2024年3月31日説教「いのちの息」松本敏之牧師
創世記2章7節 ヨハネによる福音書20章19~23節
(1)弟子たちの恐れていたもの
イースター、おめでとうございます。
今日の箇所は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた」(20:19)と始まります。なぜ彼らはユダヤ人を恐れていたのでしょうか。
自分たちの先生であるイエス・キリストが捕えられて殺された。勢いに乗っているところで、その一味一党も一網打尽にしてしまえ、となるのではないか。そうなると、自分たちもみんな助からないであろう。もしかすると十字架にかけられるかも知れない。そう思って、じーっと閉じこもって、鍵までかけて隠れていたのです。
ただ私は、この時の彼らの恐れというのは、それだけではなかったのではないかと思うのです。彼らは、この時すでに、マグダラのマリアから「私は主を見ました」(20:18)という報告を受けています。弟子たちは、このマリアの話を聞いて、余計に気が動転したのではないでしょうか。
彼らが「家に閉じこもって、鍵をかけていた」というのは、彼らの心をもよくあらわしていると思います。この当時は、家に鍵をかけない方が多かったようです。彼らには大した財産もありませんでしたので、泥棒を恐れて鍵をかけたのではないでしょう。いろんなことが重なって、言いようのない恐れと不安を感じたのでしょう。
(2)平和があるように
そこへイエス・キリストが現れます。鍵までかけているのに、それを越えて入って来られるのです。弟子たちの恐れていたことが起きたのです。「出たあ」という感じかもしれません。そこでただ一言、「あなたがたに平和があるように」と言われました。それは、主イエスを見捨てて逃げた弟子たちに向かって、「それでもなお、神は共にいてくださる」という宣言でありました。しかも主イエスは、それを弟子たちの真ん中に立って、言われました。
私たちの教会、この交わり、この礼拝の中にも、その真ん中に主イエスが立っておられ、「あなたがたに平和があるように」と告げられるのです。私たちもこの弟子たちと同じように、何かを恐れているかも知れません。自分の生活に、自分の心に鍵をかけている。自分で自分を守ろうとする。主イエスでさえも入れようとしないこともあるかも知れません。
イエス・キリストは、十字架におかかりになる前に、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)と約束されました。今、その言葉のとおりに、戻ってこられたと言えるでしょう。
(3)主を見て喜んだ
「弟子たちは、主を見て喜んだ。」20:20
これもまた、別れの説教の中の次の言葉にさかのぼるものでありましょう。
「このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」ヨハネ16:22
その約束が今ここに実現しているのです。この喜びは、彼ら自身が、自分を閉じ込めていた罪の支配、死の支配、悪魔の支配の中から解放されて、新しい生命に生き始めるようになった喜びでもあります。もはやユダヤ人を恐れて、隠れることもしない。
このはじけるような喜びに重ね合わせるようにして、イエス・キリストは、再び同じことを言われます。
「あなたがたに平和があるように。」20:21
リコンファーム(再確認)です。
「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」20:21
そうおっしゃってから、彼らにふうっと息を吹きかけられました。息を吹きかけながら、こう言われた。
「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがた赦さなければ、赦されないまま残る。」20:22~23
ですからヨハネ福音書では、この瞬間、イエス・キリストの復活の瞬間、同時に聖霊降臨が起こったと言えるでしょう。使徒言行録よりも直接的です。これは、ヨハネ福音書独特の復活物語です。
(4)ヨハネ版、聖霊降臨
ご承知のように使徒言行録では違います。使徒言行録によれば、イエス・キリストの復活から聖霊降臨まで、50日間という時間的幅がありました。しかしヨハネは違います。復活の顕現の中にすでに聖霊降臨が語られています。復活と聖霊降臨が、同時的なのです。
「息」と「聖霊」は、もともと一つでした。旧約聖書の「霊」と言う言葉(ルアッハ)には、「風」という意味があります。
復活のイエス・キリストの口から出た息を、弟子たちはそのまま受けたのです。そして教会が始まっていきました。
教会は、社会学的に言えば、「イエス・キリストを信じる人の共同体」でしょう。しかし神学的に言えば、それに先立つものがある。「聖霊を受けてイエス・キリストに召された人の共同体」です。たとえ自分の意志でここへ来たと思っていたとしても、実は神様が導かれ、ここに一つの群れを作ってくださった。それが教会であります。そしてまたこの群れそのものも、神の息を受けて生かされているのです。
(5)第二の創造
これを読みながら思い起こすのは、創世記2章に記されている、最初の人間アダムの創造であります。
「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」創世記2:7
これは、最初の人間だけのことではありません。私たち人間が生きているのはすべて、神様が息を吹き入れてくださったからです。神様が霊、魂を吹き込んでくださったからです。物質からだけ言えば、人間は土と同じでありましょう。私たちがいくら土をこねて人の形を作ってみても、それは人形であって、人間ではありません。生命の主は神様です。
今、復活のイエス・キリストが弟子たちの前に現れ、まさに死んだようになっている弟子たちに息を吹きかけて生かされた。これはまさにあの第一の創造に匹敵する第二の創造がイエス・キリストによって行われたということではないでしょうか。レクリエーション(再創造)です。
私たちがクリスチャンとして生きるということは、復活の主から命の息を吹きかけられて、新しく生き始めるということです。私たちは自分で新しくなることはできません。罪の古き自分に死に、新しい命をイエス・キリストからいただくのです。命の息を吹き込み、「聖霊を受けよ」と言われる主によって新しい人間とされ、そして派遣されるのです。
(6)教会への委託
新しい命にあずかった人間は、じっとしていることができません。もはや鍵をかけて家に閉じこもっていることはできません。世へと押し出されていきます。「イエス・キリストは復活された。そして私たちに命の息を吹き入れられた。この命の主、イエス・キリストにつながろう。そして命の主、イエス・キリストが、望んでおられるような世界を築いていこう。」そのように押し出されていくのです。
主イエスは弟子たちを祝福して送り出してくださったように、私たちも祝福して、この世へと送り出してくださいます。不安はあります。罪もあります。しかしその罪もイエス・キリストが担い、お赦しになられる。その恵みを私たち自身がしっかりと受けとめ、またそのことをイエス・キリストの権威で、告げて行かなければならない。大きな使命です。
(7)「神の慈しみに包まれて」
以前、『キリスト新聞』のペンテコステ号(2004年5月29日付)の巻頭に、阿部仲麻呂(あべなかまろ)という神父様が「神の慈しみに包まれて」と題する興味深い文章を書いておられました。それは、新井奥邃(あらいおうすい)という方の文章の引用から始まっていました。新井奥邃は、明治後期から大正時代の特異なキリスト教思想家です。
「風が吹く。
ときに激しく、嵐のように。
ときに穏やかに、そよ風のように。
すべてのものは、
風となって吹き寄せる空気を呼吸する。
息はいのち。
息は愛情。
太古の昔から今日にいたるまで、
空気は風の流れとなって
世界中のすべての地域に広がっている。
その空気を私たちも呼吸している。
空気をもらい、空気を返す……。
まさに、いのちは
一息の間において包まれている。
呼吸の不思議さ。つながり。
同じ空気を肌で感じながら呼吸することによって
人も動物も植物も無機物でさえも
時代と場所の違いを超えて
互いに関わり合いながら一つに結びついている。」 新井奥邃『名実閑存(めいじつかんぞん)』より
この新井奥邃の言葉を引用しながら、阿部仲麻呂神父はこう続けます。
「聖霊降臨のときに弟子たちが圧倒的に実感した神の慈しみの力は、神の命の息吹を吸い込んだ弟子たちの呼吸を通して世界中至る所に広がっており、将来も廃れることなく続いていく。 まさに弟子たちが聖霊降臨の日に呼吸した空気を、あらゆる時代の、あらゆる場所のキリスト者たちも、2000年かけて呼吸し続けてきたのであり、その同じ空気を私たちも呼吸している。もはや、神の慈しみの息吹と無関係な場所も時代もありえないのだ。」
(8)同じ空気を吸っている
私はこの言葉を読んで、はっといたしました。イエス・キリストが呼吸されたその空気は、今日まで連なっている。イエス・キリストが弟子たちに向かって吹きかけられたその息は弟子たちの中に入り、弟子たちの息となり、この私たちの空気も、その息を共有している。空気は時代を越え、場所を越えて、世界中へ広がっている。2000年前と今日の私たちとの不思議な一体感を感じました。
私たちは、この後、3月召天者の記念の祈りをいたします。これに際しても私はそのことを思うのです。今、ここで私たちが呼吸しているこの空気は、その方々がここで呼吸しておられた空気と連なっています。
先週は北元逸さんの葬送式を行いました。北元逸さんは、3月23日に召天されましたが、その前の日曜日には、この場所で家族礼拝に出ておられました。私たちは、北元逸さんが呼吸しておられたその空気を、今もなお呼吸しているのです。
あまりにも突然の召天でしたので、ご家族には大きなショックと悲しみであったことと思います。召天された翌日、お宅へお祈りと打ち合わせに行きましたが、お連れ合いの裕子さんは、「今もそこに座っているようね。今にも出てきそうね」とおっしゃいました。もちろん姿はありませんでしたが、しかし逸さんが前日まで呼吸されたその同じ空気を、ご家族の方々も、私も呼吸したということはできるでしょう。
話を戻しますが、この礼拝堂に、これまで多くの人が集って、イエス・キリストからいのちの息を吹き込まれ、生かされてきました。その方々にいのちを吹き込まれた方の息を、私たちはまた吸っているのです。その方々を生かした霊が、私たちにも働いて、私たちを生かしている。イエス・キリストの息とつながり、弟子たちの息とつながっている。私たちの信仰の先達、歴代の牧師たちが呼吸したその空気、その同じ空気を、私たちも同じように呼吸しながら、この教会が生かされているということを、感慨深く思います。
神様は、終わりの日に、もう一度、私たちを立ち上がらされる、と約束してくださっています。
「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」使徒言行録2:17
教会は、その聖書のメッセージを、代々語り伝えてまいりました。私たちも神の息にいかされながら、その福音をのべ伝えてまいりましょう。