1. HOME
  2. ブログ
  3. 2024年6月16日説教「その水をください」福岡城東橋教会 矢崎和彦牧師

2024年6月16日説教「その水をください」福岡城東橋教会 矢崎和彦牧師

ミカ書4章1~3節
ヨハネによる福音書4章7~26節

イエスと弟子たちは、サマリアの町に到着しました。正午頃のことです。弟子たちは町へ食べ物を買いに行っており、疲れたイエスだけがそのまま井戸のところで休んでいました。そこへちょうど、水がめをもった一人の女性が近づいてきて、イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と言いました。そして女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と答えます。この言葉には、さまざまな意味と思いが込められています。

第一に、このすぐ後に記されておりますように、ユダヤ人はサマリア人と交際していなかったということです。特にユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、嫌っていました。紀元前721年に北イスラエル王国が滅亡し、その都であったサマリアがアッシリア軍によって支配されました。その時から、イスラエルの信仰とは異なる違う神を礼拝した外国人がたくさん、サマリアの地に移り住み、民族の純粋性、純血を大切にしたユダヤ人との間に対立が生じるようになったのです。
ユダヤ人はサマリア人を差別し、サマリア人もこれに対抗して神殿があったエルサレムには行かず、ゲリジムという山に自分たちの神殿を建ててそこで礼拝するようになったのです。

第二は、イエスが男であり、彼女が女であったということです。当時の風習としては、公の場所で男が女に声をかけてはいけなかったのです。挨拶すらしてはいけなかった。ユダヤ教の教師であるラビは、特にそうでありました。

そういう二つの背景がありますから、彼女は主イエスを横目で見て、その存在に気づいてはいたでしょうが、声をかけることはなく、また、まさか声をかけられるとも思っていなかったでありましょう。ですから、声をかけられてどきっとしたのでしょう。

しかしこの女性がどきっとしたことには、もう一つの個人的理由がありました。できるだけ人と会いたくなかったのです。人と交わりたくなかった。ですから昼の最も暑い時間に水をくみに来ていたのです。一般的にはこの水くみは女性の仕事であり、朝の早い時間か夕方の涼しい時間に行いました。そして、この水くみの時が貴重な交わりの場でもありました。この時に女性たちは、家の仕事から一時解放されて、おしゃべりをしたり、息抜きをしたでしょう。日本語にも井戸端会議などという言葉があります。

しかしこの女性は、そうした交わりそのものがいやだったのです。誰からも声をかけられたくなかった。声をかけられなくても、ひそひそとうわさをされる。それがもっといやだったのだと思います。

この後、18節のところでイエスが言い当てられた通り、この女性には5回の結婚歴があり、今連れ添っている人も夫ではありませんでした。律法に照らし合わせ想像しますと、この女性は罪人としてのレッテルを貼られていたのでしょう。

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。この問いは、率直な驚きを表しているとも受けとめられますし、同時に、この女性が受けている民族的差別、性的差別、そして個人的差別の仕返しというか、ちょっと意地悪な響きがあるようにも受けとめられます。「普段は口もきかないくせに、困った時だけ頼み事ですか。自分でお汲みになったらいかがですか」。そういう意味かも知れません。のどが渇き、疲れ果て、やむを得ず、普段は差別をしていたサマリア人に水を求めたとしたら、この女性にとってイエスは、本当にみじめな、あわれな感じがするでしょう。

しかし私は水を求めるイエスの中にこそ、逆に救い主としての姿が最もよく表れているのではないかと思うのです。イエスが十字架にかけられた姿を思い起こしてください。人間として、最もみじめな姿です。下を通る人がみんな、「ユダヤ人の王、万歳」とあざけり、「神の子だったら、人を救う前に、自分を救ってみろ」とののしりました。

また十字架上のイエスと、サマリアでのイエスを結ぶ大事な言葉があります。ヨハネによる福音書においてイエスが十字架の上で、何と言われたかご存じでしょうか。新共同訳聖書では、「渇く」と記されています。「のどが渇いた」ということです。イエスはのどが渇くなか、酸っぱいぶどう酒が口に運ばれ、最後に「成し遂げられた」と言葉を残し、みじめな姿で息を引き取りました。しかし、このみじめな姿によって神の計画は成し遂げられたというのです。

この物語では、イエスは、このサマリアの女に向かって、「水を飲ませてください」と言われました。そういう言葉でこの女性にお願いすることによって、イエスはみんなから差別されたこの女性の下に立ち、その惨めさを受け止められたのです。命の水を持つイエスが、「のどが渇いた。水をください」と彼女に懇願しておられる。私は、この一見矛盾するようなイエスの姿にこそ、まことの救い主、十字架のイエスの姿を感じるのです。

そのようにしてしか、この女性との出会いは始まらなかった。イエスが私たちみじめな人間を救うために、十字架上でみじめな姿をさらされたように、ここでこの女性を救うために、みじめな姿をさらし、この女性の下に立たれたのです。
 「水を飲ませて下さい」というイエスの言葉から、サマリアの女性との会話が始まりました。この女性はイエスの言葉をすぐには理解することができませんでした。しかし、何か大事なことが含まれていると、感じたのでしょう。初めてあった見知らぬ人を二言目には「主よ」と呼びかけたのです。そして、真の礼拝をする者として招かれていくのです。

その信仰を告白したその女性に、イエスは言います。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」

彼女はその言葉を受けて、再び応答いたします。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。この言葉で、彼女がまだぴんとはずれの理解をしていることがわかります。「1回飲んだら、もう渇かない水。いちいちくみに来なくてもいい水。そういう水があれば便利だなあ。もうこんなに苦労して水をくみに来なくてもいいし、人と会わなくてもすむ。」この女性は何か「ドラえもん」にものを頼むレベルで考えているようですが、イエスに対して心の底から求めたのです。

私たちがキリスト者として生きるということは、これと同じように、ピントはずれでもまず、イエスに水を求め、その命の泉につながって歩んでいきたいと願うことから始まります。一人の喉が渇いた男性は、ユダヤ人であることが分かり、さらには「主よ」、と呼びかけるべき一人の教師として、女性の前に立ち現れてきました。しかし、20節では「預言者」にまで来ています。そして礼拝をするべき場所についての問いが始まるのです。

この時、イエスはこの女性に、ユダヤ人と同じようにエルサレムとも、サマリアが大切にしてきたゲリジムとも言われませんでした。そうではなく、「わたしを信じなさい」といわれたのです。どこで礼拝するかが問題となるのではない。礼拝するべき存在が、目の前におられる。今がそのときである。と伝えるのです。

私たちの中には、それぞれに疲れを覚えている方がおられるでしょう。また、つまずき、倒れてしまうような時もあるでしょう。しかし、その人に、イエスは声をかけ、その人の新たな歩みを祝福し、信仰へと導きます。一番初めに声をかけられるのはイエスです。「水を下さい。」と私たちに声をかけられた時、私たちは逆にイエスの愛と恵みに気付き、「その水を下さい。」とその水の正体がはっきり判らない中にあっても、ただイエスに従う信仰が与えられるのです。そして共に疲れを覚え、重荷を負っている者としてイエスに招かれ、ともに礼拝をささげる群れへと導かれるのだと思います。主の招きに感謝して新しい1週間を歩みたいと思います。

関連記事