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2023年12月24日キャンドルサービス「平和を祈るクリスマス」松本敏之牧師

ルカによる福音書2章1~7、8~14節 ローマの信徒への手紙12章18~21節

(1)ウクライナ、そしてガザの状況

クリスマス、おめでとうございます。

鹿児島加治屋町教会では、今年のアドベントとクリスマス、「平和を祈るクリスマス~きよしこの夜」というテーマを掲げて歩んできました。

このクリスマス・テーマを決めたのは9月でした。その時、私たちの心にあったのは、主にウクライナの平和でした。今年の2月、ロシア軍がウクライナにロシアが軍事侵攻をしましたが、それは今も続いています。いよいよ長期戦の様相を帯びてきました。ただこのテーマを決めた時、その数週間後に、イスラエルとパレスチナのガザの間で、戦争状態に陥っていくとは思いもよりませんでした。

発端は、10月7日、パレスチナのガザ地区を実効支配するハマスのイスラエルへの攻撃でしたが、その後のイスラエルのパレスチナのガザ地区への攻撃は、明らかに度を超えた報復と思えるものであり、ガザの民間人の死者はイスラエルの犠牲者をはるかに超えて、すでに2万人を超えたと、報道されています。その大半は子どもたちを含む民間人です。ハマスのイスラエルの民間人への攻撃を正当化することはできませんが、そこにまで至ったのは、イスラエルの度重なるガザ空爆や、「天井のない監獄」と呼ばれるガザ地区への封鎖があったからであることを考えておく必要があるでしょう。

私は、かつて抑圧され、虐待され、しかし神様の導きによって救い出されたイスラエルの民の子孫であると自認する人々が、いかに簡単に抑圧者の側に立ってしまうのかということに驚かざるを得ませんし、また残念でなりません。

昨夜のニュースによると、イスラエル軍は、イスラム組織ハマスの壊滅を掲げて、ハマスのガザ地区の指導者が潜伏していると見て、南部への攻勢を強めています。犠牲者は増え続けていて、クリスマスを前に、平和を求める声が高まっています。

パレスチナ暫定自治区ベツレヘムは、イエス・キリスト生誕の地として、毎年、クリスマスは大勢の人でにぎわいます。例年、聖誕教会の前には大きなクリスマス・ツリーが置かれるのですが、今年はクリスマス・ツリーではなく、瓦礫や有刺鉄線が並べられています。ガザ地区に想いを寄せてもらおうと企画されたとのことです。また飼い葉おけに横たわる幼子イエスではなく、瓦礫の中に横たわる幼子イエスの像が置かれているとのことです。

NHKの報道では、正教会の司祭と思われる人が、こう述べていました。「戦争中でも困難な時もクリスマスは訪れる。国際社会はガザを支援して欲しい。」イギリスのロンドンでも、瓦礫に見立てた灰色の箱などを並べて、一刻も早い停戦を訴えていました。そしてある女性は。「世界中でクリスマスを祝っているが、惨殺が止まるまで訴え続ける」と述べました。

私も、何とかクリスマス、そして新年の祝いの時に停戦が実現して欲しいと願います。水面下では、ハマスによって拘束されているイスラエル側の人質の解放とイスラエルによって拘束されているパレスチナ人の捕虜の解放を求める交渉がなされているようですが、ぜひ実現して欲しいと願います。また一時(いっとき)の停戦だけではなく、戦争自体も集結して欲しいと願います。

(2)映画「戦場のアリア」

戦時下のクリスマス休戦、ということでは、「戦場のアリア」という映画があります。今から18年前、2005年に公開された映画ですが、ご覧になった方はあるでしょうか。私も大分前に見たのですが、先週、レンタルビデオ屋さんで借りて改めて観ました。

物語は、フィクションではありますが、実話を元にしています。第一次大戦中、戦争の最前線において、こうした敵味方を超えた交わりが幾つもの地域であったそうです。

映画の舞台は、1914年、第一次世界大戦中のフランス北部の、とある村です。フランスのその村はドイツの占領下にありました。そしてそこを取り返すべく、ドイツ軍とフランス軍が最前線で、至近距離で向き合っています。そしてフランスの援軍として、イギリスのスコットランド軍が参戦しています。

12月24日の夜、ドイツ軍にはニコラウス・シュプリングというテノール歌手が兵士になっていました。そのシュプリングの恋人であるアナ・ソレンセンも有名なソプラノ歌手でした。彼女は、何とか彼に会いたいと考えて、戦地慰問を申し出るのです。その申し出はドイツのウィルヘルム皇太子に喜ばれて実現します。シュプリングは最前線から一時離れて司令官たちの館でアナと共に歌います。しかしシュプリングは、最前線の戦場と戦争を仕切っている上官たちのいる世界のあまりの差にショックを受けながら、せっかくアナと会えたばかりなのに、自分は仲間たちのいる最前線に戻ると言い出します。アナはシュプリングを引き留めようとするのですが、結局彼女も同行することになりました。そして二人は、最前線のドイツの兵士たちの前で歌うのです。彼が「きよしこの夜」を歌い始めると、その美しい声は、敵軍であるフランス兵士たち、そしてスコットランドの兵士たちの耳にも届きました。

それぞれの陣営では、みんなそれぞれにクリスマスをお祝いしていました。しばらくすると、スコットランド軍の一人が、バグパイプでその「きよしこの夜」の伴奏を始めるのです。このスコットランド兵は、実は教会の神父で、教会の若い信徒が従軍したのを心配して、病人を運ぶ担架兵として、そして神父として従軍しているのでした。パーマー神父と言います。

(3)急ぎ来たれ、主にある民(ADESTE FIDELES)

パーマー神父は、その後、別のクリスマスの讃美歌「急ぎ来たれ、主にある民」(神の御子はこよいしも)をバグパイプで吹き始めます。すると、それを聴いたシュプリングは、手に小さなクリスマス・ツリーを掲げて、大きな声で「急ぎ来たれ、主にある民」を歌いながら、陣営から飛び出してきました。この歌の原語は、ADESTE FIDELES と言って、ラテン語です。ヨーロッパでは、どの国でも、通常、ラテン語で歌われます。ドイツ語でも、英語でも、フランス語でもなかったのが、ちょうどよかったのでしょう。「来たれ、信仰深い人よ」という意味の言葉です。意味も、ちょうどこの場面にあっています。パーマー神父はそこまで知って、この曲を吹き始めたのかもしれません。

シュプリングは、大きな声で、ADESTE FIDELES と歌いながら、スコットランド軍の陣営に近づいていきました。彼を引き留めようとしてか、守ろうとしてか、ドイツ軍の将校も出てきました。スコットランド軍の将校も出て、何やら話を始めました。そこへ「自分たちだけ置いてきぼりはないだろう」という感じで、フランス軍の将校も出てきました。そして、緊急の「頂上会談」が行われます。「今夜一晩くらい戦うのをやめても、どうということはないだろう」ということで「クリスマス休戦」が実現するのです。すると、その話し合いが終わるまでもなく、それぞれの陣営から兵士たちがぞろぞろと出てきました。

(4)クリスマス・イブ休戦

最初は恐る恐るですが、次第に打ち解けていきます。言葉はほとんど通じませんが、身振り手振りで気持ちは通じます。持っている食べ物や飲み物を分け合いました。チョコレートを差し出しているのに、毒が入っていないかを疑って、「お前が先に食べてみろ」と促します。安全だとわかると、それを受け取り、代わりにお酒をあげるのです。そこで、お互いに家族の写真を見せ合います。憎い敵だと思っていた人たちも、自分たちと同じ家族を愛する人々だと悟るのです。それは未来を先取りしたような不思議な平和な情景でした。シャロームが実現していました。パーマー神父は皆のために、クリスマスのミサを行いました。

翌朝、再び将校たちが集まりました。なされたのはもう少し休戦を続けて、最前線に放置されたそれぞれの兵士たちの遺体を回収して埋葬しようという協議でした。雪の中に埋もれているので、遺体は腐敗せず、そのままの状態でした。パーマー神父は、呼ばれたところへ行き、葬りの祈りを捧げてあげました。

しばしの休戦が終わり、再びそれぞれの陣地へ帰って行きました。それからしばらくしてからのこと、ドイツ軍の将校がフランス軍とスコットランド軍の将校に話をしに来ました。「実は、もうすぐドイツ軍が後ろから砲撃してくる。自分たちの塹壕にいれば安全だから、こっちへ来い」と言うのです。そして彼らはなんとかその時間を持ちこたえました。それからしばらくしてから、今度は「フランス軍が砲撃してくるから、こっちの塹壕へ来い」というのです。

やがて、あることをきっかけに、彼らはそれぞれの本部に、自分たちが敵軍と仲よくしたことがばれてしまいました。そして別の任地、より厳しい前線に送られていくことになりました。いくら最前線の兵士たちが平和を願っても、戦争を決定する人たちは別の人たちなのです。そしてこの戦場には、再び新たな兵士たちが送り込まれてくるのです。

(5)司教とパーマー神父

スコットランドからも、パーマー神父の上司にあたる司教がやってきて、「君に解任命令を届けに来た。スコットランドに戻れ。君をここへ送ったのは間違いだった」と告げます。パーマー神父は、こう答えました。「私は苦しむ者たちに仕えます、信仰を失った者たちにも。我らの主イエス・キリストがお導きくださったのです。私の人生で最も意義あるミサをあげるようにと。私は主の御心のままに、すべての人々に、主の御言葉を伝えたのです。」

しかし司教は、それを理解しようとせず、「イブの晩、君のミサにあずかったものは、じきひどく後悔するだろう」と言い放ちます。そこから出て行き、そして新たな兵士たちを鼓舞する、次のような説教をするのです。

「私が来たのは平和をもたらすためではなく、剣を与えるためだと、主は言われる。兄弟たちよ、主の剣は、君たちの手の中にある。君たちは文明の守り手となるのだ。悪の軍勢と戦う善の軍隊だ。この戦争は、まさしく神の戦いだ。聖戦なのだ。世界の自由を守るための戦いだ。忘れるでない。ドイツ人は、我々と行動も思考も違う。我々とはまるで違うのだ。我々は神の子だ。果たして一般市民の暮らす街を爆撃する者どもが神の子であろうか。武装した女や子どもの背後に隠れ、軍を進める者どもが神の子と言えるか。神の加護により、ドイツ人を殺さねばならない。善人も悪人も老いも若きも一人残らず殺すのだ。二度とそうする必要がないように。」

この説教を近くで聞いていたパーマー神父は、十字架を置いて、司教から離れていくのです。

あとは、どうぞ興味のある方は、ビデオを借りてご覧ください。「戦場のアリア」という映画です。レンタルビデオ屋さんなどにあるかと思います。

(6)司教と今のイスラエルの類似

さて、この司教の説教、私たちが第三者的に聞けば、明らかにおかしいと思いますが、私は、今のイスラエルの首相や軍隊の司令官の言っていることととてもよく似ていると思いました。映画の中の司教が「ドイツ人」と言っているのを「ハマス」と置き換えれば、ほとんどそのまま、あてはまるとも思います。しかしそうした道の先に、問題解決はありません。平和はありません。憎しみが増幅するだけでしょう。

パーマー神父は会話の中で、上司である司教に向かって、「それは本当に神の道でしょうか」と問いを投げかけています。私たちも、同じように、どこに神の道があるのかを問い続けなければならないでしょう。

最後に、先ほど読んでいただいたパウロの言葉に、もう一度耳を傾けたいと思います。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。……悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」ローマ12:18~21

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