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2024年8月25日説教「この方に聞かれている」日本バプテスト連盟 福岡西部バプテスト教会 麦野達一牧師

コリントの信徒への手紙二1:20

皆様おはようございます。私は福岡県糸島市にあります、日本バプテスト連盟福岡西部バプテスト教会から参りました、麦野達一と申します。初めての方も多くおられると思いますが、私がこの鹿児島加治屋町教会で説教をさせていただくのは、今回が2回目です。1回目は2016年でしたので、8年前です。その時も松本先生からお誘いをいただきまして、御用を務めさせていただきました。今私が住んでおります糸島市は福岡市の西に隣接する人口10万人ほどの街ですが、数年前世界第3位になりました。イギリスの旅行雑誌が行った企画で、人口25万人以下の小都市の魅力度ランキングで3位に入ったのです。豊かな自然と美味しい食文化、そして都市へのアクセスの良さが評価されました。それまでも糸島は観光スポットとして注目されていましたが、そのランキングでさらに注目され、多くの観光客が訪れる街となりました。ぜひ皆様にもお訪ねいただければと思います。

5年前から私が牧会しております福岡西部バプテスト教会ですが、この教会は1999年に日本バプテスト連盟の全国支援拠点開拓伝道所としてスタートした教会で、3つの教会を母教会にし、その歩みを始めました。伝道所開設当時、神学生だった私は、その福岡西部伝道所にて1年間奉仕をさせていただいたのですが、それから20年近くたって招聘を受けることとなりました。神様は不思議なことをなさいます。今年25周年を迎え、6月30日には100名以上の方に集まっていただき、記念感謝礼拝を行いました。そのメインになったのは、私の妻が作詞作曲しました「西部音頭」です。教会の歴史と歩み、今後目指すところを歌詞にし、日本で育った方なら誰でも楽しめる音頭のメロディーがつけられました。教会のホームページから動画をご覧いただけますので、ぜひチェックしていただけたらと思います。

私は伊集院教会から糸島の教会に赴任して6年目になるのですが、神様は毎年のように新しいチャレンジをくださいます。全く同じ年というのは一度もありません。2019年度はなんと言ってもコロナです。初年度の終盤からはコロナ感染拡大があり、その後4年間、対策を迫られました。しかし2020年度には、西南学院大学で教会音楽を教えるという機会を与えられます。初年度は、ほとんどオンラインでしたが、学生たちと向き合うチャンスをいただきました。そしてその年の秋から私たち夫婦は里親になる講習を受け始めました。そして2022年1月より2人の姉弟を我が家に迎え、里親をしています。間も無く二人が来て3年になります。実子を3人育てましたので、子育てに関して自信はないまでも不安もありませんでした。しかし里子たちの子育ては、実子とは全く違い戸惑いの連続です。まあ毎日色々ありますので、笑ったり怒ったり、泣いたりと賑やかな日々を過ごしています。どんな日々なのか、気になる方は個人的にお話ししますので、ぜひお声かけください。

50代も半ばになる私が「里親をしています」と言いますと、大抵の方は「すごいですね!」とかなり驚かれます。特に大したことはしていないのですが、里親になる、ということはいまだに多くの人にとって特別なことなのだなと思わされます。現在日本には様々な事情で、親元で暮らすことのできない社会的養護を必要とする子どもたちが約4万人いるのですが、そのなかで、里親家庭で暮らしているのはわずかに20%なのです。それ以外の子は施設で生活をしています。もちろん施設が一概に悪いとは言えませんが、やはり1つの家庭でずっと同じ人と生活をする、ということが子どもの愛着形成にとって、そして将来の家庭のモデルを体験することとしてとても重要です。

松本先生の前任者であられた飯田先生も里親をされていましたから、加治屋町教会の皆様には馴染みがあると思います。これはよく聞かれるのですが、「なぜ里親をしているのですか?」ということがあります。一人でも多くの子どもを救いたい、みたいな崇高な理念があってしているか、と言われるとそんな大袈裟なことではありません。ただ単に、三人の実子の子育てが私たち夫婦にとって楽しかったからです。大変なことはもちろんありましたが、その中でたくさんの恵みを経験したからです。また教会、幼稚園や施設などでさまざまな子どもたちとの出会いと触れ合いがあり、自分たちは子どもが好きであることを再確認しました。そして世のキリスト者たちはいろいろな形で神様に仕えていますが、私たちのそれは子どもに関わることであり、それが神様から託された使命であると信じているからです。皆さんもぜひ里親をすること、考えてみてください。神様の導きをお祈りします。今日はその子どもたちも一緒に礼拝に参加しています。恵みを感謝いたします。

今日はコリントの信徒への手紙第二の1章を取り上げます。中心聖句は先ほど読んでいただいた20節なのですが、1章の前半が大変素晴らしいのです。少し長いのですが、3節から11節を読みたいと思います。最初の手紙ではコリント教会の乱れた様子を厳しく批判したパウロですが、2つ目の手紙では一転して愛情あふれる表現に変わっています。挨拶と平和の祈りに続いてこのように語りかけます。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが私たちに満ち溢れているように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。また、私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであり、この慰めは、私たちの苦しみと同じ苦しみに耐える力となるのです。私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。きょうだいたち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。あなたがたも祈りによって、私たちに協力してください。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が私たちのために感謝を献げるようになるためです。」コリント二1:3~11

パウロはここで自分が味わった苦難を取り上げつつ、どんな苦難があったとしても神の慰めがある、ということを語ります。彼は死の宣告を受けるほどの苦難を味わったのです。並大抵の経験ではありません。生死を彷徨うほどの危機的な状況を経験してきました。普通であれば人が絶望してしまうような状況です。もう終わりだと諦めてしまいかねないような状況。そしてヤケになって自暴自棄な生き方になってしまう。大方の人はそうなってしまうでしょう。しかしパウロはそうではなかった。その宣告を受けるような苦しみを味わったからこそ「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするように」なった、と言うのです。パウロがこのように思えた根拠は、神による死者の復活です。具体的にはキリストの復活です。パウロは神による最大の救いがすでにあることを知っていた。だから今後どんな苦難があったとしても救われる、いやすでに救われているから大丈夫!そんな確信を持っていたのです。

そしてパウロのすごいところは、自己完結しないことです。例えば「神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(4節)苦難の中にある自分がただ慰められるだけでなくて、その慰めにはその先があり、それは他者の慰めにつながっていく。自分がそのために用いられる、ということです。それは6節の「私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。また、私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであり、この慰めは、私たちの苦しみと同じ苦しみに耐える力となるのです。」にも通じています。パウロの信仰では、苦難も慰めも自分だけで終わらせるのはなく、他者との繋がりの中にも広がっていくのです。それゆえにパウロはコリント教会の人々が苦しみと共に慰めも共有してくれている、と確信するのです。

昨年度福岡西部教会は「イエスの愛を共に」というテーマを掲げ、年度の前半は様々なイエスの愛の形と、共に生きるとはどういうことかを学びました。その中で「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)から、私たち教会は喜ぶことも泣くこともひとりぼっちでなく、共にするのだ、ということを学んできました。そしてその教会は共に福音に仕えることを目標とし、その実践として交わりを大事にするのだ、ということを確認してきました。そしてそのような教会の歩みに欠かせないのが祈りです。私たちは祈りながら日々を歩みます。個人の生活もそうですし、教会の生活もそうです。パウロもコリント教会に呼びかけます。「あなたがたも祈りによって、私たちに協力してください。」教会の働きは祈りによって支えられ、その先には守ってくださる神への感謝があります。

そして今日の中心聖句です。19節から読みます。

「私たち、つまり、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。」コリント二1:19~20

キリストにおいて「然り」だけが実現した、とは、イエス・キリストにおいて神の御心が完全に実現した、ということです。それ故に私たちはイエス・キリストを通して、アーメンを唱えるのです。罪人である私たちはキリストによって神との和解をいただきました。キリストが私たちと神を繋いでくださいます。ですので、私たちは祈りの最後にこう言います。「この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。」私たちはキリストの名を通して神に祈るのです。そして祈りの最後に「アーメン」を唱えます。これは、主の祈りも同じです。「国も力も栄も汝のものなればなり」の頌栄に続いて「アーメン」で祈りを締めくくります。

この「アーメン」は「確かに・本当に」を意味するヘブライ語です。教会用語の中でもハレルヤと並ぶ、世間的には最もよく知られている言葉でしょう。私たちは祈りの最後に、讃美歌の最後に「アーメン」と唱え、歌います。この言葉は、元々はある人が語った言葉に対する応答として言われたものです。ソロモンがイスラエルの王に即位する時、ダビデの命令に対して家臣はこう答えます。「御意のままに。王様の神、主もそのようにおっしゃるでしょう。」(列王記上1:36)この「御意」が「アーメン」です。ダビデ王の提案に対して家臣が賛同している様子が伝わります。またイスラエルの人々の儀式でも会衆が唱えます。約束の地に入るためにヨルダン川を渡ろうとする会衆にこのように呼びかけよとモーセはレビ人に伝えます。「「職人の手の業である、主の忌み嫌われる彫像と鋳像を造り、ひそかに安置する者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言いなさい。」(申命記27:15)その他にも、父と母を蔑ろにするもの、隣人の地境を移すもの、盲人を道で迷わせるもの、寄留者、孤児、寡婦の権利を犯すものは呪われる、ことに対して民は「アーメン」と応えるように求められます。また5つに分かれている詩編の区切りは「イスラエルの神、主をたたえよ/いにしえからとこしえまで。/アーメン、アーメン。」(詩編41:14)と「アーメン」で締めくくられています。

新約聖書においても、キリストの約束や祈りへの応答として「アーメン」と応える応答が中心になっているのですが、ただ一人、アーメンを受け身でなく能動的に用いる人物がいます。それが他ならぬイエス・キリストです。イエスがこのように言うのを聞いたことがありませんか?「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。」(マタイ5:18)山上の説教でイエスが何かを強調するとき、特に神の御心を示し、宣言するとき「よく言っておく」という言い方をします。岩波訳の同じ箇所はこう訳しています。「アーメン、私はあなたたちに言う。天と地が過ぎゆくまでは、律法から一点一画も過ぎゆくことは決してない。全てのことが成るまでは。」この「よく言っておく」は原語では「アーメン」なのです。イエスは神の心を宣言する際に、まず「アーメン」と述べ、神の御心を肯定します。私たちの信仰生活の中でのアーメンは祈りや賛美、神の言葉への応答が中心ですが、詰まるところそれは先にアーメンと宣言してくださる主イエスのアーメンに対する、また、アーメンに共なるアーメンなのです。

16世紀にドイツで信徒訓練のために作成されたハイデルベルグ信仰問答の一番最後の問答にはこうあります。

問129「アーメンという言葉は何を意味しますか」
答え「アーメンとは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、私が心の中で感じているよりもはるかに確実に、私の祈りはこの方に聞かれているからです。」

ここで心に響くのは祈りとは、私たちが心で感じていることより、神によって聞かれているという確かさがあるのだ、ということです。祈りというものはここに集約されるのではないでしょうか。祈っても祈っても実感が湧かない事があります。祈っても今一ピンとこない。本当に神様は聞いていてくださるのだろうか?半信半疑になる事がないでしょうか?信仰問答はそんな私たちに言うのです。祈りというのは祈っている人間の満足感や充実感が大事なのではない。それを超えて聞いてくださる神がおられる、ということこそ大事なのだ。

今年の3月に伊集院高校時代の同級生が2人糸島を訪ねてくれて、 20数年ぶりの同窓会をしました。食事をしながらたくさんのことを話しましたが、神奈川で会社の社長をしている友人がこう聞いてきたのです。「君は牧師として人を導く立場にあるわけだけど、そうすることへの葛藤はないの?」彼も社長として普段から多くの人に関わり、社員の生活を守るものとして葛藤があるのでしょう。それを教会のリーダーである牧師はどうなのかと聞いてきました。少し考えて私は「葛藤はないよ」と答えました。続けてこう話しました。「自分は教会のリーダーであるけど、自分で全てをできるわけでもないし、ましてや人を導く事ができるとも思っていない。むしろ神様が導いてくださると信じている。だから牧師としては、神を求める人々に寄り添って、一緒に祈ることを大事にしている。」

イエスを救い主と信じるクリスチャンは、自分の感覚や感情よりも、神の存在を優先します。神の愛と心が最高であると信じているからです。時には祈っていても答えが与えられず虚しく感じることもあるでしょう。平和を求めても求めても聞かれない現実がある。でもみなさん、祈りをやめないでください。祈り続けてください。神は必ず答えてくださるのです。その最高の答えが復活です。キリストが復活し、私たちに新しい生き方を与えてくださった。私たちにも復活をくださいました。暗闇が覆っているような現実の中だからこそ、復活の主に信頼しつつ、確信を持って「アーメン!」と唱えましょう。

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