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2024年7月28日説教「命のパン」松本敏之牧師

 

列王記上17:8~16節 ヨハネ福音書6章30~51節

(1)見ることと信じること

先ほど読んでいただいた、ヨハネ福音書6章30節から51節は、先週と本日の両方にまたがった日本基督教団の聖書箇所です。7月14日には、ヨハネ福音書6章16~29節に基づいて説教をしましたが、その続きです。

このヨハネ福音書第6章は、全体が一続きの話になっており、途中で切ることはできないものです。最初に、男だけでも5千人の人にパンを与える奇跡が記され(1~15節)、その後はイエス・キリストが水の上を歩かれたという奇跡(16~21節)でありました。先ほど読んでいただいたところは、22節から始まっている段落の真ん中あたりですが、切れ目なくずっと続いているところです。そしてこの後も、まだ続いています。

前回(7月14日)の箇所の終わりの6章29節で、主イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と語られましたが、これは、言い換えれば、「私を信じなさい。それが神の業だ」ということになるでしょう。

それに対して、群集は「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)と問いかけます。さらに「私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(31節)と言うのです。彼らはすでに5千人の人々にパンが与えられるという大きな奇跡を経験しているにもかかわらず、本当の信仰にはいたっていなかったということがわかります。「もっとすごいことを見せてください」「もっと確かな証拠が欲しい」と、イエス・キリストに迫ったのです。

26節のところで、すでに主イエスは「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言っておられました。つまりどんなに大きな奇跡を経験していても、それがイエス・キリストが「神から遣わされた者」であることを読み取るしるしになるとは限らないということです。「見ることと見抜くことは違う」、あるいは「見ることと見分けることは違う」ということです。見てはいても見抜くことができない。あるいは見分けることができない。イエス・キリストは、別のところで、イザヤの言葉を引いて「あなたがたは聞くには聞くが決して悟らず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:14、イザヤ6:5参照)とも言われました。見ていても、そこにどういう意味があるか悟らなければ、それはしるしにはならないということです。

(2)出来事に遭遇した時に

これは今日の私たちにもあてはまることではないでしょうか。私たちも、時々不思議な出来事に遭遇します。その時に、同じ経験をしていても、ある人はそれを単なる偶然と見ますし、ある人はそこに何らかの神様の働きを見ます。よい出来事があった時に、ある人はそれを単にラッキーと喜ぶだけですが、ある人はそこに神様の恵みを覚えて感謝をします。

逆に悪いことが起こった時にも、それをただ不運と見るのか、あるいはそこに神様の何かしらの警告を見るのか。「神も仏もあるものか」と思うか、あるいは「どうして神様はこのようなことをなさるのか」と深く考えるか。そこに違いが出てくるのではないでしょうか。私たちは何かを見る時、あるいは不思議なことに遭遇する時に、そこに秘められた意味を悟りたいと思うのです。悟ることができなくても、それを心に留め、信じることへと一歩進み行くことが求められているのだと思います。

見ることと信じることの関係から言えば、ヨハネ福音書は復活のイエスがトマスに、こう言われました。

「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネ20:29

これは何かを見て信じる信仰を否定しているように聞こえますが、そう受け取る必要もないと思います。しるしを見て信じる信仰から始まってもよいのです。しかしそこに留まらないで、見ないでも信じる信仰へと深められていく必要があるのだと思います。

さて群集の問いかけに対して、イエス・キリストはこう答えられました。

「よくよく言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。私の父が天からのまことのパンをお与えになる。」ヨハネ6:32

モーセはそれをいわば仲介した人間に過ぎない。本当にマンナを降らせた主体は天の神様だ。そしてそれは私の父なのだ」と言われたのです。

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」ヨハネ6:33

(3)エリヤとサレプタのやもめ

今日は、ヨハネ福音書にあわせて列王記上17章8節以下の言葉を読んでいただきました。これも、先週の聖書日課として、あわせて掲げられている箇所です。

「エリヤとサレプタのやもめ」という題が付けられています。ここは、預言者エリヤの物語の一部です。少し背景を説明しておきましょう。この当時のイスラエルの王は、アハブ王というのですが、イスラエルの神様ヤハウェから離れて、自分に都合のよいことを告げてくれるバアルの神の祭壇を築き、バアルの預言者、自分に悪いことを一切言わない「おかかえ預言者」に囲まれていました。そこに、神様は預言者エリヤを遣わすのです。そして、エリヤをしてアハブ王にこう言わせました。

「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」列王記17:1

アハブ王は、エリヤを捕えて殺そうとします。神様は、エリヤに「逃げよ」と告げるのです。

「ここを去って、東へ向かい、ヨルダンの東にあるケリトの渓谷に身を隠し、その渓谷の水を飲みなさい。私は烏に命じて、そこであなたを養わせる。」列王記上17:3

そしてその通り、神様はエリヤを烏の運ぶ食物で養われました。しかし干ばつはやがて、エリヤが身を寄せている、ケルト川の上流にまで及びます。そこで神様は、今度はエリヤに「シドンのサレプタという町にいる、ひとりのやもめをたずねなさい。そこに身を寄せなさい。そこであなたを養う」と言われました。エリヤは、そこで一人のやもめに出会います。エリヤは飲み水を求め、その後、パンを求めました。彼女は、、「パンなどありません。かめの中に一握りの小麦粉と、瓶に少しの油があるだけです。それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と、正直に答えました。エリヤは、「心配は要りません。」と言って、まず私に「パン菓子を作って持って来てください」と言います。彼女が、エリヤの言ったとおりにすると、不思議な奇跡が起こりました。毎日毎日、パンを焼いても、小麦粉はなくならず、瓶の中の油もなくなりませんでした。

この話は、いわばサレプタのやもめがエリヤを養い、また逆にエリヤがその女性と息子を養った物語です。しかしもっと深いところでは、神様がこの女性を通してエリヤを養い、神様がエリヤを通して、この親子を養ってくださったと言えるでしょう。それは、モーセがエジプト脱出したイスラエルの民を養ったのではなく、神様がマナを降らせてイスラエルの民を養ってくださったのだという、イエス・キリストの言葉に通じるものでしょう。

(4)私が命のパンである

さて主イエスは、天から降って来た食べ物、マナ、ということで、肉体的に養ってくれるマナに、霊的に人を養う天からの食べ物ということで、御自分を重ね合わせられます。

「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」ヨハネ6:33

これを聞いた群集は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と言いました。この言葉は、主の祈りの「私たちに日毎の糧を今日もお与えください」という祈りに通じるものがあるでしょう。ただし、ここでは彼らはあまり深く考えているのではなさそうです。「そんなありがたいパンがあるのならぜひ欲しい」くらいに思ったのでしょう。

ヨハネ福音書には、聞き手がイエス・キリストの言葉を表面的にのみ捉えて、とんちんかんな答えをする、いわば「とんちんかん問答」がたくさん出てくると、申し上げたことがあります。そうした問答を重ねていく中で、イエス・キリストはより深い事柄、隠された意味について述べられていくのです。ここでもそうです。彼らには実際に食べるパンのことしか頭にありませんが、主イエスはこう答えられました。

「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」ヨハネ6:35

「私が命のパンである。」これは今日、私たちに与えられた大きな御言葉であると思います。

(5)エゴー・エイミ

この「私は何々である」という表現は、「エゴー・エイミ」というギリシャ語ですが、ヨハネ福音書独特の大事な言葉です。「メシア的定式」とか「啓示の定式」とか言われます。英語では「Iam ~」という風になりますが、これは旧約聖書の出エジプト記に出てきた神の名ヤハウェ、「私はいる、という者である」(出エジプト3:14)に通じるものです。

ヨハネ福音書では、4章のサマリアの女との対話の中で、「あなたと話をしているこの私が、それである」(4:26)という言葉で、すでに一度「エゴー・エイミ」が出てきていましたが、今日の箇所では「命のパン」という述語を伴っております。ここから7回にわたってその定式が出てきます。

「私は世の光である。」ヨハネ8:12 「私は羊の門である。」ヨハネ10:7、9 「私は良い羊飼いである。」ヨハネ10:11、14 「私は復活であり、命である。」ヨハネ11:25 「私は道であり、真理であり、命である。」ヨハネ14:6 「私はまことのぶどうの木(である)。」ヨハネ15:1

この7つです。

イエス・キリストはそのようにしてご自分が誰であるかを示されました(自己啓示)。その一つ一つがイエス・キリストのさまざまな側面を言い表しています。それによって私たちはイエス・キリストが誰であるかを知るのです。そこには、そのイエス・キリストをこの世界に送られた天の神様の御心があるのは言うまでもありません。

(6)サマリアの女との対比

イエス・キリストは、今日の対話の中でも、一生懸命、父なる神様とご自分の関係を明らかにしようとされるのですが、なかなか伝わりません。「自分はその天の父から遣わされたのだ。私がここに来たのは自分の意志を行うためではなくて、その天の父の御心を行うためだ。」

しかしそのような熱意にもかかわらず、群衆の心はだんだんと離れていきます。イエス・キリストが「私は天から降ってきたパンである」と言われるのを聞いて、彼らはつぶやき始めました(41節)。私は彼らの態度は、4章で出てきた「サマリアの女」と非常に対比的であると思いました。あのサマリアの女も最初は、とんちんかんな答えをしていました。彼女の場合は水でありましたが、主イエスが「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(4:14)と言われると、彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)と言いました。この段階では、今日のパンの問答と同じように、彼女はまだ非常に表面的なレベルでしか理解しておりません。「そんなありがたい水があるなら、ぜひいただきたい」ということです。

ところが話をしているうちにだんだんと変わってくるのです。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」(4:19)。そして「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます」(4:25)と言うと、主イエスは、先ほどの言葉、「あなたと話しているこの私が、それである」(4:26)と語られたのでした。

最初はピントがずれているのですが、だんだんと焦点がぴたっとあっていきました。それがサマリアの女の場合でしたが、今日の箇所では、同じように始まりながら、逆にだんだんとイエス・キリストを拒否する方向へと行ってしまうのです。

不思議な出来事に出会う時に、それをただ表面的なレベルで見るか、あるいはその奥に込められた見抜くことができるか、そのところに違いが出てくるのです。

(7)世を生かす命のパン

主イエスは、「私が与えるパンとは、世を生かす私の肉のことである」(51節)、あるいは「私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32~33節)とも言われました。イエス・キリストこそ、この世界の命の源である。それによって、神様はこの世界を支えられる。この世界を表面的にだけ見るならば、そうしたことはわからないわけですが、聖書の言葉を通して、その意味を見分け、見抜いて、命の主であるキリストに、私たちはつながっているということを心に留めたいと思います。

イエス・キリストが語られた「与える」という言葉には、「わけ与える」という意味と同時に、「死に引き渡す」という意味が含まれています。イエス・キリストは、パンを分け与えるように、ご自分の命を与えられました。イエス・キリストの十字架の死、それこそが、このパンに込められたもう一つ奥深い意味なのです。

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