2024年12月8日説教「マリアの賛歌」松本敏之牧師
申命記10章17~20節
ルカ福音書1章46~55節
(1)4つの賛歌の第1番目
講壇のキャンドルに二つ灯がともり、アドベント第二主日を迎えました。今年、私たちは「もろびとこぞりて」というクリスマス標語を掲げて、この季節を歩んでいます。今年度の「礼拝に集い、主を賛美しよう」という年間主題にちなんだものです。
「主を賛美する」ということで、ルカ福音書に記されている4つの賛歌を、今日から一つずつ取り上げていくことにいたしました。それは「マリアの賛歌」「ザカリアの賛歌」「天使たちの賛歌」「シメオンの賛歌」の4つであります。今日はその第1回目として、「マリアの賛歌」についてお話いたします。
この歌はラテン語訳聖書の冒頭の言葉をとって、マグニフィカート(あるいはマニフィカート)と呼ばれています。そしてこの部分をテキストにして、昔からこれは歌として歌われてきました。グレゴリオ聖歌の中にもありますし、その後もモンテヴェルディやJ・S・バッハを初め、いろんな作曲家が、このマリアの賛歌(マニフィカート)に曲をつけております。皆さんの中にもそれらをお聴きになったことのある方があると思いますし、あるいは歌われたことのある方もあるかも知れません。ちなみに先ほど歌いました「わが心は、あまつ神を尊み」(175番)も、このテキストに基づいた歌であります。またこの後歌いますインドネシアの賛美歌「あがめます主よ」(『讃美歌21』178番)賛という美歌もこのテキストに基づいています。
(2)アヴェ・マリア
歌ということで言えば、クリスマスにはカトリック教会などでは、アヴェ・マリアがしばしば歌われます。グノーがJ・S・バッハの旋律(「平均率クラヴィーア曲集」第1巻第1曲)にかぶせて作ったアヴェ・マリアやシューベルトのアヴェ・マリアなど古今東西たくさんのアヴェ・マリアがあります。ブラジルはカトリック中心の国ですので、今日でも新しいアヴェ・マリアが作曲されていますし、ポピュラーの歌手もクリスマス・シーズンになりますと、好んでさまざまなアヴェ・マリアを歌います。
ちなみにブラジルには、マリアという名前の女性がたくさんいます。「マリア・ダ・グラッサ」(恵みのマリア)とか「マリア・ダ・コンセイソン」(懐胎のマリア)など、いっぱいいます。女性を呼ぶ時に、「ちょっとそこのマリア」と言うと、半分くらい当たっている、と言う程です。さすがに「イエス」という名前の人は恐れ多くてそれほどいませんが、それでも英語圏に比べると、「イエスさん」も、時々います。
さてプロテスタント教会では、マリア崇敬(カトリックの人は「マリア崇拝」ではないと言います)につながることはいたしませんが、実はこのアヴェ・マリアは、ルカ福音書1章28節の「おめでとう、恵まれた方」と始まる天使の挨拶に由来しています。これはラテン語では「アヴェ・マリア・グラティア・プレーナ」と言う言葉で始まります。これに1章42節以下にありますエリサベトのマリアに対する挨拶「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」という言葉などが付け加えられて、アヴェ・マリアのテキストができていきました。
興味深いことに、宗教改革者のマルティン・ルターや、スイスでカルヴァンの宗教改革以前にもっとラディカルな宗教改革を試みたツヴィングリでさえも、このアヴェ・マリアの祈りを祈っていたそうです。それはもともとこの挨拶が、マリアを神格化するよりも、この一人の娘であった女性に与えられた天使の挨拶を、弱く、小さな自分たち自身への祝福の挨拶であると受け止めたからであろうと思います。
(3)マリア崇敬
マリア崇敬については、私は次のように考えています。まず、先ほど申し上げましたように、プロテスタント教会では、マリアを極度に持ち上げて崇敬することはしません。カトリック教会のように「神の母」と呼んだりもしません。マリアは、あくまで私たちと同じレベルにある存在です。しかも低い身分です。そういうマリアに神様が目を留めてくださったということにこそ、福音の本質があります。マリアは他の人々(ヨセフであるとか、羊飼いであるとか)を超える存在ではないのです。ですからマリアをそれ以上の存在に高めてしまうのは、逆に福音に反することであり、神様の恵みを薄めてしまうことになりかねないと思います。天の神様と私たちの間に立ちうるのはイエス・キリストだけであり、しかもそれで十分なのです。その他に仲保者(とりなし手)が欲しいと願うのは、イエス・キリストこそ、唯一にして完全な仲保者であるということに徹し切れないからであろうかと思います。
しかしそういうことを踏まえた上で、私はマリア崇敬というのを、心情的には理解できるような気がしています。そもそもマリア崇敬が生まれてきたのは、私たちの歴史が父権制社会であり、神様をあまりにも男性的にしてしまったからではないかと思うのです。
神様は本来、男をも女をも超えた存在であるはずなのに、なんだか男のように考えられている。「父なる神」ということを強調するあまり、母なる方でもあることがわからなくなってしまった。マリア崇敬というのは、無意識のうちに、そのひずみを補正しようとしているのではないでしょうか。本能的に「おかあさん」としての神様を求めているのです。そしてそれはある意味で正しいし、自然なことであると思います。神様は、本来、そういう面を持っているはずだからです。
私はプロテスタント教会の牧師として言うならば、マリア崇敬という形ではなく、天の神様は男も女も超えた存在であり、母なる神でもあることを、信仰的に、聖書の中から読み上げていくことによって、そのひずみを正していかなければならない、神様の豊かなイメージを回復していかなければならない、と思っています。
(4)主を「大きくする」
さていよいよマリアの賛歌に入りましょう。マリアの賛歌はこのように始まります。
「私の魂は主を崇め。」ルカ1:47
この「崇める」というのは、もともとは「大きくする」という意味の言葉です。ギリシャ語ではメガルノーという動詞ですが、「メガ」というのは、「大きい」ということです。「メガフォン」「メガバイト」などの「メガ」です。先ほどから申し上げている「マグニフィカート」というのはラテン語で、「私は大きくする」という意味です。「マグニ」というのも「大きい」という意味で、「マグニチュード」という地震用語なども、この「マグニ」から来ています。
つまり「崇める」というのは、相手を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。私たちは、信仰をもっていると言いながら、自分を大きくしようとしたり、見せかけたりすることがあります。信仰を、自分を大きくしたり、自分を飾ったりする道具にしてしまう。人生の飾り。確かにあるにこしたことはないけれども、なかったらないでそれほど困らない。あくまで自分の人生の中心には自分がいる。
でもそれは本当の信仰とは言えないでしょう。神様を「崇めている」とは言えない。神様を大きくする前に、自分を大きくしているのです。このマリアの歌はそうではありません。いやもしかしたら、そこまで意識もしていないかも知れません。自分で自分の信仰はどうか、という前に、マリアの魂が、マリアの心が動き始めて、自然に神を大きくほめたたえているのです。
「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」ルカ1:47
「魂」というのは「プシュケー」という言葉(ハート、ソウルに近い)、「霊」というのは「プニューマ」(スピリットに近い)言葉です。心と精神、日本語ではなかなかこの区別は難しいのですが、ここでは両方語っているので、それほど厳密に区別する必要はないでしょう。全身全霊で、全存在をかけて、心の底から神様をあがめ、神様を喜びたたえるのです。そしてその理由が、次に記されます。
「(神は)この卑しい仕え女に
目を留めてくださったからです。」ルカ1:48
神様を崇める、たたえるというのは、自分の力で高くかけのぼるのではなく、神様が取るに足らないこの私を、心にかけてくださることを心に留めることです。向こうからこちらに駆け寄ってくださるのです。このマリアを見て、それを崇めるのではなくて、マリアが仰ぎ見ているお方を、私たちも横に並んで仰ぎ見る。そこでこそ何が起こっているのかがよくわかるのではないでしょうか。
(5)くつがえしが起きる
神はその卑しい仕え女、身分の低いマリアを心にかけられた。ここにルカ福音書の大きなテーマがすでにあらわれています。ルカがこれから福音の中心的な事柄として語っていくのは、神は貧しい者の神であるということ、神は困難の中にある者の神であるということです。苦しみの底に沈んでいる者の神であるということであり、そういう低いところに降られて共に歩み、そこから本当の意味での高いところに引き上げられるということです。私たちは、その神のわざによって、心も高くあげられるのです。それが、ルカ福音書の序曲のようにして、このマリアの賛歌の中に、すでにあらわれているのです。
そのようなルカ福音書のメッセージは、その次の言葉で、よりはっきりと示されます。
「主は御腕をもって力を振るい、
思い上がる者を追い散らし
権力ある者をその座から引き降ろし、
低い者を高く上げ
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を何も持たせずに追い払われます。」ルカ1:51~53
これらの言葉は、何かクリスマスにふさわしくない不穏なことが記されているように思えます。ある人は、これは革命の歌だと言いました。ルカ福音書は、こうした逆転を語るのです。
私たちはこういう言葉を聞くと、何か不安な気持ちにさせられます。耳障りもよくないので、しばしば読みすごそうとしますが、それはあまりよろしくないでしょう。かと言って、あまりにも社会的次元で、例えば革命を支持する言葉として読むことも平面的であると思います。これは終末論的な言葉なのです。イエス・キリストが来られる時に、どういうことが起きるかということです。そこでは、私たち人間の基準と価値観が根底から覆されるのです。
(6)「わかちあい」への招き
こうしたことは、ルカ福音書6章(「平地の説教」)で、もっとはっきりと示されることになります。
「貧しい人々は、幸いである。
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである。
あなたがたは満たされる。
今、泣いている人々は、幸いである。
あなたがたは笑うようになる。」
ルカ6:20~22
「しかし富んでいる人々、あなたがたに災いあれ
あなたがたはもう慰めを受けている。
今食べ飽きている人々、あなたがたに災いあれ
あなたがたは飢えるようになる。
今、笑っている人々は、あなたがたに災いあれ
あなたがたは悲しみ泣くようになる。」ルカ6:24~25
これも厳しい言葉ですね。これは終末的逆転を語っています。比較的「富んでいる」側にいる私たちは、このような言葉を読むと、どきっとする、あるいはぐさりと来るのではないでしょうか。私は、そうしたセンスは大事にしたいと思います。
しかしこれは単純な審きの言葉ではなく、「今のままで満足しているならば」という風に読むべきであろうと思うのです。「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」、その人たちは慰められ、笑いを得るようになる。こう語りながら、富を確保して、今の状態に満足している人々に対しては、「いつまでもそのままではないですよ」と語り、悔い改めを呼びかけ、「わかちあい、共に生きるように」と招いておられるのです。
ルカはそうしたことを、イエス・キリストのメッセージの中心として語りました。ルカ福音書の「貧しい人々は幸いである」というところは、ご承知のように、マタイ福音書では「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ5:3)となっています。この二つはもともと同じ言葉であったと言われます。マタイは「心の」と記すことによって精神的な面を強調しましたけれども、ルカはそれを「心の」とは書かずにあくまで社会的な地平のままに置いたと、言われる通りであります。どちらが古いのかと言えば、ルカのほうだろうというのが聖書学者たちの見解です。
(7)神のわざに巻き込まれて
私たちはクリスマスを祝う時にも、そうしたルカの視点を忘れないようにしたいと思います。神様がそこで何をなさろうとしておられるのか。今私たちが持っている価値観、今私たちが持っているものがそのままではなく、くつがえされる時が来る。そして神様のもとで新しい世界が始まるのです。貧しい側にいる人も、このマリアの言葉をただ「ざまあみろ。やがて私たちのほうが上になるんだ」という思いで読んだのでは意味がないでしょう。やせがまんの言葉でもないでしょう。
大事なことは、私たちがこの言葉によって、もう一つの視点、今の状態を超えた視点を与えられて、悔い改めて、新しく生き始めることです。富める者、持てる者には警告を告げて悔い改めと分かち合いの心を語り、持たざる者には、力強い約束を、同時に語っているのです。そこでこそ初めて、「もろびとこぞりて」共に喜び歌うことができるのです。
マリアも心からの喜びの心をもってこの歌を歌いました。
「今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。
力ある方が私に大いなることをしてくださったからです。」ルカ1:48~49
今年のクリスマス、私たちもそのような神様のわざに巻き込まれて、「もろびとこぞりて」分かち合いに生き、まことの喜びへと導かれたいと思います。