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2024年5月26日説教「熱 情」松本敏之牧師

出エジプト記34章1~10節 マタイによる福音書15章32~39節

(1)モーセのとりなし

私たちは出エジプト記を続けて読んでおります。今日の34章は、まさしく神様が私たちを新しくしてくださる、神様が新しく始めてくださるということを語った部分です。前回は33章を読みましたが、出エジプト記の32章から34章は、一続きの物語になっています。

モーセがシナイ山の上で、契約の言葉をいただき、それが石の板に記されました。それをモーセが持ち帰ってくるのですが、山の下では、帰りの遅いモーセを待ちきれずに、金の子牛の偶像を造り、お祭り騒ぎをしていました。モーセは山から降りて、それを見た時、激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いてしまうのです(32:19)。

しかしモーセは民に対しては、そのように厳しい顔を見せながら、神様に対しては、「どうか彼らの罪を赦してください」とひたすらなとりなしの祈りをするのです。それが32章の終わりから33章にかけて記されていたことです。

今日の34章は、それを受けて始まり、この部分のクライマックスになっています。先ほど申し上げましたように、モーセは神様からいただいた十戒の板をたたきつけて壊してしまっていました。「この民はそれを受ける資格がない。むしろそれによって裁かれ、滅びてしまう」と思ったのでしょう。

(2)幾千代にも及ぶ慈しみ

しかし神様の方は、その民のために、もう一度すべてを新しく始めてくださるのです。モーセに十戒を刻む板をもう一度用意させ、罪を犯した民がやり直すチャンスを与えてくださいました。

「主はモーセに言われた。『前のような二枚の石の板を切り出しなさい。そうすれば、私はその板に、あなたが打ち砕いた前の板にあった言葉を書き記そう。明日の朝までに板を準備し、朝、シナイ山に登り、山の頂上で私の前に立ちなさい。』」34:1~2

神様の恵みの言葉です。私たちはもう一度初めからやり直すことができる。それは、神様がそのように促してくださっているからです。

モーセは誰も従者を連れず、ただ一人山を登っていきました。手には二枚の石の板を携えていました。そこで主なる神様は、彼の前を過ぎ去り、こう宣言されます。

「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。 怒るに遅く、慈しみとまことに富み、 幾千代にわたって慈しみを守り、 過ちと背きと罪とを赦す方。」34:6~7

これは神様が、自分がどのような者であるかを宣言なさった言葉です。最初に、「主、主」と書かれていますが、もともとは「ヤハウェ、ヤハウェ」という神様の名前が記されています。「私はある」というような意味です。神様は、自分の名前を宣言しながら、自分がどういうものであるか、慈しみ深いものであることを明らかにされました。

ただしその次に記されている言葉は少しトーンが違います。

「しかし、罰せずにおくことは決してなく 父の罪を子や孫に さらに三代、四代までも問う方。」34:7

「父の罪を、子や孫、さらに三代、四代までも問う」というのは、厳しいと思う方もあるあるかもしれません。ただし、これは神様の自己宣言が完結した後で、付随的に語られていることです。

事実として、親が犯した罪の結果、子どもや孫がその影響を受けるということがあると思います。しかし、やがてエゼキエル書においては、「人は各人の罪によって裁かれる。親の罪を子どもが負うことはない」ということがはっきり語られるようになります(エゼキエル18章参照)。

7節の言葉は、神様が裁きを決してなおざりにされる方ではないということを示しています。

フレットハイムという注解者は、「6節で紹介されている神の属性(本質的な性質)の中に裁きの言及は存在しない。怒りはもはや神の本質の継続的な側面ではなく、歴史的状況への特殊な応答となっている」と述べています。さらに、「神の慈しみが強調されると同時に神の怒りという要素が省略されるという二重性は、イスラエルに対する神の無条件の愛を力強く物語っている。赦しという文脈の中で、『罰すべき者を罰せずにおかず』と語っている点は、『正当な裁きをなおざりにしない』ことを意味している。また過ちに対する裁きが保持されていることは-幾世代にも及ぶという点でも-神が道徳的秩序を認知し続ける事実を示している」と述べています(フレットハイム、433頁)。

「罰せずにおくことは決してなく」ということは、つまり「罰せられるべき者が罰せられる」ということは、神様の正義、神様の秩序、この世界が保たれるということです。罰せられるべき者が罰せられないでのさばっている状態は、それによって苦しんでいる人がいるわけですから、きちんと裁きをなさるというのは、恵みと受け止められるべきでしょう。

ここでぜひ心に留めたいことは、父の罪を問うのは、せいぜい三代、四代にまでだけれども、神様の慈しみは「幾千代にもおよぶ」ということす。慈しみの方が裁きよりも何千倍も大きいのです。その厳しい裁きさえも、「憐れみ深く、恵みに満ちた神。怒るに遅く、慈しみとまことに富み、幾千代にわたって慈しみを守り、過ちと背きと罪とを赦す」という大きな恵みの中に包み込まれてしまうというのです。

(3)神が名前を明かされる

神様がご自分の方から名前を明かしてくださった。名前を明かすことによってモーセを認め、対等のパートナーのようにして、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」(33:11)、ご自分の言葉を告げられるのです。名前を明かすということには、特別な意味があると思います。

少し前に、私はル=グウィン著の『ゲド戦記』という少年向きのファンタジーを読みましたが、その中でも、本名を明かすということは、自分を相手に委ねるという特別なことを意味していました。

聖書においても、神様はモーセにご自分の名前を明かされた時、モーセを信頼して自分を委ねて、ご自分の本音を語られたのでしょう。聖なる名前が告知される。この名が告知されるまでは、モーセといえども、黙して頭を下げ、礼拝することしかできませんでした。

名前が明らかにされることによって、神様とモーセの話が始まるのです。その後、モーセは訴えます。

「わが主よ、もし私があなたの目に適うのなら、どうか私たちの中にあって共に進んでください。かたくなな民ですが、私たちの過ちと罪とを赦し、私たちをご自身のものとしてください。」34:9

(4)ノアの洪水物語との共通点

このモーセの祈りは、ノアの洪水物語と類似点があると、先ほどのフレットハイムは指摘しています。

ノアの洪水物語、多くの方がご存じであろうと思います。神様が、この世界のひどい有様を見て、すべてを新しくやり直すと決意して洪水を起こさせるのです。それが創世記6章から始まっていました。7章、8章で大洪水が起きます。しかしその洪水が終わった時に、神様がおっしゃったことは印象深いことです。

「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の中から選んで、焼き尽くすいけにえとして祭壇の上で献げた。主は宥めの香りを嗅ぎ。心の中で言われた。『人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべて打ち滅ぼすことはもう二度としない。 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ 寒さと暑さ、夏と冬 昼と夜、これらがやむことはない。』創世記8:20~22

そしてこの神様の決意に基づいた、有名な虹の契約が結ばれるのです(創世記9:13)。 この洪水の前と後で変わったことは何なのか。私たちはもう二度とこういうことをしませんと言って、神様が赦したのではありませんでした。「人が心に計ることは幼い時から悪い」ということに神様が気付いた。だからこの人間を相手にする時には、神様のほうから一方的に恵みを与え続けるような形でしか、契約を結ぶことはできないということがわかったということです。

今日の出エジプト記34章のほうも、それに似ています。アロンとイスラエルの民たちが金の子牛を作って神様に背きの罪を犯し、モーセがそれを打ち砕いたわけですが、その民が悔い改めたから、神様が新しく契約を結んでくださる、というわけではないのです。モーセも、こう祈っています。

「どうか私たちの中にあって、共に進んでください。かたくなな民ですが、私たちの過ちと罪とを赦し、私たちをご自身のものとしてください。」34:9

かたくなな民であり続けるのです。かたくなな民であるにもかかわらず、いやもっと言えば、かたくなな民であるからこそ、神様は見捨てない、という約束をしてください、ということなのです。

このことは私たちにも通じるものでしょう。私たちは悔い改めて、あるいはよい子になったから、神様が恵みを施すということではない。そういう関係であれば、私たちはいつまで経っても、神様に義と認められることはないでしょう。

(5)キリストの真実

昨日の女性集会の開会礼拝で、鹿児島教会の尾崎和男牧師も述べておられたことですが、これまで「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16)と訳されてきたパウロの言葉は、新しい聖書協会共同訳では、「キリストの真実によって義としていただく」となりました。「信仰」という言葉の原語はピスティスという言葉なのですが、これは「真実」とも訳せるのです。「キリストへの」、「キリストの」も文脈でどちらとも訳せる。「信仰」と訳した場合には「(私たちの)キリストへの信仰」となるでしょうが、「真実」と訳した場合には、「キリストの真実」となります。「私たちのキリストへの信仰」によって義とされるのであれば、私たちの救いは私たちの手の中にあるように聞こえます。でもキリストの真実によって義とされるのであれば、私たちが不信仰になろうとも、キリストの真実は私たちを裏切らない。そのキリストの真実こそが私たちを義(正しいもの)としてくださるということが、よく表れた翻訳になったと思います。

このところでも、モーセやイスラエルの民が背きに対して悔い改めたり、反省をしたりすることによって、神様との契約関係が回復するのではない。いつまで経ってもかたくなな民なのです。かたくなな民であるがゆえに、神様の慈しみをもって包み込む、神様の慈しみをもって共に歩んでくださいというふうに、モーセがとりなしの祈りをしているのです。

そしてそれを受けて、神様が恵みの契約をしてくださるのです。ですから、これも神様がノアに語られたことに通じると思います。

世界を滅ぼして、もう一度やり直す時に、人間がよくなったわけではない。人間はこれまでどおり悪い。だけれども人間がどんなに悪くても、私はそのことによって二度と地上を滅ぼさない、というふうにして契約を結んでくださった。

そのことにモーセのとりなしの祈りとその後の神さまの応答は通じるものです。

(6)熱情の神、妬む神

そのモーセのとりなしの祈りに続いて、神様は、こう言われた。

「このとおり、私は契約を結ぼうとしている。私はあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは、あらゆる地のいかなる国民の中でも行われたことのないものだ。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。私があなたと共にあって行うことは恐るべきものである。」34:10

一旦破棄された契約を、神様は、もう一度結ぶと言ってくださった。罰せられるべきことがあったのに、単純にそれを裁くということではなく、全くこれまでなかったような新しい仕方で、生きる道をつけてくださるのです。

すべてを新しくする。これは、やがてイエス・キリストを待って実現すると言ってもよいかも知れません。

14節に「他の神にひれ伏してはならない。主はその名を妬みと言い、妬む神だからである」とありますが、この「妬む神」というのが前の新共同訳聖書では「熱情の神」となっていました。「熱情の神」と「妬む神」では随分違うように思えます。原語は「エル・カンナー」という言葉で、どちらとも訳せるのであり、十戒のところでも、一度出てきました(20:5)。

木幡藤子氏は、このところ(出エジプト記34:14)を「ヤハウェは熱愛の神で、その名をエル・カンナーというからである」と訳しています。そして「熱愛の」という訳について、(出エジプト記20:5の)注で「『妬みの』『熱心の』とも訳すこともできるが、恵みが罰よりも遥かに大きいという(次の)内容を考慮してこう訳した」と述べておられます。新共同訳聖書でも、恐らく同様の考えがあったのでしょう。神とイスラエルの関係は、婚姻にもたとえられる関係、誠実さが求められる強い絆の契約関係であり、「熱情の神」という訳では、その関係が薄められるように受け止められかねないとして、聖書協会共同訳聖書はかつての口語訳と同じように、「妬みの」としたのかもしれません。

この後、戒めが再授与されたことを確認するように、十戒の最初の部分が繰り返されます。まず偶像を造ることと拝むことの禁止(13~17節)が語られます。「あなたは鋳物の神々を自分のために造ってはならない」(34:17)と述べられました。 また21節では、安息日を想定し、「六日間働き、七日目には休まなければならない」と示されます。

(7)モーセの顔の光

さて、そうした戒めの再授与ということがあった後、不思議な結びが出ています(29~35節)。

「モーセはシナイ山から下りた。山を下りるとき、彼は二枚の証しの板を手にしていた。モーセは、主と語るうちに彼の顔の肌が光を帯びていたことを知らなかった。アロンとイスラエルの人々が皆モーセを見ると、彼の顔の肌が光を帯びていた。それで彼らはモーセに近づくことを恐れた。」34:29~30

これは何を意味しているのでしょうか。それは、神様の前に出たモーセもまた、神様の光を身に帯びるようになっていたということであろうかと思います。もちろん神様ご自身の光と同じではないと思いますが、神様と話をしたモーセも、その光のなにがしかをもっていた。光をいっぱい受けて、その光が去った後も、まだ光が残っていたのです。ちょっと夜光塗料のような感じもします。それは、人々を恐れさせるものでしたので、モーセは語り終えた時に、自分の顔に覆いを掛けました(34:33)。

(8)あなたがたは世の光である

私は新約聖書のイエス・キリストの言葉を思い起こしました。イエス・キリストは、「私は世の光である」と言われました(ヨハネ8:12)。しかし同時に、「あなたがたは世の光である」とも言われました(マタイ5:14)。

この「あなたがた」のほうの「世の光」は、イエス・キリストの「世の光」と同じではないでしょう。私たち自身は光るものではありません。むしろイエス・キリストの光を身に受けて、それを反映した光でしょう。しかし、イエス・キリストと共にある時に、私たちも何らかの光をもつものとなっていると、イエス・キリストが宣言してくださっているのではないでしょうか。それを受けて、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:16)と言われるのです。今日のモーセの光は、それと少し違って、逆に、まわりの人々を恐れさせるものであったわけですが、私はここにも神様に触れる人間の姿があるように思いました。

(9)恵みを繰り返される

今日、新約聖書の方は、マタイ福音書15章に記された4千人の人々に、パンを与えたという奇跡物語を読んでいただきました。実は、これとよく似た話が直前の14章13節以下にも出てきます。14章の方は、5千人の人々にパンを与えたという物語でした。これはもともと同じ出来事であったのではないかという説もあるのですが、私はむしろ、イエス・キリストが、5千人の人々に対してなしてくださった奇跡をもう一度、見せてくださった。繰り返してくださったのではないかと思うのです。何度でも新しく奇跡を見せてくださる。それによって、私たちが恵みを忘れて不安になる時にも、「まだ気づかないのか」「まだ悟らないのか」と、イエス様の恵みの方が追いかけてくるのです。

新しくなるために神様のほうが新しくしてくださる。私たちは、それに応答するものでありたいと思います。

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