2024年7月7日説教「まっすぐな道のり」松本敏之牧師
箴言4章10~27節 ヘブライ人への手紙12章11~13節
(1)聖書日課、エレミヤ書から箴言へ
鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、今、預言書を読み進めています。預言書も6月19日にエレミヤ書を終えて、その直後の哀歌も6月25日で終えました。哀歌は、預言者エレミヤによって書かれたとされてきましたので、エレミヤ書のすぐ後ろに置かれています。ただ最近の研究では、これはエレミヤの時代状況を反映してはいますが、エレミヤ自身によって書かれたものではないとされています。内容的にも預言書ではなく、文学に属するものです。私たちは旧約聖書を前から順に読んで、一書を終えるごとに詩編を10編ずつ挟んできましたが、その詩編も最後の150編まで来ました。ここから先は、預言書を読みながら、一書を終えると、箴言を10章ずつ挟んでいきます。直近で言いますと、6月26日から箴言第1章を始めて、昨日7月6日で箴言10章まで来ました。
明日からエゼキエル書に入っていきます。
(2)箴言は、格言集のようなもの
本日は、箴言について概説的なお話をし、またその中から味わい深い言葉を拾っていきたいと思います。
箴言は、ヨブ記、コヘレトの言葉などと共に「知恵文学」に属します。古代イスラエルにおける知恵は、第一に、人間がこの世界の中で賢く生きていくために必要な生活技術や生活能力を意味しました。私たちは、実生活の中で、さまざまな問題や困難に遭遇します。その問題や困難を巧みに解決・処理し、時と場合に応じて適切に行動する能力、これが「知恵」です。「知恵」は世界の法則と秩序を探求する、人間知性の営みです。
「箴言」と訳された原語は、格言集という意味です。この世で人生の荒波をどう乗り切るか、その具体的な処方を教えてくれるのが「知恵の書」です。
箴言は、最初の表題に続いて、こういう言葉で始まります。
「これは知恵と諭しを知り 分別ある言葉を見極めるため。 見識ある諭しと 正義と公正と公平を受け入れるため。 思慮なき者に熟慮を 若者に知識と慎みを与えるため。 知恵ある人は聞いて判断力を増し 分別ある人は導きを得る。 箴言と風刺を 知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。」箴言1:2~6
しかし、そのような知恵によってすべてが解決するわけではありません。人間の知恵には限界があります。知恵の限界性を謙虚に認めて、神の前にひれ伏し、礼拝をする。そのように神を畏れることこそが知恵の初めだと、箴言は教えるのです。それゆえ、この序文の結びとして、このように述べられるのです。
「主を畏れることは知識の初め。 無知な者は知恵も諭しも侮る」箴言1:7
これらの言葉が、箴言の序文であり、聖書の全体の序文とも言える言葉です。
「主を畏れることは知識の初め。」新共同訳では「主を畏れることは知恵の初め」と訳されていました。箴言の1章1節には「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」という表題があります。また10章1節にも、25章1節にも「ソロモンの箴言」と書かれていますので、箴言はソロモンの作として受け取られてきました。しかし箴言の格言がすべてソロモン王の作であるわけではありません。旧約聖書の知恵の象徴であるソロモンの名の権威によって、この書物が書かれました。詩編と同様、箴言も長い年月の編纂の時を経て、バビロン捕囚後に成立したと考えられます。
(3)箴言の全体構成
箴言の内容は多岐多様にわたっていて、ある物語があるわけでもないので、ヴェスターマンという人も『聖書の基礎知識』という書物の「箴言」の解説の冒頭で、「『箴言』の内容を明らかにするような手引きすることは不可能に近い」と述べ、箴言の知恵の主要形態と基本主題について述べています。
全体の構成は、第1章から9章までが第一部で「知恵の詩」と呼ぶことができるでしょう。ここでは「知恵」が人格化されています。しかも女性です。人々に公然と呼びかける女性としての知恵と共に、密かに男を誘惑する悪女(愚かな女)も登場します。具体的には、あとで少し紹介します。
第二部は10章から31章であり、本来の格言集です。第一部を「知恵の詩」と呼ぶならば、こちらの第二部は「知恵の格言」と呼ぶことができるでしょう。この格言集は、さらに二つの基本集成(文集のようなもの)から成り立っていて、10章から22章が「ソロモンの箴言」、25章から29章が「ヒゼキヤ(王様の名前)に属する人々の箴言」です。この二つの基本集成に、それぞれ一連の付録が付けられています(22章17節~24章34節と30章1節~31章31節)。
(4)愚かな女・悪女
さて全体の説明をしていただけでは、わかりにくいでしょうから、実際に聖書を開いてみましょう。
先ほど、密かに男を誘惑する悪女(愚かな女)も登場する、と申し上げました。
たとえば、9章13節以下に、聖書協会共同訳などで「愚かな女」と題された部分があります。
「愚かな女は騒々しい。 未熟で、何も知らない。 家の扉のところに座り 街の高きところに席を取り 道行く人に呼びかける。 自分の進路をまっすぐ進む人に。 思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。」箴言9:13~15
これは実際にそういう悪い女、誘惑する女がいる、というのではなくて、浅はかな教えに身を任せていると、身の破滅を招くぞ、だから気を付けろということを言おうとしているのです。
(5)「知恵」は女性形
まず先ほど前半は「知恵の詩」と申し上げましたが、ここでは「知恵」は女性形であり、女性として人格化されて語りかけてきます。先ほどの序文に続く部分は、「父の諭し」と題が付いていて、こう始まります。
「子よ、父の諭しを聞け。 母の教えをおろそかにするな。 それはあなたの頭(こうべ)の麗しい花冠(はなかんむり)。 あなたの首の飾り。」箴言1:8~9
そして具体的な教えが始まるのです。聖書協会共同訳聖書をめくってみると(新共同訳でもほぼ同じですが)、「父の諭し(一)」の後に「知恵の勧め(一)」というのが続きます。2章に入って「父の諭し(二)」、3章では「父の諭し(三)」「知恵の勧め(二)」「父の諭し(四)」と続きます。4章は「父の諭し(五)、5章は「父の諭し(六)」、6章は「父の諭し(七)」、「格言集」(一)」「父の諭し(八)」、7章は「父の諭し(九)」、8章は「知恵の勧め(三)」、9章で「知恵の勧め(四)」、「格言集(二)」、そして最後に「愚かな女」という題の部分があります。
(6)含蓄のある箴言第4章
具体的に見ていきましょう。今日は、聖書朗読では4章の一部を読んでいただきました。 先ほどは読みませんでしたが、6節以下を見てください。
「知恵を捨てるな、それはあなたを守る。
分別を愛せ、それはあなたを見守る」とありますが、ここで「分別」と訳されているところが、原文では「彼女を愛せ、彼女はあなたを守る」となっています。 8節は「知恵を尊べ、それはあなたを高める。知恵を抱けば、それはあなたを重んじる」とありますが、二つ目の「知恵」が「彼女」という言葉なのです。 「知恵を尊べ、それはあなたを守る。彼女を抱けば、それはあなたを重んじる。彼女はあなたの頭に麗しい花冠を与え、誉れある冠を贈る」となります。
さて、今日4章の言葉を読んでいただいたのは、内容的にも魅力ある、そして含蓄のある言葉が多く含まれていると思ったからです。10節以下をもう一度見ていきましょう。
「子よ、聞け、私の言葉を受け入れよ。 それはあなたの命の歳月を増す。 私はあなたの知恵の道を教え まっすぐな道のりを示した。」箴言4:10~11
神の言葉は私たちに「まっすぐな道のり」を教えてくれるのです。こう続きます。
「進み行くとき、あなたの歩みを妨げるものはなく 走ってもよろめくことはない。 諭しを捕えて放さず、それに従え。 それはあなたの命だ。」箴言4:12~13
「知恵」をしっかりと保ち、そこで教えられた「まっすぐな道のり」を歩むとき、前方に妨げるものはなく、走ってもよろめかないというのです。
「悪しき者の道筋を進むな。 邪悪な者の道を歩むな。 それには目もくれず、そこを通るな。 そこからそれて、通り過ぎよ。」箴言4:14~15
そして悪しき者の具体的な姿が描き出されます。
「彼らは悪事を働かずには床には就かず 誰かをよろめかさずには眠らない。 悪しき者のパンを食べ 暴虐の酒を飲む。」箴言4:16~17
そしてそれと対比して「正しき者」の姿が描かれます。
「正しき者の行く末は輝き出る光のようだ。 進むほどに光を増し、真昼の輝きとなる。」箴言4:18
いいですね。まさにその通りです。それに対して「悪しき者」の姿はこうです。
「悪しき者の道は闇のようだ。 何につまずくのかしることさえできない。」箴言4:19
つまずいてはいるのだけれども、何につまずいているのかさえ、もうわからないというのです。
(7)自分の心を守れ(保て)
さらにそれに続く言葉も含蓄があります。
「子よ、私の言葉に想いを向けよ。 私の語りかけに耳を傾けよ。 目から離すことなく 心の内に守れ。 探し出す者にとって、それは命。 心身を健やかにする。 守るべきものすべてにも増して あなたの心を保て。 命はそこから来る。」箴言4:20~23
「守るべきものすべてにも増して/あなたの心を保て。命はそこから来る」 大事なことですね。新共同訳聖書では 「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」となっていました。
心がくずおれそうになるとき、この言葉を思い起こします。大事なこと、しなければならないことがたくさんあって押しつぶされそうになります。そういうときは、それらすべてを投げ出してよいと思うのです。何よりもまず「自分の心」を守らなければならない。そこからしかすべてを立て直すことはできません。そして自分の心の守り方ですけれども、自分ひとりで閉じこもっていてもどうにもなりませんので、神様と向き合って、信仰を保つことが大事であると思います。
さらにこう続きます。
「ねじ曲がった言葉をあなたの口から退け ゆがんだ言葉を唇から遠ざけよ。 目は正面を見据え まなざしを前にまっすぐに向けよ。」箴言4:24~25
これも「まっすぐな道のり」に通じるものでしょう。
(8)右にも左にも偏るな
最後に興味深い言葉が語られます。
「あなたの道のりに気を配れ。 あなたの歩みは確かなものとなる。 右にも左にも偏ることなく 足を悪から遠ざけよ。」(箴言4:26~27
「右にも左にも偏ることなく」というのは興味深いです。聖書の当時でいう「右」と「左」というのは、今日で言う政治的な右と左と同じような意味合いがあるのでしょうか。象徴的な意味があるのは確かでしょう。申命記5章32節にもこういう言葉があります。
「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。」申命記5:32
今日的意味で言えば、右が保守で、左が改革となるのかもしれません。当時の支配者の都合のいいように、という形態が右であるならば、神様は弱い人たちの味方、特に孤児、寡婦、外国人を大事にしなさい、と言われました。そういう意味では神様はやや左よりなのかなとも思います。でもそこで真実が曲げられてはならない。社会全体が右に偏っているから、そこで軌道修正するために、神様はやや左寄りにして道をまっすぐにしてくださるのだと思います。私などもどちらかに偏り過ぎないように注意しなければならないと自戒の念を込めて思います。
(9)鍛錬が道を整えてくれる。
今日は、新約聖書はヘブライ人への手紙12章11節以下をお読みいただきました。13節に、こういう言葉があります。
「また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を踏み外すことなく、むしろ癒されるためです。」ヘブライ12:13
まっすぐな道を歩むことは必ずしも容易なことではありません。自然な歩みをしているつもりが世間の風潮にあわせて右にそれたり左にそれたりしてしまいます。それを意識的にまっすぐにすることは「鍛錬」のようなものかもしれません。それは当座は喜ばしいものと思われなくとも、それがまっすぐな道を造るために、私たちを整えてくれるのだと思います。