2024年6月30日説教「献 納」松本敏之牧師
出エジプト記35章4~22節
使徒言行録4章32~37節
(1)心から進んで献げる
出エジプト記を続けて読んできましたが、いよいよ最後の部分に入ります。このところから始まる部分、35~40章は、25章から31章までを受けて、ほとんどがその繰り返しです。前の部分では、幕屋建設の細かい指示が記されていましたが、この35章以下においては、それらが確かに実行されたということが述べられるのです。今日は、特にその最初の部分、35章4節から36章7節までを見てまいりましょう。
「また、モーセはイスラエル人の全会衆に言った。『これは主が命じられたことである。あなたがたの持ち物の中から、主への献納物を取りそろえなさい。心から進んで献げる人にはすべて、主の献納物として次のものを携えて来させなさい。』」35:4~5
「心から進んで献げる人」とあります。これが、幕屋建設を貫く精神です。幕屋建設に必要な材料は、強制的に集められたのではありませんでした。税金とは違う。年貢とは違う。心から進んで献げる。それによって、ことがなされる。これは不思議なことではないでしょうか。この後で列挙されるものは、そうやすやすと手に入るものとは思えません。
「すなわち、金、銀、青銅、青や紫、また深紅の糸、上質の亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤの木、灯油(ともしあぶら)、注ぎの油のための香料、エフォドや胸当てにはめるカーネリアンや宝石類である。」35:5~9
「じゅごん」というのは水棲動物ですが、日本語で言う「じゅごん」と必ずしも同じではないようです。イルカと訳されることもあります。水棲動物なのでその皮に防水効果があり、会見の天幕の上の覆いに用いられたようです。祭具の包装にも、その皮が使われました。あとのものも、金、銀、宝石を初めとして、高価なものがずらりと並んでいます。
彼らは、モーセの言葉を聞いた後、一旦、それぞれの家(天幕)へ帰るのです。こう記されています。
「イスラエル人の全会衆はモーセの前から出て行った。」35:20
そして、みんな自分の家(天幕)で、「モーセが掲げたあのリストの中で、うちにあるものはないかしら」と探したのです。「自分にできることはないかしら。」誰も強制されてはいません。そしてモーセのもとへ帰ってきました。今度は手ぶらではありません。それぞれ、献げ物を携えてきました。
「心を動かされた人と、魂を突き動かされた人は皆、会見の幕屋の製作と、そのすべての作業や祭服のために、主への献納物を携えて来た。男も女も次々と、心から進んで献げる人は皆、襟飾り、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の祭具を携えてやって来た。彼らは皆、金を献納物として主に差し出した。」35:21~22
これらのものは、すべて非常に高価なものであったに違いありません。かつて奴隷であった人々が、いつのまにそんな高価なものを手に入れたのでしょう。旅をしているうちにさまざまな財産を持つようになったのでしょうか。よくわかりません。しかしそのような大事なものであれば、なおのこと、それを献げてしまうのはなかなかできることではありません。しかし、彼らは幕屋建設のために喜んでそれらを献げたのです。「私は、これを持っています。これを献げさせてください。」と名乗りを上げました。そこには下心はなかったでしょう。
(2)金の子牛の時との違い
彼らは、金の子牛を造った時も、それぞれ材料を持ち寄りました。しかし、あの時と今回は、似ているようで、全く違った空気が支配していたのではないかと思います。あの時は不安から出発していました。
「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです。」32:1
「はじめに人間の意志ありき」です。金の子牛製作は、それを実現するための事業でした。その民衆のリクエストに応えて、アロンが材料となる金を徴収する。
「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」32:2
こちらは、自ら進んで心から献げたのではありませんでした。いわば強制的です。それに従わないと、どうなるかわからないという恐れと不安が支配しています。それゆえに、不満があふれています。みんな仕方なく応じました。隠していた人がいたとしたら、「お前はどうして出さないのだ。みんな平等に分担すべきではないか」と非難されたことでしょう。税金のようなものです。
ところが、今日の箇所では違います。出さない人がいてもよいのです。出したい人が出す。献げたい人が献げる。だから誰も文句を言わない。多くを持っている人、余裕のある人はきっと多く出したでしょうが、そうでない人もいたかもしれません。それでよいのです。それでも誰も不満を言わない。反対に、少なくしか持っていないにもかかわらず、多く出した人もあるでしょう。それでよいのです。喜んで献さげているのです。多く献げた人も、自分が損をしたとは思わなかったでしょう。
(3)教会の原理
私は、これは今日の教会と同じだなと思いました。教会というところは、不思議な集団です。この世の組織ではありえないようなことが、ここで起こっている。献げたい人の自由な献げ物によって、成り立っているのです。普通は、他のことでは仲よくしていても、お金のことになると、とたんにぎすぎすしてくることが多いものです。家族の間、兄弟の間でもそういうことがしばしば起きます。
公的事業は、税金でまかなわれますが、少しでも自分や自分のグループが損をしているようだと不満が出てきます。それは、金の子牛製作の時と同じです。自分たちで計画を立て予算を立てて、それに必要なお金を算出する。それが税金にのしかかってくる。税金となると、みんなあまり出したくありません。「なんで私がこんなに出さなければならないのか。もっといっぱい持っているのに出さない人がいるではないか」という話になっていきます。
しかし教会は違う原理で動いている。自由意志に基づいています。献金のことだけではありません。奉仕もそうでしょうす。礼拝当番、委員会活動。一番大変なのは役員さんでしょうが、みんなボランティアで一生懸命働いてくださっています。そのようにして、教会は自由な奉仕と自由な献金で保たれてきたのです。外から見ると、どうしてそんなことが成り立つのだと思われるのではないでしょうか。
もっとも教会の中でも、時々、不満の声が出てくることもあります。「自分はこんなにやっているのに、あの人はなんでもっとしてくれないのか。」奉仕活動についても、ぎすぎすしてくることがあります。「あの人は無責任だ。」しかし私は、「みんなボランティアでやっているんだから、もっと楽しく、喜んでやりましょうよ」ということがあります。「楽しくなければ教会じゃない」というと、言い過ぎかも知れませんが、でもそうでなければ、つまり喜びに満ちていなければ、誰も来ないでしょう。「来てよかった。また来たい。」それが健全な教会です。「教会に来ると、どっと疲れが出てくる。」時々、そういうこともあるかもしれませんが、それは教会が病んでいるしるしでしょう。そういう時は、教会自身が、信仰によって、健康を回復していかなければならないと思います。
(4)心に知恵のある者
「あなたがたのうち心に知恵のある者は皆やって来て、主が命じられたものをすべて作りなさい。」35:10
「心に知恵のある者」とは、「職人としての専門的な技術、熟練、ノウハウを知っている者」というような意味です。神様がご計画を実現するために、ある人たちに知識と技術を与えながら、召しておられるのです。25節にも、「心に知恵のある女たちは皆その手で紡ぎ、その紡いだ青や紫、また深紅の糸と上質の亜麻糸を携えて来た」とあります。
必要な材料と同時に、必要な人材も集められた。知識や技術をもっている人。建築の技術。絵の才能。紡ぎ方を知っている人。ぞくぞくと集められるのです。みんな、「心を動かされて」やってきたのです。お金のためではありません。「自分の賜物が生かされるならば、こんなにうれしいことはない」と思った人たちです。
これも今日の教会に通じるものでしょう。教会の中には、さまざまな賜物をもっている人たちがいます。そしてそれを出し惜しみなく、教会のために、神様の御用のためにご提供くださるのです。
音楽の賜物をもった方。美術の賜物をもった方。書道の賜物をもった方。コンピューターの賜物をもった方。子どもが好きな方。人のお世話をするのが好きな方。話が上手な方。話を聴くのが上手な方。きめ細やかな方。大局的にものを見通せる方。論理思考に強い方。文章を書くのが得意な方。編集能力のある方。英語ができる方。いろんな賜物があります。
「自分には何もない」と思われる方もあるかもしれませんが、そんなことは決してありません。忙しい中で、教会に来る時間を何とか確保して、ここに来ておられる方もあるでしょう。それ自体が証であると思います。年をとったために何もできないと思われる方もあるかもしれません。しかしその方々も存在そのものが大きな証であり、奉仕であります。私たちが最後までできることは祈りでありますが、祈り自身が大切な奉仕ではないでしょうか。
(5)召し出しつつ、育てる
35章30節以下には、こう記されています。
「見よ、主はユダの部族のフルの子ウリの子ベツァルエルを指名して、彼を神の霊で満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けられた。それは、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工し、宝石を彫ってはめ込み、また、木に彫るなど、意匠を凝らしたあらゆる仕事をさせるためである。さらに、主は彼の心に人を教える力を授けられた。彼とダン族のアヒサマクの子オホリアブにそうされた。」35:30~34
召し出しつつ、それに必要なものを随時、与えてくださるのです。しかも人に教えるという教育者の才能まで与えてくださっています。
神様の御用のためにその賜物を献げるという時にも、同じことがあるのではないでしょうか。やっていくうちにだんだんと育てられ、磨きがかかってくるのです。教会でも、しばしばそういうことがあります。オルガンの奏楽や美術の奉仕、コンピューターの操作など、奉仕しながら、技術が高められていくことがあると思います。教会というのは、つくづく不思議な集団だな、と思わされますが、そのルーツがここに記されているようです。
(6)うれしい悲鳴
29節には、このように記されています。
「主がモーセを通して主が行うように命じられたすべての仕事のために、男も女も、心から進んでそれらを携えて来た。イスラエルの人々は、主への自発の献げ物として携えて来た。」35:29
「自発の献げ物」です。一定の金額の会費でもないし、税金でもない。しかも中身もそれぞれ違う。それぞれができることをしたのです。男も女もいる。お年よりも若者もいたことでしょう。できることは、みんな違う。しかしみんなが、「自分は何ができるかな」と考えました。ここに幕屋建設という一大事業のために、労力と資源と知恵と技術が結集されたのです。それがどんどん、どんどん集まってきました。
「そこでモーセは、ベツァルエルとオホリアブ、そして心に知恵ある者で、主がその心に知恵を与えられた人々、すなわち、その仕事に参加しようと心を動かされた者をすべて呼び集めた。」36:2
そこから先も、人や物がどんどん集まってきました。とうとう指導者たちは、モーセにこう言いました。
「民が幾度も携えて来るので、主が命じられた仕事に必要な量よりはるかに多くなっています。」36:5
集まり過ぎたのです。うれしい悲鳴です。困る程に集まってきてしまった。それで、ついにモーセがストップをかけます。
「モーセは命じて、『男も女も聖所の献納物のためにもう何もしなくてよい』と宿営に触れ回らせた。それで、民は携えて行くのをやめた。手持ちの材料はすべての作業を行うのに十分であり、余るほどであった。」36:6~7
「はい、ストップ。そこまで。」
(7)神様の大いなる御業を見て
使徒言行録に記されている初代教会も、そういう自由な空気に満ちていました。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(使徒4:32)とあります。
この人たちも心を動かされた人々でありました。なぜそのように心を動かされたのか。それは、彼らがそれ以前に、神様の大いなる業を見ていたからです。神様の大きな御業、恵みの御業を見る時に、自分も進んでそこに参加していく者とされるのではないでしょうか。
出エジプトの民は、エジプトから導き出してくださったという大きな恵みの御業を見ていました。そして、この直前には、自分たちが罪を犯したにもかかわらず、それを赦してくださったという恵みを経験しました。その恵みの主の招きに、彼らは応えたいと思ったのです。
私たちのためには、イエス・キリストが大きな御業をなしてくださったということを信仰の原点として、心に留めたいと思うのです。イエス・キリストは、私たちのために、まず喜んで、ご自分を差し出してくださった。その神様のために、そのイエス・キリストのために、私たちも喜んで従っていく、そのようなクリスチャンになりたいと思います。