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2024年9月29日説教「くすしき神の業」松本敏之牧師

詩編118編17~25節
ルカによる福音書20章9~19節

(1)ぶどう園と農夫たち

イエス・キリストは、民衆に一つのぶどう園でのたとえ話をされました。おおよそ次のような話です。

ある家の主人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出ました。収穫の時期になったので、収穫を受け取るために、主人は僕を農夫たちのところへ送るのです。しかし農夫たちは、この僕を袋だたきにして追い返しました。そこでまた、別の僕を送るのですが、この僕も侮辱して何も持たせないで追い返してしまいます。さらに3人目の僕を送りましたが、これも傷を負わせて放り出してしまいました。とうとう主人は、「私の愛する息子なら敬ってくれるだろう」と言って、愛する息子を遣わします。しかし農夫たちは、かえって「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ」と言って、彼をぶどう園の外に放り出して殺してしまいました(ルカ20:9~15)。

ざっとそういう話です。このたとえにおいて、「ぶどう園と農夫たち」は何を意味しているのでしょうか。本来は、ぶどう園とは「神の民イスラエル」、農夫たちとは「それを養い育てるべき指導者たち」ということであったと思います。

イザヤ書5章3節以下にこういう言葉があります。

「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
 私とぶどう畑の間を裁いてみよ。
 ぶどう畑に対してすべきことで
 私がしなかったことがまだあるか。
 私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに
 どうして酸っぱいぶどうが実ったのか。
 そこで今、あなたがたに知らせよう
  私がぶどう畑にしようとしていることを。
 垣根を取り払い、荒らされるに任せ
 石垣を壊し、踏みつけられるに任せる。
 ……
 万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。
 ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。
 主は公正を待ち望んだのに 
 そこには、流血。
 正義を待ち望んだのに
 そこには叫び。」イザヤ書5:3~7

旧約聖書に記されている中では、こういう言葉が今日のたとえ話にoよくあてはまると思います。そういうふうに理解すれば、今日のルカ福音書のたとえで、農夫たちというのは、そのユダヤの指導者たちということになるでしょう。ここでイエス・キリストは民衆に向かって話されましたが、その向こうには律法学者と祭司長たちがいました。その人たちは、「イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話された」と気づきました。

ただしこの「ぶどう園」を「神の造られた世界」と読むこともできるでしょう。その場合「農夫たち」というのは、「ユダヤの指導者たち」だけではなく「神に選ばれたはずのユダヤ人」ということになるでしょうか。神様に選ばれたはずのユダヤ人は、神の造られた世界を、きちんと守っているかということになるでしょうか。これは、どちらが正しいかをはっきりと決めることはできません。このたとえ話の文脈からすれば、どちらとも読めると思います。

(2)神の造られた世界

ただし私たちはこの物語を「昔のユダヤ人たちが批判されている物語」として、人ごとのように読むだけではあまり意味がないでしょう。つまり神様がせっかく選ばれたユダヤの民がその神様の意志に沿わずに、自分勝手にふるまい、主人のようになろうとした。最後には愛する息子も退けられた。そしてついに怒って、ユダヤ人が退けられて、キリスト教が誕生した。今やユダヤ教からキリスト教の時代になった。なぜキリスト教が生まれたかという、キリスト教誕生秘話のようにして読まれるかもしれません。

しかしそれでは私たちは、イエス・キリストの批判の外側に立っていることになってしまうでしょう。そうではなく、それを超えて、まさに私たちのこと、私たち自身の罪がここであらわにされている物語として読む時に、初めて私たちに迫ってくるのではないでしょうか。

神は天地の造り主です。私たちはその神が造られた世界を、ぶどう園の農夫たちのように、委託されて管理しているにすぎません。ある一定の期間だけ、主人のために働くのです。ところが、このたとえ話の農夫たちは、そのぶどう園を自分のものにしようといたしました。

彼らは、収穫の幾分かを支払うことを拒否しただけではなく、その土地さえも奪おうとしました。こういうふうに本当の主人をないがしろにして、あたかも自分が主人であるかのようにふるまうこと、自分が主人であると思い込んでしまうこと、神様のものを神様に返さないこと、そこに私たちの根本的な罪が潜んでいるのだと思います。

創世記第3章に登場するアダムは自分が世界の中心となって、「神のように善悪を知る者」となろうとしました。「バベルの塔」の物語も、塔を天にまで到達させて、神のようになろうとしたことを語っています。しかし私たちはこの世界の主人ではありません。主人というには、あまりにも未熟で、この世界のことも、自分のことも知りません。そして私たちはいつか、この世界から本当に消えゆくようにして去っていかなければなりません。私たちは、人間として自分の分をわきまえて、本当の主人を立てて生きる時に、最も人間らしく生きることができるのです。

ルカ福音書では、この次のところ、20章20節以下で、いわゆる納税問答を読むことになりますが、そこに出てくる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉の深い意味も、そこにあるのだと思います。

(3)自分が主人になろうとすること

「さて、ぶどう園の主人は、農夫たちをどうするだろうか」(ルカ20:15)と問い、自ら「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」(ルカ20:16)と答えられます。人々は、その結論に同意しながら、「そんなことがあってはなりません」と言いました。

先ほど申し上げましたように、ルカ福音書では、このたとえは民衆に向かって語っておられますが、マタイ福音書の並行箇所では、このたとえは「ファリサイ派の人々、律法学者たち」など宗教的指導者に向かって語られたことになっています。しかしルカ福音書でも民衆に向かって語られつつ、そのうしろで、宗教的指導者たちも聞いていました。つまり、イエス・キリストは、二種類の聴衆を意識して、この言葉を語られたのです。

イエス・キリストは、この話の結論を聞き手自身に考えるように向けられます。彼らは、その話を人ごととして聞いている限り、客観的に判断することができました。「そんなことがあってはなりません。」

それを聞いていた律法学者たちや祭司長たちは、自分たちのことを当てつけて、そのたとえを話されたと気づいて、主イエスに手を下そうとしましたが、民衆を恐れて、できませんでした。その結果皮肉にも、主イエスがたとえの中で言われたとおりの行動、つまり主人なる神のひとり子である主イエスを捕らえて殺すことへと突き進んでいくのです。

すでに述べましたように、私たちも主イエスのこの問いを、人ごととして聞くことはできません。私たちは、この農夫たちのように、直接人殺しをしてはいないかもしれませんが、この「世界」というぶどう園で、あたかも主人であるかのようにふるまっていないでしょうか。本当の主人である神の意志を聞こうとせず、自分にとって都合のよいような世界を望んでいる。他者と共に生きる道を選ぼうとせず、他者を押しのけ、自分だけが、あるいは自分たちの共同体や自分たちの国だけが生き延びる道を選ぼうとする。

今、中東で起こっている戦争にしても、特にイスラエル側の行動はそのように思えてなりません。時にはこの農夫たちのように誰かと共謀し、時にはその仲間さえも押しのけて、自分が主人になる道を歩もうとする。主イエスは、そのような私たちの罪を暗に告発しておられるのではないでしょうか。それを自分で認めざるを得なくなるところまで、主イエスは私たちを追いつめられます。そのことに気づく時に、私たちはどきっとするのです。もっと言えばぞっとするのです。

(4)今日こそ、喜び祝おう

イエス・キリストの十字架は、まさに私たちの罪の結果であり、私たちの罪が最も露わにされるところです。しかしその裁かれ方は、実に不思議なものでした。死の宣告をし、死の判決を下すべきお方が、その宣告をしながら、判決は自分で担われたからです。それによって、私たちは「死すべき人間である」にもかかわらず、生かされる道が開かれたと言えるでしょう。

主イエスは、ここで詩編118編22節以下を引用されました。

「家を建てる者の捨てた石
これが隅の親石となった。」

もとの詩編の言葉もほぼ同じです。

「家を建てる者の捨てた石が
隅の親石となった。」

その続きに、こう記されています。

「これは主の業
私たちの目には驚くべきこと。」詩編118:23

この言葉が語っていることは確かに不思議です。文字どおりの意味は、建築専門家の目から見て捨てられたものが、実は建築に最も大事な基礎石になったということです。これは、「祭司長や民の長老たち」に殺されるイエス・キリストが、救いのみ業の基礎になることを暗示しているのでしょう。ですから、これは彼らを完全に敵に回し、怒らせる言葉です。

しかしこの言葉は、そうした次元を超えて、驚くべき福音を語っています。不思議にもそこから救いの道が開かれた、ということです。十字架は十字架だけで終わらない。捨てられた石が用いられ、そこから新しい世界が始まるという、一つの転換点が示されるのです。ちなみに主イエスが引用なさったこの詩編118編の続きには、はっとさせられる言葉が記されています。

「今日こそ、主が造られた日。
これを喜び躍ろう。
どうか主よ、救ってください。
どうか主よ、栄えをもたらしてください。
祝福あれ、主の名によって来る人に。
私たちは主の家からあなたがたを祝福する。
主こそ神、主が私たちを照らす。
……
あなたは私の神、あなたに感謝します。
わが神よ、あなたを崇めます。」詩編118・24~28

詩編118編の言葉も、家造りの専門家の目から見たら、なんの役にも立たないと思われていたけれど、それが家の隅の親石になったというのです。

(5)「隅の親石」とは

「隅の親石」とは何かについて、二種類の解釈があるようです。そのままではコーナーストーンということでしょう。ひとつの切り石である隅の石は、建物の重みを二方向で支えなければならないので、特別に念入りに選ばれた、よい、固い石だけが用いられたようです。

もうひとつは、キーストーンという理解です。キーストーンというのは、アーチの中心にあって支えとなり、安定感を生み出すものです。どういう石がぴったりかはわからない。いろいろ当てはめてみて、役に立たないと思われていた石がぴたっとあてはまって全体を支えることもあるのです。

いずれにしろ、この比喩は、救われた者の運命の変遷を説明していると言われます。

人からは捨てられ、軽蔑され、迫害されたけれども、神によって救われ、認められ、特別重要な課題を担わせられる。後期のユダヤ教では、それはダビデを指していると解釈されてきましたが、キリスト教では、これはまさにイエス・キリストを預言した言葉として理解されてきました。

(6)人にはできないが、神にはできる

先ほど、この言葉を単純にキリスト教誕生秘話のように、読むことはできない。読んではならないと申し上げました。私たちも自分たちの行いが、むしろイエス・キリスト、神の独り子を十字架につけていることを知らなければならないと申し上げました。そうすると、一体誰が救われるのだろうかと思ってしまうのではないでしょうか。

しかしそうした中、私たちは自分の分をわきまえる悔い改めをしながらでありますが、あるイエス・キリストの言葉を思い起こすのです。それは、あの金持ちの議員がイエス・キリストの前を立ち去った後の、弟子たちとイエス。キリストの対話です。

イエス・キリストは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(ルカ18:24~25)と言われました。弟子たちは、それを聞いて、「それでは、誰が救われることができるでしょう」と問いましたが、それに対して、イエス・キリストはこう答えられるのです。

「人にはできないが、神にはできる。」ルカ18:27

それは私たちの目にはわからない。いや、むしろ愚かに見える道かもしれない。しかし「神にはできる。」それはくすしき御業、驚くべき御業であると思います。誰も予期しなかったところから、救いの道がひらかれてくる。

主の驚くべき計画は、イエス・キリストの十字架で終わるのではなく、喜びの復活へと通じていきます。そこで私たちは「跡取り息子」同様、ただただ奇跡として、「人にはできないが、神にはできる」業として、神の国へ迎え入れられる約束がなされていること、そのことを感謝して喜びたいと思います。

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