイの場合との対比

ただし、この言葉は聞きようによっては危険です。先ほど申し上げたような統一協会にすべてを出してしまった人の家族の悲劇がその一例です。実は、イエス様は「十把ひとからげ」に同じ言葉を述べられるのではなく、相手を見ながら、その人の何が問題なのかを見抜いて、それぞれにふさわしい言葉を述べられるのです。

例えば、有名な徴税人ザアカイに対しては、この金持ちの男への対応と違っていました。ザアカイは悔い改めた時に、「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します」(ルカ19:8)と言いましたが、それに対して、主イエスは「何、半分だけか。全部、貧しい人に施しなさい」とは言われませんでした。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」(ルカ19:9)と言って、祝福をされました。

(8)使徒パウロの場合

使徒パウロも、かつては、このお金持ちの男のようでありました。パウロは、みんなが羨むようなものをたくさん持っていました。学歴、家柄、地位、熱心さ。しかし、こう告白しています。

「しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを今は屑(くず)と考えています。」フィリピ3:7~8

これはパウロのいわば信仰の告白です。私たちにも、この問いが突きつけられています。すぐに答えを出す必要はないかも知れません。私自身も、一生かかって向き合っていく聖書の言葉であると思っています。それぞれの位置で、そうした聖書のチャレンジを心に留めていただきたいと思います。

関連記事