1. HOME
  2. ブログ
  3. 2024年5月12日説教「涙の預言者エレミヤ」松本敏之牧師

2024年5月12日説教「涙の預言者エレミヤ」松本敏之牧師

エレミヤ書1章1~19節 マタイによる福音書10章16~22節

(1)エレミヤの生きた時代と召命

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、今、預言書を読み進めています。4月8日に全部で66章もあるイザヤ書を終えて、4月20日から二つ目のエレミヤ書に入りました。エレミヤ書も全部で52章あります。イザヤ書に次いで長いものですが、イザヤ書は、実は三つの時代に書かれたものが統合されたものですので、そういう意味ではエレミヤ書が最大の預言書と言ってもよいかもしれません。エレミヤ書に続くエゼキエル書は全部で48章あり、この三つが三大預言書と呼ばれます。

エレミヤが活動したのは、紀元前7世紀の後半から紀元前6世紀の前半の約40年間です。エレミヤは、紀元前626年、20歳の若さで神の召命を受けましたが、彼が預言者として活動した40年間は、あらゆる面で混乱をきわめた南王国ユダの末期でした。その預言は、彼がこの時代に出会った二つの大事件が軸となっています。その一つは、南王国ユダの名君と言われたヨシヤ王の宗教改革であり、もう一つはバビロニア帝国による南王国の滅亡とそれに伴う捕囚体験です。バビロン捕囚と呼ばれます。

エレミヤ書は、このように始まります。

「ベニヤミンの地アナトトにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。」エレミヤ1:1~2

このヨシヤの治世第13年というのが紀元前626年でした。そしてこう続きます。

「さらに、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤのゼデキヤの治世第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。」エレミヤ1:3

「ゼデキヤの治世第十一年の終わり」というのが紀元前587年であり、同時に南王国ユダが滅んだ年です。そして国の指導者たちが三回にわたってバビロンに連行された最後の年です。それから約50年間におよぶバビロン捕囚が始まるのです。エレミヤはそうした厳しい時代に預言者として立てられたのでした。

(2)母の胎内に形づくる前から

エレミヤ書1章4節以下では、エレミヤの召命について述べられています。

「主の言葉が私に臨んだ。 『私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。  母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。  諸国民の預言者としたのだ。』」エレミヤ書1:4~5

神さまは、エレミヤに対して「私はあなたを(母の)胎内に形づくる前から知っていた」と言われました。

今日は、母の日ですので、このことも改めて心に留めたいと思います。エレミヤが母の胎より生まれ出る前から聖別されていたのは特別なことであったでしょうが、あなたを(母の)胎内に形づくる前から知っていた」というのは、すべての人に当てはまることでしょう。私たちはお母さんの胎内で形づくられました。言い換えれば、お母さんは、私たちにとってこの世界への入口となられたわけです。お母さんがいなかれば、私たちはこの世に存在しなかった。ですから、何よりもまず母の日に、母親に感謝をしたいと思います。それと同時に、「お母さんのおなかの中で私たちを形づくってくださったのは神様である」ということも忘れないようにしたいと思うのです。そして、「この人をこのお母さんのお母さんから生まれさせよう」と決めて送り出してくださったのは神様です。

幼稚園や家族礼拝で、母の日にいつも歌う歌があります。

「おかあさん大好き、おかあさん大好き、 神さまありがとう、おかあさんをくださって」という歌です。

お母さんに感謝をすると同時に、そのお母さんをくださった神様に感謝をするのです。

(3)母なる神のイメージ

イザヤ書49章15節以下にこういう言葉があります。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。 自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。 たとえ、女たちが忘れても 私はあなたを忘れない。 見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。」イザヤ書49:15~16

この言葉は、とても印象的です。母親がどういうものであるかをよく言い表しています。そして興味深いことに、神様の愛が母の愛にたとえられている。聖書の神さまは「父なる神」と言われることが多いですが、神さまは男をも女をも超えた方です。ここでは神様が母親のイメージで語られている。いわば母なる神として語られている珍しい箇所です。古い時代に書かれたものほど、そういう箇所が多く、時代が下るにつれて、だんだん神さまのイメージも男性的になっていきます。新約聖書になると、神さまがお母さんのイメージで語られることはほとんどなくなっていきます。かろうじてあるのは、ルカによる福音書15章の「無くした銀貨をどこまでも探す女」の話です。ただその直後に出てくる、「いなくなった次男をどこまでも待ち続ける父親」(いわゆる放蕩息子)のたとえは、どちらかと言えば、私たちの知っている母親の姿に近いかもしれません。

(4)映画「対峙」(“Mass”)

先日、「対峙」という映画を観ました。2021年のアメリカ映画です。ある高校で銃乱射事件が起きたということから始まります。映画そのものは創作ですが、実際にしばしば起きている銃乱射事件からインスピレーションを得ています。10人の高校生が撃たれて死に、加害者の生徒も校内で自らの命を絶ちました。そんな衝撃的な事件から6年の歳月が流れるのですが、息子エヴァンを殺された夫婦は前に進むために、セラピストの勧めにより、加害者ヘイデンの両親と会う決心をいたします。場所は聖公会の教会の奥の部屋です。最初と最後にセラピストと教会職員の女性と青年が登場しますが、約9割の時間は被害者の両親と加害者の両親の4人だけの会話です。緊張した空気の中で社交辞令的な挨拶から始まるのですが、話は次第に核心に迫って来ます。両親共に話すのですが、特に、それぞれの母親の言葉が胸に突き刺さります。

「あなたの息子のことを聞きたい。」 「なぜ?」 「私の息子を殺したからよ。なぜこういうことが起きたのかを知りたい。」 「悔いる気持ちは?それを見たい。後悔の念は?」 「すべてを悔やんでいる。変えられるなら変えたい、すべてを。最悪の結果になってしまった。」 「あなたが罰を受ける姿を見たい。」

しかし加害者の両親もこれまで十分苦しんできたのです。

「殺された10人の生徒たちの葬儀は盛大に行われたけれども、私たちの息子の弔いは拒まれた。そして葬儀は密かに行われた。リチャード(夫)は息子の埋葬を懇願し続けた。墓地が見つかった時、我が身を恥じた。神の慈愛の前に、人は物語を語りますが、私たちは隠すのです。」

「自分のことをよい母親だと思うことは許されぬ過ちですか。私は子どもたちを愛しています。他の親と変わらないのに、何が違ったのか。私は人殺しを育ててしまった。私には、もう何も信じられないのです。本当に喪に服したのか、悲しいのか、わからない」

映画の中では、銃乱射の場面も何も出てきません。しかし行き着く先のわからない4人の壮絶な会話は、サスペンス映画以上です。

最後まで言ってしまうと「ネタバレ」になってしまいますが、被害者の母親は、激しいやりとりの後、言葉を絞り出すように言うのです。

「あなたがたを赦せば、息子を失うと思っていた。(それまでは、加害者の家族を憎むことで何とか自分を保ってきたということでしょう)。でも今は言えます。お二人を赦します、心から。ヘイデン(加害者の高校生)を赦します。彼がやったことを赦します。分かったんです。彼は道に迷っていた。だから彼を赦します。今のままでは生きられない。これ以上、人生を支配されたくない。このままではあの子を見失ってしまう。あの子が必要なの。きっとまた会えるはず。あの子を胸に抱き続けるわ。愛を取り戻したい。だから赦します。」

(5)讃美歌「主イエスにより結ぶ愛は」

最後に、遠くから聖歌隊の練習の歌声が聞こえてきます。『讃美歌21』540番です。

「主イエスにより結ぶ愛は、 心も思いもひとつにする。」 「共に嘆き、共に泣いて、 互いの重荷を担い合おう。」 「罪とうれい無いみ国の、 尽きない交わり、望み待とう。」『讃美歌21』540番

よく知っている賛美歌ですが、この賛美歌がこれほど慰めに満ちた歌だと感じたことはありませんでした。全部ネタバレしたようですが、実はこの映画には、もう一つのクライマックスがありますので、ご安心ください。それは加害者の母親の独白です。そこまでネタバレしないようにしておきましょう。ぜひご覧ください。「対峙」という題です。

ちなみにこの映画の原題は“Mass”というのですが、それは教会のミサ(Mass)という意味と、無差別乱射を意味するMass Shootingの両方をかけた言葉のようです。

(6)エレミヤの告白

さて、エレミヤ書に話を戻しましょう。

エレミヤは神様からの召し(召命)を受けた時、まだ20歳でしたが、こう応じました。

「ああ、わが主なる神よ 私はまだ若く、どう語ればよいのか分かりません。」エレミヤ書1:6

実際、この後、エレミヤは大変な務めを果たさなければならなくなります。最初の数年間はよかったのです。先ほど、ヨシヤ王の宗教改革と申し上げましたが、それは、ヨシヤが南王国の王になって13年目(紀元前621年)に、修理中のエルサレム神殿の中から発見された神の律法書によって、異教化し乱れている国内の宗教改革を断行したことを指しています(列王記下22~23章参照)。

その内容は、ヤハウェのみを唯一の神として、偶像礼拝を禁止して、礼拝所をエルサレム神殿のみに集中・統一するというものでした。この律法書はのちに「申命記」と名付けられるので、この改革は「申命記改革」とも呼ばれます。申命記は、旧約聖書の内容に非常に大きな影響を与えるものとなりました。エレミヤはこの改革実施の5年前に預言者となり、最初は、この改革に賛成し、協力しました。

ところがヨシヤ王が戦死したことによって、この宗教改革はとん挫し、迷信や異教が巻き返し、エルサレム神殿も外面的形式的で生命のない礼拝に終始していきます。

そこでエレミヤは神殿の前庭に立ち、偽りの礼拝を非難し、神殿の破壊とエルサレムの滅亡を預言することになるのです(エレミヤ書7:1~15、26:1~12)。

しかしエレミヤの真意は人びとに伝わらず、かえって宗教家たちから神殿冒涜者として激しい迫害を受けることになります。

そして先ほど申し上げたように、紀元前587年にバビロニア帝国によってエルサレムが陥落し、南王国ユダが滅び、主だった人々は捕囚民としてバビロニアに連行されるのです。その時、エレミヤは強国バビロニアに抵抗することの無益さを訴えました。エルサレムの滅びは、神さまの意志が反映されていることを知っていたからです。むしろバビロニアと平和を保つことの益を考えて、ユダの人々の悔い改めとバビロニアへの降伏を主張しました。エレミヤは、売国奴、裏切り者として捕らえられ、空井戸の中に投げ込まれたりして、ひどい迫害を受けます。最後は強制的にエジプトに連れて行かれて、そこで殉教したと言われます。

エレミヤは涙の預言者と言われますが、その生涯は預言者の苦悩をよく表しています。彼の行動のほとんどは人びとに受け入れられず、かえって反感と抵抗を起こさせるばかりでした。

エレミヤ書の11章から20章は、エレミヤの告白と呼ばれますが、嘆きの言葉が書き連ねられています。20章7節以下には、次のような言葉があります。

「私は一日中、笑い物となり 皆が私を嘲ります。 私は語るごとに叫び 『暴虐だ、破壊だ』と声を上げなければなりません。 主の言葉が私にとって、一日中 そしりと嘲りとなるからです。 私が、『もう主を思い起こさない その名によって語らない』と思っても 主の言葉は私の心の中 骨の中に閉じ込められて 燃える火のようになります。 押さえつけるのに私は疲れ果てました。 私は耐えられません。 私は多くの中傷を聞きました。 『周りから恐怖が迫る。 告発せよ、我々は彼を告発しよう』と。 私の親しい者も皆 私がつまずくのを待ち構えています。 『彼は惑わされるだろう。 そうすれば、我々は彼に勝って、復讐できる』と。」

しかしこの精神的な苦悩によって、エレミヤは神の真実をより深く読み取り、確信し、自分の心と骨の中に神の言葉があかあかと燃えるのを見たのです(エレミヤ20:9)。
(以上、川崎正明著『旧約聖書を読もう』参照)

(7)新しい契約を結び日が来る

神様への信仰を貫き通したエレミヤが、涙で語る真実の預言は、全く新しい驚くべきメッセージへと高められていきます。それは「新しい契約」と呼ばれる思想です。

「その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。」エレミヤ31:31

この「かつて結んだ契約」というのは、は、出エジプト記の契約、特に十戒です。

「私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった∸―主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。」エレミヤ31:32~33

最初の契約は、「石の板」に記されましたが、「新しい契約」は、石の板ではなくて、「胸の中に授け」、「心に書き記す」というのです。

「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」エレミヤ31:34

これがエレミヤに与えられた神様の新しい契約の約束です。ちなみに「新約聖書」の「新約」という言葉は、このエレミヤ書31章31節に由来しています。古い契約(旧約)に対する新しい契約(新約)ということなのです。

その先に、この新しい契約の先に、イエス・キリストが立っておられる、ということができるでしょう。

関連記事