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2024年8月4日説教「平和の道具に」松本敏之牧師

ゼカリヤ書8章12~17節
エフェソの信徒への手紙4章1~3節

(1)日本基督教団「戦責告白」

日本基督教団では、8月第一日曜日を平和聖日と定めています。また鹿児島加治屋町教会では、この日に、鹿児島ユネスコ協会との共催で、毎年「平和の鐘を鳴らそう」というイベントをもっています。

またコロナの間は中断していましたが、今年の平和聖日は、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(いわゆる戦責告白)を唱和しました。昨年は、説教の中で、後半の文章を、私がお読みしました。これは1967年に発表されたものですが、これを公表したことによって、日本基督教団はアジアの諸教会と親しく交わりをすることができるようになったのでした。

この文章の中に、「終戦から20年余を経過し、わたしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向に向かっていることを恐れます」という言葉があります。」今年は、それからさらに50年以上が経過し、終戦から79年、来年は80年になろうとしています。何度か、第三次世界大戦になるかもしれないという危機がありましたが、それらを乗り越えてきました。しかし今また、そうした危険を感じるものです。

(2)「平和メッセージ」2024年版

日本基督教団では、毎年、この平和聖日に向けて、在日大韓基督教会と合同で「平和メッセージ」を発表しています。今年のメッセージも、皆さんと分かち合いたいと思って、プリントして配布しました。イザヤ書の引用から、このように始まります。

「『主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を 成し遂げてくださるのはあなたです。わたしたちの神なる主よ あなた以外の支配者が我らを支配しています。しかしわたしたちは あなたの御名だけを唱えます。(イザヤ書 26章12節〜13節)』
 涙も枯れるほどの恐怖が、いまもガザ地区を覆います。主イエスが、愛と平和と和解をもたらすためにこの世に遣わされ、愚かなわたしどものために十字架刑となった地において、多くの無辜の命が強大な軍事力によって弄ばれるように奪われています。『わたしたちの神なる主よ あなた以外の支配者が我らを支配しています』。それは同時に、わたしどものうちにある愚かさでもあります。
 しかしわたしどもは、何度でも主イエスに立ち帰り「あなたの御名だけを唱えます」。そしてどうか「平和をわたしたちにお授けください」と悔い改めと共に深く祈り求め、ここに平和メッセージを宣言します。」

そして、〈パレスチナにおける紛争について〉、〈日韓の歴史について〉、〈アジアの平和について〉、〈原発依存からの脱却について〉という4つの段落の文章が続きます。どれも大切なメッセージですが、二つほど選んで紹介します。

(3)パレスチナにおける紛争

まずは、最初の〈パレスチナにおける紛争について〉です。

「近代以降、植民地主義と資本主義による支配の根源が凝縮されたパレスチナにおいて、剥き出しの恐怖と残虐さが生々しく日々、私どもの前に、マスメディア、ソーシャルネットワーク等を通じて激しく突き出されています。こうしている今も、イスラエル軍は西側諸国の物理的心理的援護を背景に、罪なきパレスチナ人を殺戮し、ガザ地区の人びとは昼夜問わず恐怖に包まれ、地獄を生きているのです。かつてホロコーストの地獄で命を奪われたユダヤ人、被差別民、障がい者たちの魂、同時に今、世界中の抑圧された人びとの魂もまた、おぞましいジェノサイドの中で、再び容赦なく踏み潰されています。
 それでも同じ時にまた、世界中で、この紛争を終わらせようと多くの人びとが声を上げ、世界中のユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の人びともまた傷ついたパレスチナの人びとのために祈りを共にしています。わたしどもも、パレスチナに一刻も早く真の平和がもたらされるよう祈ります。」

イスラエル軍のパレスチナ、ガザ地区への攻撃で、特に心が痛むのは、このメッセージの前文にもあるように、その場所が「主イエスが、愛と平和と和解をもたらすためにこの世に遣わされ、」「十字架刑となった地」であるということです。イスラエル国家は、過去のホロコーストの地獄を二度と経験しないために戦っている、という大義名分(自衛権)を語りますが、逆に、そこで命を奪われたユダヤ人たちの魂を踏みにじっているのだと思います。

ハマスのハニヤ最高指導者がイランのテヘランにて、7月31日に殺されましたが、それにより、緊張が中東全体に広がっています。この事件の背景には米国を紛争に引きずり込みたいというイスラエル首相の思惑もあるのかもしれません。世界全体は、国連などを通じて、なんとかそうならないように国際世論を高めている必要があるでしょう。

(4)アジアの平和

二つ目は、〈アジアの平和について〉です。

「2023年度の向こう5年間の日本の防衛費は43兆円という空前の金額となりました。2022年にイギリス、イタリアと戦闘機開発を合意した結果、2024年3月には遂に第三国へ最新型戦闘機を輸出することを国会審議もせずに決定していまいました。日本は他国から眺めれば巨大な軍事国家を目指し、国際社会における平和の秩序を保つことを放棄するのではという懸念を、かつて日本が侵略した地域の人びとにもたらします。
 また、台湾有事を見据えた中国への牽制としての米国軍事同盟の強化は、朝鮮半島と南西諸島を戦闘地域と想定しています。とりわけ沖縄では、2016年以降、米軍基地のみならず自衛隊基地の増強と新たな基地設置が続いており、そこに暮らす人びとの未来を脅かし、平和を遠ざけています。軍事で平和は守れません。わたしどもは繰り返し、何度でも訴え続けます。そして、日韓の市民とアジアの人びとと共に歩みます。」

今、極東アジアは、ロシアと北朝鮮が接近し、ロシアと中国が接近しています。それに対し、日本は韓国、アメリカとの軍事協力をより緊密にし、台湾とも近づいて、緊張が高まっています。そうした中、軍事力によっては、平和はもたらされないという信仰を新たにしたいと思うのです。

(5)日韓の歴史、原発依存からの脱却

〈日韓の歴史について〉も、このメッセージが日本国内の在日大韓教会との共同宣言であるがゆえにこそ、訴えていかない内容が含まれています。ヘイト・クライムは、アメリカの大統領選挙を巡っても大きく取り上げられていますが、私たちは日本国内のヘイト・クライム、民族差別に目を向けていかなければならないでしょう。

〈原発依存からの脱却について〉も、私たちは川内原発の地元にいることを忘れないようにしなければなりません。折しも8月2日には、日本原子力発電(原電)の敦賀原発2号機(福井県敦賀市)が、原子力規制委員会の安全審査で初めて不許可の方針が示されたことが報道されていました。私たちは、日本国内のどこにも、原発設置できる場所はないということ、核廃棄物の処理について最終解決方法はないのだということを踏まえ、未来の世代に大きな負担を残さないような歩みをしていかなければならないと思います。

(6)フランシスコの「平和の祈り」

鹿児島では、2016年以降、毎年8月6日に、「平和の巡礼」という行事が行われてきました。コロナ禍では少し縮小になりましたが、恐らく今年も行われるのではないでしょうか。宗教を超えて、それこそ、鹿児島ユネスコ協会もかかわって行われている行事です。ザビエル教会に集合し、その後、西本願寺、輝国神社へと、「原爆の火」を掲げて、平和の行進をします。最初に、ザビエル教会では、アシジの聖フランシスコに由来があるとされている「平和を願う祈り」をみんなで唱えてから出発するのです。

いろんな翻訳がありますが、この「平和の巡礼」の時に配布されたものをコピーして、最初に歌った「キリストの平和」の裏面に印刷をしましたので、どうぞご覧ください。配布したプリントでは、こういう言葉になっています。よかったら、皆さんも声に出してご唱和しましょう。

平和を願う祈り

神よ、
わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。

神よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを
理解されるよりも、理解することを
愛されるよりも、愛することを
望ませてください。
自分を捨てて初めて自分を見いだし、
ゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、
永遠のいのちによみがえることを深く悟らせてください。

(7)「平和の祈り」の内容

この祈りについて、ウィキペディアに記されていることを参考にして、少しお話しておきましょう。

フランシスコの平和の祈りは、13世紀にイタリア半島で活動したフランシスコ会の創設者、アッシジのフランチェスコ(聖フランシスコ)に由来するとされた祈祷文です。実際にはフランシスコの作ではありませんが、そのように信じられて愛唱されてきました。マザー・テレサやヨハネ・パウロ2世、マーガレット・サッチャーなど著名な宗教家や政治家が演説の中で引用や朗誦を行ったり、公共の場で聴衆と共に唱和したりして有名になりました。

この祈祷文がアッシジのフランシスコの作で無いことは、19世紀以前に遡る資料が発見されていない(何もない)ことに加えて、フランシスコが使わなかった言葉遣いが見られること、「私を平和の道具にしてください」のような自分と社会との関わりを願う近代的な内容からもほぼ確実であるとされている。ただし形式的には古風な形がとられています。

この祈祷文は3つの部分に分かれています。

最初の部分は、8組の対比になっています。「憎しみ/愛」「いさかい/ゆるし」「分裂/一致」「迷い(疑い)/信仰」「誤り/真理」「絶望/希望」「悲しみ/喜び」「闇/光」という8組の対比です。こうした対照法は中世の祈祷文によく見られるものであったそうです。

2番目の部分は「慰められる/慰める」「理解される/理解する」「愛される/愛する」という3組の受動態と能動態の対照が使われています。これは、聖フランシスコと行動を共にしたエジディオにちなむ『兄弟エジディオのことば』に類似例があるそうです。

3番目は「自分を捨てて初めて自分を見いだし」「ゆるしてこそゆるされ」「死ぬことによってのみ永遠のいのちによみがえる」という3組の逆説で構成されています。この3つは福音書のイエス・キリストの言葉にさかのぼることができます。

「平和の祈り」の別のヴァージョンでは、3組の逆説のところに、「忘れられることで人は見出し」という4つ目の逆説があるものもあるのですが、「聖書に基づいてた言葉ではない」ということで、伝えられるうちに省略されていったのかもしれません。

すてきな言葉であり、しかもキリスト教に基づいていながら、キリスト教ということを前面に出さないで、それを超えたすべての人が心をあわせて祈ることのできる祈りですので、皆さんもぜひ愛唱してください。

この祈りの言葉を歌にした賛美歌もいろいろあります。私は、高田三郎というカトリックの作曲家が作った歌が好きなのですが、とてもすてきな歌になっています。それはもともと日本語の歌詞に基づいて作られた歌だからでもあるのでしょう。ただし今日はこの後、『讃美歌21』に499番として収められているもので、ご一緒に歌うことにしています。これは翻訳賛美歌ですが、これもすてきな賛美歌ですので、心を合わせて歌いたいと思います。

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