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2024年7月14日説教「主イエスを迎え入れる」松本敏之牧師

申命記6章3~9節
ヨハネ福音書6章16~29節

(1)人生は航海

先ほどお読みしたヨハネによる福音書6章16節以下は、本日の日本基督教団の聖書日課です。ガリラヤ湖を舟で横切ろうとしているところに、イエス・キリストが嵐の中、水の上を歩いて近づいてこられたという奇跡物語です。

私たちの人生はしばしば航海にたとえられます。人生という大海原を、舟に乗って旅をする。大嵐の連続のような人生を送られる方もあるでしょうし、比較的小さな嵐しか経験しない平穏な人生を歩まれる方もあるでしょう。しかし多かれ少なかれ、私たちは、いつか嵐に遭遇します。それは信仰をもっている者にとっても、もたない者にも等しく降りかかってくるものです。ただ、いざ嵐にあった時に、私たちがいかにそれを乗り切るか、そのところで信仰をもつ者ともたない者の差が出てくるのではないでしょうか。あるいは信仰をもっていると思っていても、そうした危機的な時に、その信仰がいかにもろいものであるかを知らされることもあるでしょう。そこで、その信仰が本物であるかどうかが試されるのかも知れません。

讃美歌にも嵐や航海を歌ったものがたくさんあります。先ほど歌った「ガリラヤの風かおる丘で」という讃美歌の2節では

「あらしの日、波たける湖(うみ)で
弟子たちをさとされた
ちからのみことばを
わたしにも聞かせてください」

と歌います。

また

「わが魂を愛するイエスよ。
波はさかまき、風吹き荒れて、
沈むばかりのわが身を守り、
天(あめ)の港に導きたまえ」
『讃美歌21』456

という讃美歌もあります。前のメロディーは、昔から愛唱されてきました。嵐の航海の中においても、イエス・キリストが先立って導いてくださる、守ってくださる。私たちも、今日のテキストを通じて、そのような信仰を新たにしたいと思うのです。

(2)ヨハネによる福音書と共観福音書

この箇所の直前には、イエス・キリストが少年の差し出した五つのパンと二匹の魚を用いて、5千人(以上)の人々に食べ物を与えられたという奇跡物語があります。先ほど申し上げましたように、その続きの今日の箇所も、「イエス・キリストが水の上をお歩きになった」という奇跡物語です。

この奇跡物語は、幾つかの相違点はあるのですが、マタイ福音書、マルコ福音書にも出てきます。聖書協会共同訳や新共同訳聖書では、「湖の上を歩く」というタイトルの下に、それぞれの並行箇所が記されています(マタイ14:22~27、マルコ6:45~52)。

実はこれは、ちょっと珍しいのです。例外的と言ってもよい位です。福音書は全部で四つありますが、そのうちのマタイ、マルコ、ルカの三つは比較的よく似ていて、同じ話もたくさんあります。マタイ、マルコ、ルカ、この三つを称して共観福音書と言います。マタイ、マルコ、ルカのところをパラパラっと見ていただくと、それぞれのタイトルの下に(マルコはどこ、ルカはどこ)という風に、他の福音書の並行箇所がたくさん記されているのがおわかりになるかと思います。それに比べますと、ヨハネ福音書の方は、ほとんどそれがないのにお気づきでしょうか。ヨハネ福音書は、他の三つの共観福音書とは全く違った視点で書かれているのです。

しかし6章最初の「5千人に食べ物を与える」というところには、マタイ、マルコ、ルカの並行箇所があり、今回の「湖の上を歩く」という箇所にもマタイとマルコの並行箇所が記されています。つまりこの二つの話は、珍しく共観福音書とヨハネ福音書の両方に出てくるのです。しかもこの例外的に共通している二つの奇跡物語は、どれも続きの話となっています。つまり(ルカを除く)どの福音書も、パンの奇跡の後に水上歩行の奇跡が出てくる。古くからこの二つの奇跡物語はセットにして伝えられてきたということがわかります。

(3)出エジプト物語との関連

どうしてこの二つの話がセットになっているのかということは、もちろん実際にこれが続きで起こったことからだと言えば、それまでですが、どうもその背景には、出エジプトの出来事があるのではないかと言われます。

出エジプト記には、神様が荒れ野で不思議な食べ物マナを降らせて、大勢のイスラエルの民を養ってくださったということが記されていますが、この5千人の人々を不思議な奇跡で養ってくださったという話はそれを思い起こさせるものであります。もう一つ、出エジプトの民が経験した大きな奇跡があります。それは、彼らがエジプトから逃げ、エジプト軍に追いかけられて、紅海の前に追い詰められた時のことでした。神様はモーセを用いて、紅海を真っ二つに分けて、その間を通らせてくださいました。イエス・キリストが水の上を歩かれたというのは、それに通じるものがあるというのです。

またそもそも5千人の食事の奇跡がなされた時は、ユダヤ人の祭りである過越祭の時でありましたが(6章4節参照)、過越祭というのは、神様がエジプトで奴隷であったイスラエルの民を、エジプトから連れ出してくださったことを記念し、感謝するお祭りであったということも頭に入れておいてよいことであろうと思います。

(4)水の上を歩くイエス

さてパンの奇跡の後、弟子たちはガリラヤ湖の湖畔へ下りていき、湖の向こう岸にあるカファルナウムの町へ行こうとして、舟に乗り込みます。イエス・キリストは、山に登って祈るために、一人別行動を取っておられました。時は夕方であり、既に暗くなっておりました。舟を出して、しばらく漕いで行きますと、突然強い風が吹いて、湖は荒れ始めました。

ガリラヤ湖の天気は変わりやすいと聞いています。青空でとても美しい日でも、突然嵐がやって来て、真っ暗になるということがしばしばあるようです。彼らは、25~30スタディオンほど沖へ行ったところでありました。1スタディオンというのは、後ろの度量衡の換算表によりますと、約185メートルだそうですので、約5キロメートルということになります。

そこへ突然、イエス・キリストがすっと現れます。舟に乗ってこられたわけでもなく、泳いでこられたわけでもない。水の上を不思議にも歩いてこられました。彼らはびっくりすると同時に、恐れを覚えました。ヨハネ福音書はこのあたり淡々と書いていますが、例えばマタイ福音書ですと、こうなっています。

「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」マタイ14:26

そこで主イエスは、「私だ。恐れることはない」と声をかけられました。彼らが、ほっとして、イエス・キリストを舟に迎えようとしたら、間もなく舟は目指す地に着いたということです。

マタイ福音書では、ここにもう一つ面白い話が続きます。主イエスだということがわかると、弟子のペトロが「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」とお願いするのです(マタイ14:28)。イエスが「来なさい」と言われると、ペトロは舟から恐る恐る足を出して、水の上をゆっくり歩き始めます。ところが自分が水の上だということに気づくと、急に恐ろしくなって溺れそうになります。そこへイエス・キリストが手を差し出して、ぎゅっとペトロを支えられ、助けられる、という話です。しかしヨハネ福音書はそのようなことは書かず、むしろ淡々と記しています。

(5)ひとり退くイエス

ヨハネ福音書とマタイ福音書を比べてみると、二つの奇跡のつなぎの部分にも興味深い共通点と相違点があります。

マタイ福音書では「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群集を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るために独り山に登られた」(マタイ14:22~23)となっていました。パンの奇跡の後、弟子たちは恐らくまだ興奮しており、群集と一緒に、もっとこの感激を味わいたいと思っていたのではないでしょうか。それをイエス・キリストはあえて引き離し、強いて舟に乗り込ませるのです。そしてご自分は一人祈るために山へ登られたということでした。

ヨハネ福音書を見るとこうなっています。

「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来るべき預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。」ヨハネ6:14~15

そこには微妙なニュアンスの違いと、同時に共通するものがあると思います。

群集はイエス・キリストのなさった奇跡を見て、「これはすごい」と思ったのでしょう。ヨハネ福音書によると、彼らはイエス・キリストを、王にするために連れて行こうとしたというのです。普通の発想で言えば、ようやくイエス・キリストが誰であるかがみんなに分かったのだから、それでよかったということになりそうです。しかし主イエスはむしろそれを退けられます。そして隠れるようにして、一人退かれる。

彼らは自分たちの願いをかなえてくれる救い主、王を期待していました。それはご利益信仰のようなものかもしれませんし、あるいは政治的なメシア、つまりローマ帝国の支配を打ち破ってくれるヒーローのようなメシアであったかもしれません。いずれにしろ「はじめにこちらの期待ありき」なのです。イエス・キリストは、自分がどれだけ群集の歓迎を受けようとも、それが自分の来た本当の意味を悟ったからではないということを冷静に見抜いておられたのです。

(6)イエス・キリストを信じる

群集のほうはと言えば、せっかく王にしようと思っていたのに、イエス・キリストが消えてしまったというので捜し回ります。そして舟で追いかけて、ようやくカファルナウムで発見して、こう言います。

「先生、いつ、ここにお出でになったのですか。」ヨハネ6:25

「捜し回ったのですよ。どうして姿をくらましてしまわれたのですか」ということでしょう。イエス・キリストは、こう答えられます。

「よくよく言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」ヨハネ6:26

いかがでしょうか。彼らはパンが増える奇跡に感動しました。しかしそれは一時のものに過ぎないのです。主イエスはだから「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)と言われます。この奇跡の数時間後、長く見積もっても明くる日には、またおなかが減るのです。主イエスは永遠にこのような奇跡をし続けるために来られたのではありません。ですからこの出来事はひとつのしるしであって、それが一体何のしるしであり、何を告げようとしているかに目を向けないと意味がありません。

この問答はこのように続きます。

「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」ヨハネ6:29

「神がお遣わしになった者」とはイエス・キリストご自身だと言ってもいいでしょう。「イエス・キリストを信じること、それが神の業だ」。「何をしたらよいか」という問いに対して、ただ「信じる」というのは何かちょっとずれているように思えます。「信じる」というのは「業」「行為」と言えるのか。しかしその「ずれ」の中に大事なメッセージが含まれているのではないでしょうか。端的に言えば、「私を受け入れ、私を信じなさい」とおっしゃったのです。あるいはそれ以外のことは、そこから始まるのだと言ってもいいかも知れません。イエス・キリストを受け入れ、迎え入れる時に、私たちの人生は変わり始めるのです。

ただしそれは「こちらの期待を満たしてくれるような救い主を迎え入れる」ということではないでしょう。それは本当のイエス・キリストではなく、私たちの願いを映し出すイメージでしかありません。ある意味では、イエスという名のついた偶像と言ってもよいかもしれません。そういう形ではなく、神様が私たちに何を望んでおられるかを聞かなければならない。それにまず目を向けることが大事であろうと思います。

イエス・キリストが嵐の湖(うみ)の中に突然現れた時に、弟子たちは恐れを覚えました(19節)。それは、神様と私たちとの出会い、あるいはイエス・キリストと私たちとの出会いというものが、こちら側の期待を満たすのとは違った形で起こることを示しているように思います。恐れとおののきを呼び起こすのです。ところがそのイエス・キリスト自身が「私だ。恐れることはない」(ヨハネ6:20)と言ってくださることによって、私たちは安心してその方をお迎えすることができるのです。イエス・キリストは群集の勝手な期待を見抜いて、それを退けつつ、完全に拒否してしまうのではなくて、本当の神様との出会い、本当の神様の姿というものを、こういう形でお示しになったと言えるのではないでしょうか。

(7)神の言葉を生活の中心に

今日は、ヨハネ福音書にあわせて、旧約聖書、申命記の言葉を読んでいただきました。

「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6:4~5

これはイエス・キリストも最も大切な戒めとして引用されたことのある言葉ですが(マタイ22:37他)、このような思いを神様に向けつつ、このお方を自分たちの人生の中心、生活の中心にお迎えしていきたいと思うのです。

続けてこう記されます。

「今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい。その言葉をしるしとして手に結び、記章として額に付け、また家の入り口の柱と町の門に書き記しなさい。」申命記6:6~9

子どもたちにそのように信仰の教育をしながら、自分たちもその中に生きる。そのように努力しながら、聖書の言葉を身につけていく。新約聖書で言うと、イエス・キリストの教えを聞き、イエス・キリストご自身を迎え入れていく。そのことが長い人生の中で嵐に出会った時に、私たちを支えてくれるのではないでしょうか。

私たちは来月、8月11日に召天者記念礼拝をもちますが、今、その日に発行する「からしだね」(召天者記念特別号)を準備しています。私は、先週、その方々の追悼文を読み、巻頭言を書きました。信仰の旅路を歩みぬかれた方々であります。この方々を先に導かれたイエス・キリストが、私たちの人生においても、私たちに先立って、そして私たちの舟に乗り込んで支えてくださるということを心に留めたいと思います。

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