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2024年6月2日説教「神の民としての教会」松本敏之牧師(代読 保さら)

申命記7章6~13節 ヨハネによる福音書3章1~15節

(1)創立146周年記念礼拝

本日は、鹿児島加治屋町教会の創立146周年記念礼拝として、この礼拝を守っています。私が着任した2015年までは、創立記念礼拝の日の週報の裏面に、創立の経緯が記されていました。そこに記されていたことを紹介させていただきます。

 「わが教会は、米国メソジスト派九州教区長デヴィソン宣教師によって、長崎美以(みい)教会(現長崎銀屋町教会)に次いで九州で二番目に創立された教会である。

 デヴィソン宣教師は1877年(明治10年)秋、飛鳥(あすか)伝道師を伴い、鹿児島に視察にきた。当時メソジスト派は、会堂の諸経費はもとより人件費一切を宣教師会が負担していたので、会堂にあてる民家の借り入れ、その場所の選定は宣教師自ら現地視察のうえ決定していた。

 デヴィソン師が選定した民家の場所は、『鹿児島県史』、『鹿児島市史』によると、山下町(185番地)とある。西南戦争終了直後、山下町は士族戸数よりも平民の人口が多く、平民の中でも商人志向の者は文明開化、殖産産業の波に乗って、キリスト教に関心を寄せた。そこで山下町の民家を借りて会堂用とし、新興商人階層に伝道をくり広げようと志向した。同時に、教会学校は、安息日に聖書や讃美歌の学びをするだけではなく、平日でも開校して読み書きソロバン算数をも教え、そのための教師も雇い入れている。

 その後、1878年(明治11年)6月、山下町に鹿児島美以教会が設立(『鹿児島県史』)された。

〈教会の名称〉

 教会の名称は、創立当初、鹿児島美以教会と称した。美はメソジストのメの漢字、以はエピスコパルのエの漢字で、メソジスト・エピスコパル・チャーチの略字である。その後1907年(明治40年)5月に、日本メソジスト鹿児島中央教会と呼称するようになり、1941年(昭和16年)6月日本基督教団成立後は鹿児島城南教会、また、1985年(昭和60年)8月1日から日本基督教団鹿児島加治屋町教会と改称された。」

そのように、日本基督教団鹿児島加治屋町教会史『恵みのみ手に支えられて』に記されています。 ですから今年2024年は、最初の鹿児島美以教会の設立から146年でありますが、鹿児島加治屋町教会という名前になってから39年ということになります。現在の会堂に移ったのは、もう少し前ですので、44年になるかと思います。

(2)ペンテコステは教会の誕生日

また1878年の6月何日に設立されたかは記録に残っていないようですが、もしかすると、その年のペンテコステだったかもしれないとふと思いました。それで1878年のペンテコステがいつであったか、インターネットで調べてみました。どうやって調べたかと言いますと、「1878年 イースター」で検索すると、4月21日であることがわかりました。ペンテコステは、それから50日目の日曜日ですので、なんと1878年のペンテコステは6月2日であったことがわかります。もしもペンテコステの日に、この教会の設立式が行われたとすれば、まさに6月2日、つまり今日がドンピシャということになります。

当時(明治11年)の日本人(薩摩の人)はまだペンテコステが何かもよく知らなかったでしょうが、米国メソジスト教会の宣教師であれば、ペンテコステを意識したことは十分に考えられます。ですから、もしも設立の日(6月何日か)がペンテコステであったとすれば、ペンテコステの日を、私たちの教会の創立記念日としてもよいのかもしれません。

ご承知のように、ペンテコステは聖霊降臨日と言われますが、同時に世界の教会の誕生日とも言われます。イエス・キリストの復活から50日目のこと、弟子たちが集まって祈っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響きました。そしてさまざまな不思議な現象が起きると同時に、一同は聖霊に満たされました。この聖霊が、弟子たちを励まして教会の設立を促したと言ってもよいでしょう。イエス・キリストが生きておられた時は、主イエスが弟子たちを励まし、活動を促しましたが、ペンテコステ以降は、聖霊が共にいて弟子たちを励まし、動かしていったのです。

(3)ニコデモ

さて今日は、創立記念礼拝ではありますが、日本基督教団の聖書日課に基づいて、ヨハネ福音書3章1~15節を読んでいただきました。ここにニコデモという人が登場します。ニコデモは、特に教会の歩みと関係がないように思えますが、私は、教会の歩みにおいても、いつもニコデモのような人もいて、案外そういう人が教会を支えてきたということも心に留めたいと思います。

このヨハネ福音書3章前半は、ニコデモがイエス・キリストを訪ねてくるという出来事、そしてそれに続く、ニコデモとイエス・キリストとの対話です。こう始まります。

「さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。」3:1

ニコデモとは、一体どういう人物であったのでしょうか。まず彼は「ファリサイ派の一人」でありました。つまり、きちんとした厳格な律法教育を受けた人です。学歴がしっかりしている。次に「ユダヤ人たちの指導者」とあります。社会的地位と信用のある人です。時の権力者とも近い位置にいたかもしれません。さらに10節の主イエスの言葉から「イスラエルの教師」でもあったことがわかります。つまりニコデモは学識があり、社会的地位があり、尊敬され、評判も得ていた人物でした。

そういう人がイエス・キリストを訪ねてきたのです。決して冷やかし半分ではありません。また別のファリサイ派の人がしたように、「罠にかけよう」としてイエス・キリストに近づいたたわけでもありません(マタイ22:15等参照)。彼なりに真剣に、「この人こそ神の子なのかも知れない」と思ってやってきたのです。それはニコデモの次の言葉からもよくわかることです。

「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」3:2

これは、この時の彼なりの精一杯の信仰告白であったということができるでしょう。

(4)何が必要かを察知して

そのニコデモに対して、イエス・キリストは次のように答えられます。

「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」3:3

彼は主イエスに何かを質問したわけではありませんが、ニコデモを迎えたイエス・キリストは、今ニコデモにとって必要なことは何であるかを察知して、このような言葉で答えられたのではないかと思います。

ニコデモは、自分が普段やっていることは基本的に正しいと思っています。ですから彼は自分のやっていることを捨ててまで、イエス・キリストに従う気はありません。根本的に新しくなろうとは思ってはいない。今やっていることの上に、より高いことを求めているのです。もっと完全になりたい。そして彼なりに真剣に本気でイエス・キリストを訪ねたのです。あの「金持ちの青年」に少し似ているかもしれません(マタイ19:16節以下参照)。そのニコデモに対して、イエス・キリストは、「新しく生まれ変わらなければならない」と語られました。「あなたの信仰の拠り所としているものは何か。あなたは私がしたしるしを見て、ここに来たのだろうけれども(ヨハネ2:11、2:23参照)、本当に大事なのはそこから先だ」ということです。ニコデモはこう答えます。

「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(3:4)

この少しとんちんかんな、ピントはずれの答えをきっかけにして、イエス・キリストはもう一つ深い真理を語られます。ヨハネ福音書独特の語り口です。

(5)「水」と「霊」と「風」

「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」3:5

否定的な表現ですが、裏返して言えば、「人は水と霊によるならば新しくなれる」というふうにも言えるでしょう。「水から新しくなる」とは、あの「ノアの洪水」(創世記6~9章)と、出エジプトの際に、紅海の水が真っ二つに分かれた(出エジプト記14章)という水のイメージがあるのかも知れません。

私が感じたもう一つの水のイメージがあります。母親の胎内には羊水という水があります。ですから私たちはいわばその羊水の中から生まれてきたのです。ニコデモは「もう一度、母の胎内に入って生まれることができましょうか」と言っていますが、私たちは水を通して、あたかも胎内に戻るように新しく生まれ変わるのだという含みがあるのではないでしょうか。これは、洗礼、バプテスマを暗示する言葉のようでもあります。

そしてもう一つ大事なのは、「霊」という言葉です。この「霊」という言葉が次のように引き継がれていきます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」3:8

ここで「風」と「霊」が対比されています。ちょうど霊というのは、風のようなものだ。目には見えないけれども、私たちはその音を聞くことができるし、体で感じることもできる。さらにまた風があることによって初めて、風がない時にもそこに空気があるということがわかる。空気がなければ私たちは生きることができませんが、風によってその存在を確認するのです。

この「風」と「霊」はただ単に性質が似ているだけではありません。実はギリシャ語では、両方とも「プニューマ」という同じ言葉です。

私は、この時、イエス・キリストは、このように話しながら、ニコデモに向かっても、この「霊」を「風」のように送っておられたのではないかと思います。

(6)ニコデモはイエスの死後、再登場

この対話の終わりがどこであるのか、実はよくわかりません。ニコデモとの対話がいつのまにかイエス・キリストの説話となります。そして15節の「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」という言葉から、有名な3章16節の言葉に引き継がれていきます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉です。

それはとても大事な言葉でありますが、一体ニコデモはどうなってしまったのでしょうか。どこへ行ってしまったのでしょうか。突然、舞台から消えてしまいます。あの「金持ちの青年」のように、すごすごとイエス・キリストのもとから立ち去ってしまったのでしょうか(マタイ19:22参照)。

もしかすると、この時はそうであったかもしれません。しかしニコデモはヨハネ福音書の終わりのほうで、もう一度登場するのです。

19章38節以下です。まずイエス・キリストが十字架上で息を引き取られた後、アリマタヤのヨセフという人が「イエスの遺体を取り降ろしたい」とピラトに申し出るのです。この人は「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(19:28)と紹介されています。いわば、かくれキリシタンだったのです。彼が良心的な人物であったことには違いありません。イエス・キリストを尊敬し、慕い、ひそかに従っていました。しかし「イエス・キリストの弟子である」と名乗る勇気はもっていなかったのです。

そこへもう一人似たような人物が現れます。それがニコデモです。「前に、夜イエスのもとに来たニコデモ」(19:39)とあります。彼はそれまでも、イエス・キリストのフォロワー(追従者)であったでしょうが、いわば隠れフォロワーです。しかし彼もまたイエス・キリストの死の後、黙っていられなくなりました。ようやく古き自分に死に、水と霊によって新しく生まれ変わる決心をしたのかもしれません。ニコデモは、イエス・キリストを丁重に埋葬するために、「没薬とアロエを混ぜた物を百リトラばかり」(19:39)持って来ました。百リトラはおよそ三二・六キログラムです。相当な量、かなり高価なものであったことがわかります。彼らは、決してイエス・キリストに対する同情から立ち上がったのではないでしょう。自分をごまかしながら、かろうじて信仰をもっているような自分、いや究極のところでは、イエス・キリストよりも、お金や名誉や地位をよりどころにしている自分がいやになったのではないでしょうか。アリマタヤのヨセフとニコデモは、「自分ならお金も用意できる。自分なら役人に逮捕されることもない。ここで名乗りでなければ、自分は一生後悔する」。そう思ったのではないでしょうか。そしてこの二人は、大事な場面で、彼らにしかできない貢献をしました。これも神様の不思議な計画、配剤であると思います。教会においても、そのようなことが起きます。それまで、教会の歩みの最後尾にかろうじてついてきていたような人が、ここぞという時に(たとえば会堂建築の時に)頭角を現して、大事な働きをする。「神様の不思議な計画以外の何ものでもない」と、驚かされることが時々あるのです。

(7)神の宝の民

今日は、もう一つ申命記7章6節以下の言葉を読んでいただきました。教団の聖書日課は、その直前の6章17節以下の言葉でしたが、創立記念日にふさわしいものとして、こちらの7章の言葉にしました。6節で、こう述べられています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」申命記7:6

これは、モーセに導かれて荒野を歩んでいたイスラエルの民に対して述べられた神様の言葉ですが、新約聖書によれば、教会というのは、このイスラエルという「神の民」である共同体を引き継いだ、新しい「神の民」であると理解します。このことを、感謝をもって受け止め、謙虚な歩みをしていきたいと思います。

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