1. HOME
  2. ブログ
  3. 2024年9月1日説教「天からの権威」松本敏之牧師

2024年9月1日説教「天からの権威」松本敏之牧師

マラキ書3章23~24節
ルカによる福音書20章1~8節

私は、前任地の経堂緑岡教会において、ルカ福音書の講解説教を行っていました。ただ途中で、鹿児島加治屋町教会へ転任となりました。2015年に鹿児島加治屋町教会に着任してからは、ルカによる福音書の講解説教の続きを始めました。鹿児島では、15章から始め、それを東京の頃と同じように、プリントにして配布していました。しかし出エジプト記も同じようにプリントにしていたので、両方は続けられなくなり、ルカ福音書のほうは19章までで止まってしまいました。

出エジプト記のほうは、この8月で語り終えましたので、気持ちを新たにして、この9月から、ルカ福音書の続きを聖書の順に従って語っていくことにしました。説教の後で、プリントにもしていく予定です。これまでのルカ福音書15章から19章までの説教は、全20回、プリントにして、ロビーの教会図書の下に置いてありますので、よかったらどうぞバックナンバーをお読みください。

(1)エルサレムでの最後の日々

さてルカ福音書は、19章28節から新たな部分に入り、イエス・キリストのエルサレムでの最後の日々について記します。最初の19章28節以下は、イエス・キリストがエルサレムへ入って来られる出来事です。その後、続く19章45節以下は、神殿粛清と呼ばれる記事(昔の言葉で宮きよめ、主イエスが両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたという記事)です。その後は、イエス・キリストの神殿での教えや問答が続きます。最初に来るのが、今日の問答であり、「権威問答」と呼ばれます。この後、「ローマ皇帝に税金を納めるべきか否か」という「納税問答」、「復活があるとすれば、七人の兄弟と次々に再婚した女性は天国で誰の妻になるのか」という「復活問答」などが続きます。

(2)権威問答

神殿の境内でイエス・キリストが民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や津法学者たちが近寄ってきて、こう詰め寄りました。

「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをするのか。その権威を与えたのは誰か。」ルカ20:2

「このようなこと」というのは、民衆に教え、福音を告げ知らせることですが、そこには、先ほど申し上げた神殿粛清、大暴れ事件(ルカ19:45~47)も含まれるのでしょう。「ここは俺たちの縄張りだ。勝手なことをされては困る」ということです。

その問いに対して主イエスは、直接にお答えになりません。

「では、私も一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったのか。」ルカ19:3~4

彼らはまさか自分たちが問い返されるとは思っていなかったでしょうから、びっくりしたに違いありません。彼らはいつも人を問いただす役で、自分たちはいつも安全地帯にいたのです。自分たちこそ最高責任者だと思っています。自分たちの権威をおびやかすものは、たとえ神からの権威を授かったものであろうともゆるすことはしなかったでしょう。

彼らは、主イエスのこの問い返しについて、互いに相談しました。

「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」ルカ19:5~6

しかしこのときの彼らにとって、ヨハネの権威が天からのものか、人からのものかということは、実はどちらでもよいことでした。問題は、どう答えれば、一番自分たちの面目を保てるか。どう答えれば、事柄が一番スムーズにいくか。どう答えれば、みんなが納得するか。あるいはどう答えれば、一番格好がいいか、ということなのです。ヨハネが天からの権威によって洗礼を授けたのか、それともヨハネは人によって立てられただけなのかは、二の次です。

何だかこれは、今日の政治家の答弁に似ていると患いました。「記憶にございません」「訴追の恐れがありますので、発言を控えさせていただきます。」そこでは、何と答えれば一番うまく言い逃れられるかしか考えていない。内容的に何が正しいか、何が国民にとって最もよいことであるかは二の次、あるいはどうでもよいことなのです。

もっとも政治家に限らず、私たちもついこういう答えをしがちです。どうすれば自分の、あるいは自分たちの面白を保てるかということに気がいってしまうことがあります。しかし相手を納得させるための答弁、相手を丸め込むための議論というのは本当につまらないものです。

彼らはイエス・キリストの質問を、そういうレベルでしかとらえることができませんでした。そして「分からない」と答えるのです。本当は、分かるか分からないかよりも「答えたくない」ということでしょう。それに答えるには、自分たちの態度を決定しなければならないからです。イエス・キリストの問いは、いつも私たちに態度決定を追ってくるのです。

(3)問われている存在

教会に来て、まだ洗礼を受けていない人のことを、「求道者」と呼びます。まだ答えが得られないで道を求めている人という意味でしょう。いったいどこに救いがあるのだろうか。どこに真理があるのだろうかと、道を求めるのです。信仰をもつにあたり、いろんなこと、特にわかりにくいことなどを説明してもらうのは必要なことでしょう。ただし、そうした求道生活が本物の信仰生活になるのは、自分が問う以前に、反対に、実は自分が問われているのだということに気づくときではないでしょうか。自分に問いかけておられる方が存在する。それに気づくことが信仰の第一歩です。自分が問われていることがわからないうちは、まだ信仰もわからないのです。それがわかった時、私たちは態度決定を迫られます。それに「はい」と答えるのか、拒否するのか。もっとも「まだ分かりません」と態度を保留することはありえます。その三つしかありません。ただし一時保留したとしても、いずれは答えを出さなければならないでしょう。

(4)伝道者への励まし

洗礼者ヨハネの話にかえりましょう。主イエスは結局お答えになりませんでしたが、ヨハネの洗礼は実のところ、どこからのものだったのでしょうか。これは私たちも知りたいところです。彼はいかなる権威のもとで活動したのでしょうか。神が委ねられた権威だったのでしょうか。それとも人間が作り上げたものにすぎなかったのでしょうか。それを考えるには、そもそも洗礼者ヨハネとは、誰であったかを知らなければならないでしょう。

洗礼者ヨハネは、荒れ野で質素で禁欲的な生活をしながら、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2等)と説き続けて、真の救い主が来る道備えをしました。しかも謙虚に自分が何者であるかもよくわきまえていました。「私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない」(マタイ3・11)と述べているとおりです。

また洗礼者ヨハネは、預言者エリヤの再来だと言われていました。先ほどお読みいただいたマラキ書3章23節に、こういう言葉がありました。旧約聖書の最後の言葉です。

「大いなる恐るべき主の日が来る前に
私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は父の心を子らに
子らの心を父に向けさせる。
私が来て、この地を打ち
滅ぼし尽くすことがないように。」マラキ3:23~24

また主イエスは、こう述べておられます。ルカ福音書7章24節以下です。

群衆に向かってヨハネについて、「あなたがたは何を見に荒れ野へ出て行ったのか。風にそよぐ葦か。」と問いながら、こう言うのです。

「では、何を見に行ったのか。柔らかい衣をまとった人か。華やかな衣を着て、贅沢に暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、預言者以上の者である。

『見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの前に道を整える』

と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者(すべての人間ということでしょう)のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない。」ルカ7:25~28

最大級の賛辞です。そして民衆も、そのように信じていたのです。さて、主イエスは、自分のことを問われている時に、なぜわさわざ洗礼者ヨハネの名前を出されましたのでしょうか。主イエスが論争の達人であったということもあります(ルカ20:20以下参照)。しかしそれだけではないように思います。主イエスは「そもそも悔い改めを迫る言葉は、天(神)から出ているはずではないか」と暗に問いかけ、「私が来たのも、そのために他ならない」と暗に答えておられるのだと思います。

悔い改めを促す言葉は、天から来る。その意味では、ヨハネの権威も天から来ていると言えるでしょう。もちろん洗礼者ヨハネとイエス・キリストでは、同じ天からの権威を授かっているとはいえ、そのレベルも度合いも違います。しかし主イエスは、洗礼者ヨハネの働きを、ご自分と同列で論じることによって、ヨハネの働きを高く引き上げておられると言えるのではないでしょうか。これはクリスチャンとして、あるいは牧師・伝道者として、主のご用のために働く者にとって、大きな励ましです。牧師が語る言葉も悔い改めを促すのであれば、イエス様の言葉と同じ方向を向いている。その権威は天から来ていると言えるからです。

(5)天からの権威、人からの認証

本物の言葉や行動には、それなりの権威が内側に備わっているものでしょう。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の冒頭で、こう述べています。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、私と共にいるきょうだい一同から、ガラテヤの諸教会へ。」ガラテヤ1:1~2

パウロには、例えばペトロのような「イエス・キリストの直弟子」というような権威も肩書もありませんでした。ただ自分の語る言葉と行いだけが、使徒であることを証しするのだという思いがあったのでしょう。それは正しいと思います。

そこにはペトロたち、イエス・キリストが十字架にかかられる前から弟子であった人たちとの違いが前提になっていたのでしょう。パウロは生前のイエス(という言い方は変ですが)を知りませんでした。パウロは知っているのは復活のキリストだけです。しかし生前のイエスを知っているということが、人をキリストの使徒にするのではない。人はそういう権威に頼りたがるものです。どこかで安心したいという思いがある。それに対して、パウロはその人を使徒として認証させるのはそういう肩書などではないと言おうとしたのでしょう。要は語る福音の中身だ。生き方だ。それこそが本物かどうかを保証するものだ、と言おうとしているのでしょう。

でもそれはいつも主観的に陥ってしまう危険性があります。「自分は神によって立てられた」と言えば、それで済むのかと言えば、そう単純なことでもありません。ですから絶えず吟味され、人の前に立つためには、絶えずそれが認証されていかなければならないでしょう。

ただしこの問題は、あれかこれかで言える程単純なものではありません。私は天からの権威によって語っているということが、どこかで、つまり他者・共同体によって認証されなければならない。そうでなければ独りよがりになってしまった時にも、どうしようもなく共同体が崩壊していくばかりです。

(6)上からの召命、下からの召命

プロテスタント教会の精神の中に、いわゆる「万人祭司」ということがあります。ただ「万人」と言っても、「すべての人が祭司である」というわけではありません。「すべてのクリスチャンが祭司である」ということですので、厳密に「全信徒祭司(制)」と呼ばれるようになってきています。それは、逆に言えば、神と人との間に立つ特別な存在はイエス・キリストだけだということです。それまでのカトリック教会では、神父、司教、教皇という人が特別な権威をもっていると言われていました。ただしプロテスタント教会にも、牧師の按手というのがあります。

それでは、プロテスタント教会の按手とは何なのでしょうか。神からの伝道者として立てられたということを、共同体によって、つまり(下から)認証された教職であることを認証する儀式です。

しかしそれは決して上からの権威を超えて、独り歩きするものではない。いつでも取り消されうる。認証され続けなければならない。それが自分の既得権のようになってしまう時には危ないです。それで人を裁き始める。このときの祭司長たち民の長老たちがまさにそうでした。

私たちは誰かを自分たちの教会(信仰共同体)の牧師・伝道者として立てる時には、何らかの形によってそれを承認することが求められるのです。

下田尾治郎氏は、私が共同監修者としてかかわった『牧師とは何か』という書物の中で、「牧師の任職」という事柄には、「上からの選び出し、すなわち神よりの召命という側面」と「下からの選び出し、すなわち教会共同体よりの招き」という二つの側面があると述べています。そして「下からの召しである教会共同体による召命は、牧師を志す者に対する上よりの召命が真実なものであることを認証するという意味合いが込められています」と続けます。また「下からの召命がなおざりにされる際には、牧師職は、教会の要求より遊離した思い込み的性格を帯びるでしょう。また、そのような召命感は、個々人の魂の状況に左右され、容易に消失しかねない危機にさらされます」と警告もしています(下田尾治郎「神学的に見た牧師像」、越川弘英・松本敏之監修『牧師とは何か』216~217頁)。

プロテスタント教会では、通常、按手(新たに牧師になる人の上に、すでに牧師になっている人たちが手を置く儀式)という形で、その人がその教団(教会)の牧師であることを認証するようになっています。

私たちは、牧師も信徒も、そこで語られる言葉と、そこでなされる決断や行動が神様のみ旨(むね)にかなったものであるかどうかを、祈りの中で謙虚に尋ね求めつつ、支え合って歩むように促されているのだと思います。

(7)決断する

主イエスの問いかけに積極的な答えを出すということは、一つの決断をするということです。この祭司長や民の長老たちは、ここで結論を出すのを避けたように見えますが、実は、心のうちに最も恐ろしい結論を出したのでした。それは「こいつは殺さなければならない」ということでした。

彼らの「どこからか、分からない」という言葉を聞いて、主イエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも答えない」(ルカ20:8)と、言われました。私たちは、「イエス・キリストとは誰か」という問いに対して、ペトロのように、「神からのメシアです」(ルカ9:20)と積極的に応答し、主イエスに従っていくものとなりたいと思います。

関連記事